8話
二人は肉屋を離れて歩き出す。
平日の午前中とはいえ商店街には主婦などと思われる女性の人影が多かった。リリアと理人は駅前から続く商店街を駅の方に向かって歩き出す。初めにシャンプーや歯ブラシなどの日用品を駅前のドラッグストアで買うつもりだった。
「そういえばさっきの話なんだが」
理人が話し出す。リリアは周囲の様子に目を輝かせながらも彼の話に耳を傾ける。
「はい。鹿の猟、でしたっけ?」
「そんな所だ。ニホンオオカミ、って聞いた事は?」
「名前に関しては、少し」
そうリリアは言う。理人は彼女の知識の範囲は存外広いのかと頭の片隅で思う。日本語の学習速度といい、案外勉強好きなのかもしれない。
「昔日本に生息していたオオカミ。種族としてはタイリクオオカミに近いが別種とも呼ばれている」
「絶滅、したんでしたよね」
「あぁ、随分昔にな」
昔は信仰の対象にもなっていたと考えられるニホンオカミ。時には人間の生活の一部となりながら生きていたが、明治維新による開国による影響で狂犬病の蔓延や家畜を襲う、等の理由で数が激減し、明治時代が終わる前に絶滅した。そんな事を少し前にニュースの特集で見た覚えがある。
「それで狼が消え、鹿が増えたんだ」
「それもそうですね、食べていた生き物が消えたわけですから」
すると、リリアは成程と言った表情で少し頷いた。
「つまり、人間が『食べる生き物』の側に収まろうと?」
「まぁ、そういうこった」
増えすぎた鹿による食害と、林業、農業への被害。タイリクオオカミを放つ計画もあるが進んではいなかった。そこで先に整備が進んだのが、鹿の狩猟と販売制度に関する法整備。今では免許があれば狩猟した鹿肉を解体して店先に並べることが出来る。狩猟や、解体のみを専門に行う業者もある位だ。
俺が中学生の頃ぐらいにあった、ジビエの大流行も一役買ったのか、はたまたそれを見越して流行させたのか。理人はそんな事を考え、まぁどのみち美味い肉が手ごろな値段で買えるなら問題ないとすぐに考えを切り替えた。
「私も鹿肉は時々食べます」
リリアが言った。
「実家でも店先に並ぶのか?」
「はい、店先に並ぶことは並ぶのですが、お父様が時々狩りに行って鹿を仕留めてくるんです」
「成程」
「10頭くらい」
「!?」
今10頭って言ったかリリア!?
「それでシンプルに塩と胡椒で丸焼き……ってどうしたんですか理人さん?」
理人は頭が痛くなる気がした。思わず足が止まり、片手で額を抑える。果たして我が家の財政は持つのだろうか。IRUから特別補助金とか出ないかなぁ。
その時、リリアがようやく自分が何を言ってしまったかを理解した。
「あ、あの、これは」
「いや、いい、いいんだ」
「ちちち、違うんです理人さん!」
耳まで真っ赤になるリリア。心なし口元からチロチロ透明な紫色の炎が漏れていたが、それに気付く様子はない。
「今の身体じゃなくて、私の元の身体というか、その!」
日本語を忘れてブルガリア語になるリリア。周囲の人々は唐突に始まったインターナショナル痴話喧嘩に思わずギョッとするが、その傍らに居るのが理人と気付いて「あぁまたこいつか」みたいな顔をして立ち去る。カティアと色々、やらかしてはいた。
「――ドラゴンの身体だと、普通のご飯じゃ足りないんですっ!」
リリアの盛大な叫び。さっと血の気が引き、思わず理人は片手をリリアの腰に回して引き寄せ、もう片手で口を覆う。もごもご言う彼女をよそに周囲に気を巡らせる。
こちらを注視する気配は、ない。
理人はそっとリリアの耳元に口を寄せて囁く。
「またこないだみたいな事があるかもしれない、『そういう発言』には、ちょっと気を付けてくれ」
リリアは小さく頷く。理人は彼女から手を離した。心なし彼女の頬が赤くなっている気がした。
「で、鹿10頭がどうしたって?」
くらくらし出した頭を押さえながら理人が尋ねる。リリアは頬を赤くしながらコホン、と口元を抑えてわざとらしく咳をすると言った。
「あちらの姿だと、人間の量の食事では当然足りないんです。そう言う事です」
「な、成程」
どうしてわざわざ竜の姿で食べるのか、そこが微妙に気になるところであった。
「何でも命を奪う事なので、出来れば残さずにあるべき姿で食べるって言う我が家の伝統なのだとか。あとは」
そう言うと、リリアは少し微笑む。
「やっぱり丸焼きの方が、美味しいので」
あぁ、やっぱ何だかんだ言って彼女はドラゴンなのだ。理人は心の中でそう思い、両方の意味でパックリやられる日がいつになるのか、再度心中冷や汗をかいたのだった。
「ちなみに人の状態だとどれぐらい食べるんだ?」
ふと気になった事を尋ねてみる。
「まぁ普通にお肉2枚とかですね」
「ん?」
「え?」
決定的な認識の違いをお互いに覚えつつ、理人は恐る恐る質問を続ける。
「……どのくらいの?」
「……このくらいの」
理人がそう訊ねると、リリアは両手の人差し指でくるんと円を描く。
すげぇ、B5用紙みたいな大きさの円描きやがった。しかも横じゃなくて縦に描いたぞこの娘。2枚食べるとすると薄く見積もっても推定1キロはありそうだった。理人は仕事柄、飯の量は多い方であったが、肉一キロは厳しかった。前菜もサラダもスープもパンも付け合わせも無しで食べて、精々750グラムが限度だった。
「それ、他には何か食べるのか?」
「え、ええ。普通にサラダとか……」
思わず喉元まで出たひっという悲鳴に似た何かを無理やり飲み込む。
「あ、あの、ひょっとして」
「いや、いい、気にしないでくれ。そしてそのままのリリアでいてくれ」
震える自分の腕に力を込め、震えを殺す。果たしてその震えは強大なドラゴンに対する恐怖か、はたまた武者震いか。この時の彼に知る由は無かった。
「や、やだ、そんな、私、そんなつもりじゃ」
一旦は引いた顔の赤みが再び彼女の顔に戻って来る。理人はそれに対して気丈にニッと笑う。その喉元に一筋垂れているのは暑さによる物か、それとも冷や汗か。
「まぁ、普段から鹿丸ごと食べるとかじゃなくてよかったよ。それじゃ家計が持たない」
「すみません……でも大丈夫です。実家から生活費は送られてくるので」
少し照れながら微笑むリリア。そこで、ふと気になった事を尋ねてみた。
「家計って、収入があるのです?」
「いいや、普通に給料がある」
「あっ……」
リリアの表情が固まる。マズい事を聞いてしまったと咄嗟に彼女が気付いた。
「IRUでの支部でのエージェントとしての管理業務で基本給は出るし、戦闘があれば多少の手当はある。最近は少し危ない任務が多かったから手当も多くて――……っ」
そこで理人は、ようやくリリアの表情に気付くのだった。
「あー……いや、なんでもない。忘れてくれ」
何ともいたたまれなくなって、思わず後頭部を掻く。
「いえ……その、すみません……」
「いいや、気にするな。好きでやってる仕事だ」
そう理人はケラケラと笑った。リリアも、釣られる様にして愛想笑いを返す。しかし、その瞳に奥に秘かに燃え上がるとある決意には、まだ彼は気付いていなかった。
「だから、まぁ何だ。お金の事に関して気にはしなくていいさ。もとより多少持て余してた位だ」
無理矢理話題を切り上げる。これ以上変な空気のままでいるつもりも無かったし、リリアもそれに応える様にして理人の手をとる。その手は心なしか少し強く握られていた。
5分程二人が手をつないだまま歩くと、アーケードが駅前に達し、途切れる。槍沢町唯一の電車の駅である槍沢駅の、古びた1階建ての駅舎の前にはバスが止まるロータリーがあり、バイオディーゼルの路線バスが3台止まっていた。




