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11話

「理人さん、どうもありがとうございます。結局こんな時間までかかっちゃって」

「いや、気にするな。新生活ってのはこういうもんだ」


 結局二人が買い物をあらかた終える頃には時刻は4時近くになっていた。理人の両手には山の様に生活必需品が入った紙袋が握られている。ずっしりと重いその袋は手に食い込んで若干の痺れを手に与えていた。後で手を開いた時に痛むだろう。

 日の傾き始めた空は既に夏から初秋の様相を呈しており、6月に比べて随分と早くなった夕日がそれを示していた。リリアと理人は夕焼けに赤く照らされた道を家に向かって歩く。夕飯は結局鹿肉のシチューになった。


「足りない物があったら」理人が歩きながらリリアに言う。「その都度買いに行けばいい。今無理に探しても見つからないさ」

「すみません、全部用意できれば良かったのですが」


 そうリリアが申し訳なさそうに言ったのに、理人は笑っていいよと答える。そうこうしているうちにあっという間に家の前にたどり着いた。玄関の鍵を回すと軽い音と共にドアの鍵が外れる。扉を開くと、薄暗い廊下の奥のリビングの戸が光っていた。理人は先に入ると玄関の電気のスイッチを入れる。薄暗かった玄関が有色LEDライトの少し黄色がかった光で照らされて明るくなった。玄関にカティアの靴が無くなっているのに理人は気付く。帰ったのか、それとも出かけたのか。


「靴はその辺に置いておいていい。明日にでも場所をなんとかする」


 後ろのリリアに言いつつ、奥に向かってただいまと言うと、リビングの方からお帰りと言葉が帰って来た。重なっていたが、この声はツツジと榛名か。

 ふと、彼は玄関の外で立ったままのリリアに気付く。なにやら少し考え込んでいる様な様子だった。どうしたのかと尋ねると、リリアはしばし考えた後に、意を決したように、しかし何処か静かに言った。


「ええと……ただいま、です」

「……ああ、お帰り、リリア」


 すこし恥ずかしそうに、だがしっかりとリリアはそういったのだった。ここが、今日から私の新たな家だと、自分の心に言い聞かせる。自分の何よりの優先目標、理人を陥落させる事。

 少々物騒な言い方をしたと思うが、カティアからも聞いていた――『リヒトはああ見えてかなり難攻不落よ』――こちらに来るときにIRUの輸送機の中でそう言っていた。実際見てて何となく感じたが、恐らく向こうはまだこちらの事を友人より少し親しい程度にしか考えていないのだろう。

 だが、今はそれでいいと思う。少なくとも堕とす宣言はしたし、それを納得もしてもらった。これからじっくり関係を詰めて行けばいい。

 だが、取りあえずは、とリリアは靴を脱いで玄関に上がる。前にはリビングに向かって歩く理人の背中。小さく、しかし深く鼻から息を吸い込む。鼻孔に満ちる木の匂い。そして、微かに香る『リヒトの匂い』。

 書庫にあった恋愛小説で読んだ、恋する乙女が想い人の香りを嗅いで思いを寄せる描写。当時の私は興味も無かったが今実際に恋する身となってわかる。それは自分が竜だからだろうか、それとも一人の女だからだろうか。今自分はリヒトを嗅いでリヒトに想いを寄せてしまっている。そう意識すると、顔が少し熱くなって来るのをリリアは感じた。

 果たして自分はこれに耐えられるのだろうか、どこかでもう辛抱たまらなくなってうっかり襲ってしまわぬのだろうか。無防備な理人の背中を、リリアは爬虫類の様に縦に細まったその金色の瞳で見つめる。その瞳は、獲物を狙う捕食者の瞳をしていた。

 理人は背中にぬめりとした視線のような感触を感じる。戦場で培った第六感の様なもので、何となくだが所謂殺意をもった視線のようなものを感じる事はあった。実際には、目標に対する赤外線レーザーによる照準の熱変動や、待ち伏せ(アンブッシュ)してくる敵の人間の耳には聞こえないような息遣い、そして経験から脳が無意識に割り出した危機的状況の前兆をそういった感覚として出力しているだけに過ぎないのではあろうが、少なくともこの視線はそうった殺意の視線とは違った物であるのははっきりしていた。

 どちらかと言うと、これはツツジが理人に向ける視線に近い、そう理人は思った。後ろに居るのは生憎リリア一人である。つまりはそういう事であった。

 若干の不安を覚えつつも理人はリビングの扉を開く。リビングではツツジがテレビを見ながらクッキーを齧っていた。膝の上には恐らく毛布代わりにされているのであろう狐の姿をした榛名がでろん・・・と横たわっている。


「し、死んでる……」


 理人がわざとらしく引きつった声で言う。


「……大丈夫だ、まだ生きてるぞ」


 若干眠そうな声で榛名が言った。くああ、とあくびをして軽やかにソファーの背もたれに飛び乗り、そこから飛び降りて床に付く前に淡い光に包まれると、そこにはいつもの10歳ほどの狐耳少年の姿の榛名が居た。


「カティアさんは?」


 理人が尋ねる。


「酒を買いに行くと言っていた。もう業務は終わりだとさ」


「うへぇ、あの生臭坊主め」


 理人はいつぞやの修道服を着ていたカティアを思いだした。彼女が本当の修道女かそれとも教会に住んでいるからかは知らないが、職業的にも普段の生活でも破戒僧の基準には十分達してると言っていいだろう。


「夕飯は何だ?」


 榛名が眠そうに眼をこすりながら訪ねてくる。


「鹿肉のシチューだ。商店街の肉屋でいいのが売ってた」

「おお、結構凄いの作るんだね」


 ツツジが反応する。


「でもこの時間から臭み取りとか大丈夫なの?」

「大丈夫だ、もう下処理してある奴だ」


 そう言って理人はリュックを降ろすと、中から袋を取り出す。袋の中に入っていたのは赤ワインで、中には赤い鹿肉が浸かっている。漬け汁の中にはコショウやタイム、ローリエなどのハーブやスパイスが浮かんでいた。


「榛名、調理するから手伝ってくれ」


 そう理人が言う。榛名は理人の背後のリリアが、一瞬残念そうな顔をするのを見逃さなかった。世話が焼ける。小さくため息をつく。


「生憎まだ若干寝ぼけてる、悪いが調理じゃなくてテーブルを片付けておくよ」

「あー……そうか」


 するとあの、とリリアが声を上げた。


「理人さん、私が手伝います」

「いや、いいよ、テレビでも見ていてくれ」


 するとリリアはふんす、と胸を張って見せる。


「大丈夫ですよ、こう見えて料理は得意な方なんですから」


 特にお肉は。そう最後に付け加える。手袋を脱いで石鹸で手をリリアは洗い出す。テレビを見ていたツツジの耳がピクリと動いた。

 ツツジは焦っていた。正直なところ、ツツジは料理が大の苦手である。彼女にとってどうしてあんな硬い野菜や肉があんなに柔らかくて美味しい物になるのか、その概念すら疑問視するレベルである。料理下手の中では彼女は所謂不器用なタイプに当たっており、自分が料理が苦手だという自覚はあった故にあまり台所に立たないようにしていたがそれが余計に彼女の料理スキルが下がるのに拍車をかけていた。

 あの女、ひょっとして私より女子力高くない……?

 ツツジは戦々恐々としながら後ろを見る。台所では兄に並んで急に今日家に押しかけて来た女――どうも理人兄さんにとっては知り合いの様ですが――が手馴れた手つきで玉ねぎの皮を向いている。どうもあの女、リリアと言ったか。お嬢様の様な雰囲気を漂わせていたがどうにも家事のスキルまで箱入りではなかったようだ。

 不味い、私が勝てる要素がどんどんなくなって行く……!

 ツツジの頬は先程の感触を未だにはっきりと覚えていた。自分には無い、まるで豊かな恵みを体現したかのようなその双丘とその柔らかさ。その感触でツツジの心の決定的ななにかの一本が既に大破していた。

 そうこうしているうちにリリアはなれた手つきで取り出した肉を絞り、漬け汁を取り除いて行く。すっかり臭みが抜けた鹿のすね肉は紫色に変色していた。


「随分手馴れているんだな」理人が切った玉ねぎとセロリをボウルに入れながら言う「正直なところ、そういうのが出来ると思っていなかった」

「そういうの、とは……あぁ、料理とか家事とかですね」


 リリアは少し気恥ずかしそうにしながら取り出した肉をトレイに載せた。理人に場所を訪ねながら使う鍋を出してIHコンロにセットする。


「お城に引きこもっているうちに、私も何かしなきゃー、って。そう思ってメイドさんのお仕事とか見ているうちに、やり方とか覚えちゃいました」


 リリアはオリーブオイルを鍋に引いて肉を焼き始める。ニンニクと一緒に炒めたからか、すぐに室内にいい匂いが漂い始めた。香りが鼻孔を刺激すると、思わず腹が音をたてそうだった。肉に十分火が通ったのを確認すると、野菜を入れて軽く火を通す。そこに漬け汁と、適量の水を加えた。後は煮るだけだ。


「よし、これで後は煮るだけですね」


 蓋を閉めながらリリアが言った。その様子を見ながらツツジは唖然とする。なにあれ、シェフみたいだったんですけど。理人、リリア、榛名の3人が彼女にとっては遥かな高みに見えた。ツツジは早速料理の話があったのか、親し気に談笑するリリアと理人を見て決意した。


「……私も料理、練習しよ」


 まずは胃薬を買いに行こう。彼女の知性は真っ先にそう判断したのだった。


お久しぶりです。

まだだ、まだ終わらんよ!(リアル事情でちと忙しかった。すまぬ)

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