10話
会計を終えて外に出ると再び生暖かい空気が身体を包み、先程よりも高くなった太陽の光が路面に反射して躰を炙る。背中の汗腺が一斉に開く様子を知覚できるような錯覚都と共に理人の背中がさっそく湿り気を帯び始めた。しかし速乾性のシャツは彼の汗を吸い、気化熱ですぐに体温を奪い始めた。風が吹くたびにひんやりとした感覚を覚えた。
「リリアは暑くないのか?」
理人がふと気になって言う。リリアの恰好は涼しそうなワンピースタイプの白いサマードレスに日光をよく反射しそうな白い長手袋と白尽くしで一見涼しそうだが、白い薄手のタイツにサマーブーツとはいえブーツを履いていてはこの湿度の多い日本の夏は厳しいのではと感じた。
「いえ、私も初めは覚悟していたのですけど、思ったより平気でした」
彼女はそう言って微笑む。
「それならよかった」
理人がそう言うと、リリアはスカートのすそをつまんで少し持ち上げる。一瞬ドキリとした。
「このタイツ、カティアさんがくれたんです。きっと涼しいわよって」
へぇ。理人は小さく呟く。
「なんでもしーえぬてぃー? 繊維とかを用いたこうねつでんどうぼう……」
そこまで言ってリリアの口が止まる。
「すみません、忘れてしまいました……」
それに対して理人はやっぱりと言った表情を浮かべた。カティアさんの事だ、おおかた技術装備開発部署あたりの試作品を渡したのだろうと何となく思ってはいたが案の定だった。
「高熱伝導防刃防弾特殊繊維、とか言ってたりしたか?」
「あ! そうです、そう言ってました!」
凄いんですよ、こんな滑らかな布地、今まで触ったことないです。それどころか暑い所で触るとひんやりして寒い所で触ると温かいんです。そうリリアが少し興奮気味に言うのを理人は何処か遠い目で眺めていた。
分子の並び方を人工的に操作されて作られた炭素からなる繊維は、ダイヤモンドの十数倍の強度を誇る。いつも理人が任務に行くときに着るアンダーウェアも同じ素材だった。その強化版としたら、きっとリリアが着てるタイツは高速回転するチェーンソーを押し付けてもきっとほつれ一つ起こさないだろう。
何て物を渡したんですかカティアさん。リリアに気付かれないように、彼は小さくため息をついた。
先程薬局で買った、商品が入った紙袋を持って再び商店街を歩く。
理人は空腹を覚えた。思えば今朝の朝食は運動前に消化のよい物を軽く食べただけだった。体を動かしたこともあって、どうにも何かを食べたい気分である。ふと腕時計を見ると時刻は既に昼時であった。少し早いかもしれないが何かを食べても問題ない時間ではある。
彼はふとリリアの方を気付かれないように見やる。彼女の視線はきょろきょろと左右に動いており、その先は商店街に並ぶ食事処の広告や看板などを目で追っていた。
どうも空腹らしいことが、どうみても丸わかりだった。理人は小さく苦笑いをする。
「リリア、そろそろ昼にしないか?」
理人は腕時計を付けた腕を見せる様に上げながら言った。
「そろそろいい時間だ」
するとリリアは嬉しそうにうなずいた。
「良かった、丁度私もお腹がすいてきたところだったんです」
いつ言いだそうかな、と思って悩んでました。そう言ってリリアは少し恥ずかし気にはにかむ。さっきの食事の感覚の違いの件もあって、どうも理人に対して食事の話題を切り出すのが気後れしていた。
周囲を理人は見渡す。商店街のいくつかある区画のうちの食事区画には様々な店がひしめき合う様に並んでいて、所謂『昔ながらの』雰囲気を漂わせるような喫茶店や、全国展開しているフードチェーンなどと言った店舗が並んでいる。
「何か食べたいものでもあるか?」
理人はリリアに尋ねる。リリアは並んでいる様々な店舗の中で自分の興味をそそられる物を探していった。
旧共産圏とはいえ、ブルガリアも国際化が進んでいる。日本食の有名なチェーン店が首都には並ぶようになったし、和食も無形文化遺産の登録もきっかけに広まった。しかしそれでもそういった料理があるとは知っていても実際に食べた機会は無いか数回しかなかった。そういう意味で、まだまだ彼女にとって和食は異邦の料理であった。
リリアの視界に様々な単語が入って行く。そば、牛丼、とんかつ……その視線が、ある料理の前で止まった。
「えーと、あれは……う……ど……」
「うどん、か?」
書道の様に崩して描かれた『うどん』の文字。日本語に不慣れな彼女にはまだ読みづらい物ではあった。
「理人さん、私うどんが食べてみたいです!」
そう興味津々に全国チェーンの店を指さしながら言うリリア。他のも気になったが、以前父親の取引の商品の中にあった輸入品のうどんの乾麺が気になり、一つ分けてもらったところ非常に美味しかった思い出があった。
「いいぞ。何うどんにする?」
店の前まで来ると、店の前にはメニューの札があった。日本語の表記の下に小さく英語でメニューの名前が書かれている。彼はメニューを見ながら自分が何のうどんを食べようか考えていた。リリアがメニューを見ると、様々なタイプのうどんが並んでいた。その中で、彼女は異彩を放つ一つのメニューに目が留まった。
「理人さん、このカレーうどんっていうのが私食べてみたいです!」
「ちょっと待った」
理人は焦った。2030年の現在でも白い服に付いたカレーうどんの染みを完全に落とすことの出来る洗剤は無かった。ターメリックというインドが生んだ非人道的無差別染色兵器に対抗する手段は一つ、漂白しかない。しかし彼女のあの白いサマードレス、少なくともあの光沢感は漂白剤にぶち込んで無残に漂白して良い物ではない事は明らかであった。しかも恐らくリリア・フェレ・ヴィトシャ、彼女は箸の使い方には慣れてはいないだろう。その状態でカレーうどんを、いやそもそも麺類を食べることはオートマチック拳銃でロシアンルーレットを行うかの如き所業だった。
止めねば。強く彼は決心する。
「……リリア、うどんはまた今度にしよう、他に何かないか? 何でもいいぞ、うどん以外ならな!」
「? 残念です……ではあのらーめんというのを――」
「おし、寿司にしよう! 日本では昔からめでたい事やお祝い事に寿司を食べる風習があるんだ、現金もあるし、何でも好きなの頼んでいいぞ!」
何がそこまで彼女を麺ものに駆り立てるのか、それは分かることは無かったが理人は最悪の未来を回避すべくリリアの手を取り、すし屋に向かって駆けだす。
「あ、理人さん、そんな強引にっ」
いきなり手を掴んで引っ張られたリリアが少し照れるが、それは心の中で渦巻く罪悪感と使命感に瞳が濁った彼には気付かれることは無かった。