12話
許してクレメンス!許してクレメンス!
「というかツツジ、そろそろ帰らなくていいのか?」
時間はもう18時に近づいている。時計を指さしながら理人が言うと、ツツジはその指先から視線を時計に移して、ぎょっとした表情を浮かべた。
「やばっ! もうこんな時間……でも」
ツツジの視線がリリアに移る。突然やって来た謎の美少女。しかも兄と急に同棲までするらしい。なんともうらやましいが、その追及をするには時間がなさすぎる。
「うー……うう」
「?」
ツツジは頬に触れる。先程のあまりにも絶望的なその格差の感覚は、まるでつい数瞬前に体感したかの如くはっきりと残響を残していた。それにより傷ついたプライドが彼女の歪んだ理性をオーバーキルしていく。
若干ふらつきながら立ち上がると、ツツジはびしっとリリアに指を指した。
「理人兄さん! 今日の所はこれまでですが」指先をリリアから理人に移して「この事は明日き! っ! ち! り! 説明してもらいますからね!」
覚えておきなさいよ! そう言って慌ててドアに駆けて行くツツジを見送る。ドアを開けて外から鍵を閉められたのを見て、理人はツツジがいつのまに合鍵を作っていたのだろうと疑問に思ったが、まぁツツジならしょうがないと割り切る事にした。
あっという間に部屋にいい匂いが漂ってくる。リリアは焦げないように気を付けながら鍋を掻きまわすと、少しスプーンにとって味を確かめた。
うん、いい感じです。
スイッチを切り、皿に料理を持って行く。最後に小さくパセリを散らす。
「完成です!」
「おお……」
そう言ってリリアが出した皿には、まるで料理の本に載っているような見事な料理が盛られていた。それを見て榛名と理人は秘かに対抗心を燃やしたのだった。
「ただいまー」
玄関からロシア語が響く。どうやらカティアが帰ってきたらしい。
「さ、冷えないうちに食べましょ」
そう言ってリリアが人数分盛り付けて行き、理人はテーブルに食器を並べて行く。並べられた料理からは湯気が立ち上っていて自分で作って置いてリリアは空腹を感じた。全員がそれぞれ席につく。理人の隣に榛名、榛名の向かいにカティア。残された位置は一つ。
「さ、本日の主役はここよ」
そう言ってカティアが理人の向かいの席の椅子を引く。リリアは微笑むと小さくうなずいて引かれた席に座った。
「じゃあ」カティアが全員を見渡す。全員で両手を合わせた。どうやらこっちの流儀で行くのだとリリアは悟ると見よう見まねで手を合わせる。
「「「「いただきます」」」」
食事は非常に美味しかった。柔らかい鹿肉に舌鼓を打ちつつ談笑していると、あっという間に食事の時間は終わる。居間ではカティアがソファーに座りながらワイン片手にテレビを見ている。彼女の膝の上には榛名が狐の姿で転がっており、結局彼女の言う事には逆らえず大人しくモフられており、その眼からは光が消えていた。理人はそんな榛名の姿に心の中で合掌する。理人は流しで皿を洗っていた。
「どうでしたか?」
洗った皿を拭きながらリリアが聞いてきた。
「美味かったよ。意外だな、こういう料理をするイメージがなかった」
「意外ですか?」するとリリアは得意げに笑う「そんなに裕福ってわけでもないでしたし、自分で料理をする機会も少なくはなかったんですよ」
食器があっという間に片付くと、時刻はいよいよ夜も更けてきた。
カティアは結局泊まっていくと言った。シャワーだけ借りるわと言ってぶらぶらと風呂の方に歩いて行った。
「じゃあリリア、布団を出そうか」
「おお……!」
リリアが目を輝かせる。彼女を引き連れながらリリアの部屋となる部屋へ、2階に上がった。暗い部屋のドアを開けると、むわっとした昼間の余熱を含んだ空気があふれ出す。
「こりゃ今晩は開けっ放しで寝た方がよさそうだな」
このままじゃ暑すぎる。生憎エアコンはこの部屋が空き部屋となったときに老朽化もあって取り払われていた。
「すまん、面倒をかけて。これに関してはすぐに何とかする」
「いえ、大丈夫です。居候みたいなものなのですから、これくらいは我慢しないと」
リリアはそう言って謙遜するが、いかんせん今夜も熱帯夜になりそうだ。さてどうしたものかと考えて、ふと思いつく。理人は自分と榛名の部屋に戻ると、扇風機とコルクボードを持ってきた。コルクボードを階段のところに立てかけて階段をふさぎ、扇風機を開けたリリアの部屋の入り口に向ける。
「これで少しは涼しくなるはずだ」
「なるほど……!」
おおー、と言いながらリリアは日本製の扇風機を撫でた。ファンが内蔵され、円筒状の本体の内側から風が吹き出すタイプの扇風機。内側には小さな凹凸が、円筒の端には波状の構造が付いていて、流体力学のち密な計算を元に設計されたそれは送風の音を半分以下にするという若干無駄な技術の結晶の一品であった。
コルクボードを横にどけ、理人は部屋に戻ると押し入れを開ける。上段にはいつも理人と榛名が使っている布団、下段には真空パックに入った布団が畳んで押し込められていた。袋のジッパーを開けると中に空気が入って見る見るうちに中の掛布団が膨らんでいく。
「おお……これが夢にまでみた伝説のオフトゥン……」
リリアがその光景をキラキラした目で見る。理人は苦笑いを浮かべた。
枕、掛布団、敷布団をリリアの部屋に持っていき、布団乾燥機を中に突っ込んでコンセントを挿す。スイッチを入れると温風で布団が持ち上がった。
「一応、念のため、な」
真空パック内に保存されていたから大丈夫だとは思うがダニなどがいたら問題だ。布団乾燥機の『イオン除菌』のランプが青く光っている。効果はあるのかどうか。
「そう言えばリリア」
「はい、なんですか?」
1階に降りながら理人が尋ねる。
「シャワーと湯船、どっちがいい?」
「湯船?」
あー、と理人は上手く対応するブルガリア語を見つけようとするがどうにも浮かばない。結局そのまま説明する事にした。
「日本では湯を張る『バスタブ』を湯船って言うんだ」
「なるほど! それならばユブネに入ってみたいです!」
「了解。お湯を張って来るから着替え準備しておいてくれ」
「わかりました!」
そう言って軽い足取りで2階に上がって行くリリアを背に、理人は浴室へ向かった。朝の残り湯が残っているのを見ると浴槽用洗剤の蓋を開ける。
浴槽の栓を抜くと前日の残り湯が流れて行く。残りあと少しというところで、理人は水に手を付けた。
術式展開。
排水溝に渦を巻きながら流れ込んでいた水が、重力に逆らって螺旋を描くようにして浴槽の壁面を登って行く。やがてぴったりと浴槽の内側に張り付いた水流の渦が出来上がる。理人は開いた片手に持った浴槽用洗剤を垂らす。透明な水に白い洗剤が渦を描きながら融けて行った。
制御に集中し、整流に擾乱を誘発させる。一方向に浴槽の壁面を流れていた水流は波うち、渦を巻き、やがて泡立って行った。発散しそうな乱流を術式で制御しながら浴槽の内側に押しとどめて行く。
理人の額から汗が一滴したたり落ちた。乱流は勢いを増していき、擾乱は成長を続け、泡で出来た幾つもの渦はまるで木星の大赤斑の様に巨大で、それが何かの生き物の様に浴槽壁面を舐めてゆく。術式の負荷が増える。擾乱の制御がいよいよもって効かなくなる。限界まであと5,4,3,2,1――。
「――っかっ!」
霊力流入シャットダウン、術式自動消滅。制御を失った水がしぶきを立てながら浴槽の底にたたきつけられ、渦が消えていく。負荷が一気に解けて体にかかっていた重圧が一気に消えた。深みから上がってきたようにぜえぜえと肩で息をする。頬から汗が一筋垂れて床に落ちた。
「あなたなりの自主トレってわけね」
声に振り向くと、腕を組んだカティアが風呂のドア枠にもたれかかりながら興味深そうに彼を見ていた。まだ酔いが残ってるのか、頬が若干紅潮している。
「見てたんですか、カティアさん。言ってくれればよかったのに」
「後ろの気配に気づかないのは、狙撃手失格よ。もっと周囲に気を配れるようにしなさい」
「術式負荷を限界まで高めてたんです。無茶言わないで――いえ、努力します」
そう言って少しふらつきながら立ち上がる理人を怪訝な目でカティアは眺める。全力疾走した後の様な疲労を急激に与えるのは日常的に行うにしては身体への負荷が大きすぎる、
「だとしたら霊力の分配にもう少し気を配りなさい。復帰できるだけの霊力がないといざというときに使えないわ。ペース配分をもう少し考えなさい」
「了解」
きれいになった浴槽の栓をして湯を入れる。電子表示が『注湯中』になったのを確認して浴槽にふたをした。20分もしないうちに溜まるはずだ。二人はそれを確認するとリビングに向かった。
ちょっと短め




