5話
おひさ。
「ど、どちら様でしょうか……」
暫く口をパクパクさせた後にツツジがやっとの思いと言った感じで声を絞り出した。リリアは明らかに外国人なのに日本語である。
「はじめまして、リリア・フェレ・ヴィトシャです。お邪魔していますね」
リリアは音も無く立ち上がるとそう流暢な日本語で言いながらお辞儀をした。
「あ、浅間――穂高躑躅です」
リリアの挨拶に、かろうじて躑躅も反応してお辞儀を返す。浅間と言いかけて穂高と言い直した。それにリリアは疑問を抱く。彼女は理人にとってどのような存在なのだろうか、少なくともこうして彼の家に違和感なく上がり込んでいるという事はそれなりの関係なのだろうが、恋人と言うには雰囲気が違うのを感じ取っていた。どちらかと言うと、兄妹。
「妹さんですか?」
そう彼女は理人に尋ねた。
「ああ、妹のツツジだ。今-ちょっと訳あって、浅間の家に引き取って貰ってる。苗字が浅間なのもそのせいだ。しっかり血の繋がった妹だよ」
「あら、成程」
二人のブルガリア語での会話。当然ツツジには理解できず、彼女から見れば二人が内緒話をしている様で、どうも気に食わなかった。ツツジはツカツカと歩み寄ると、理人の隣の椅子の背もたれを少し乱暴に引き、そこに腰掛けた。心なし理人に寄る。
「道理で、似た様な匂いがしました」
「匂い?」
そう訊ねると、リリアは悪戯っぽく笑って右手の人差し指をそっと自分の鼻に当てる。
「私、そういう人の特有の気配とか、そういうのが何となく嗅ぎ分けられるんです」
ドラゴンですから。そう言ってウィンクした金色の左目の瞳孔は、縦にすっと細長い。
一方の理人はというと、リリアの理解が早かったおかげもあって想像よりも悲惨な修羅場にならなかった事に若干驚きつつも少し安心していた。だが最大の問題であるツツジは未だ健在である以上、まだ気を抜く事は出来ない。彼の背中は嫌な汗でじっとりしている。
「で、リリアさんは何の御用で私の兄の家を?」
リリアの人間離れ――実際ホモサピエンスではないのだが――した気配に気おされながらも、ツツジは『私の』を若干強調しながらリリアに尋ねた。意地悪のつもりだろうか、日本語で言った。しかしリリアはその日本語を十分理解する事は容易かった。
「私はこの度日本に留学させていただく事になり、理人さんに厄介にならせていただく事になりました」
よろしくおねがいしますね、そう言って微笑むリリアの態度には、一歩も引くつもりはないという意思と宣戦布告の意が傍から見てとれた。理人も愛想笑いをするが背中に掻いた嫌な汗が乾かない。隣のツツジが歯ぎしりする音が聞こえる。
「ツツジ、まぁそう言う事だ。リリアはこれから暫くこっちにいるから、仲良くやってくれ」
そう言って理人は何とか場を終わらせようとする。このまま続けるのは危険すぎると、数々の戦場を生き延びて来た彼の勘がそう告げていた。
「暫く、じゃなくて、ずっと、かもしれないですよ?」
「今なんて言いました?」
「いいえ、別に?」
リリアがブルガリア語でさらっととんでもない事を呟くが、ツツジには内容は分からない。少なくともこの場ではツツジはリリアのペースに完全に飲まれていた。
「よし、じゃあ部屋を案内するから、リリア、ついて来てくれ」
「はい、理人さん」
理人が立ちあがると、リリアはそう言って座った時に足もとに置いていたスポーツバック――よく見ればIRUの支給品のやたら頑丈なやつだった――を手に取る。
「持ちますよ」
「あら、ありがとうございます」
理人はリリアの差し出したスポーツバックを手に取って――思わず転びそうになった。何だこれ、思ったより無茶苦茶重い。
理人は少年とはいえ軍人である。体はかなり鍛えている方であるし、それなりに力もある。リリアが軽々とスポーツバックを持っているのを見てそこまで重くはないと思って受け取った理人は、そのバックが想像以上に重く、そしてリリアがそれを軽々と持っていた事に対応できなかったのである。
「だ、大丈夫ですか?」
「あ、ああ。ちょっと意外だっただけだ」
「?」
「こっちの話さ」
バランスを立て直すと理人はバックを持ち、リビングを出た。ツツジがリリアと理人の間に割り込んで理人の後ろにぴったりくっついてリリアを精一杯睨みつけるが、リリアはニコニコと微笑みを返しただけだった。3人は一旦玄関に向かい、階段を上って2階に行く。
「部屋はあそこがいいか……」
そう呟いて理人は空き部屋の一つに向かう。祖父が死んでからこの家には空き部屋が多かった。一つ、使っていない広い部屋がある。あそこでいいだろう。
「リリア、ここを使ってくれ」
そう言いながら理人が戸を開くと、そこには10畳の広々とした部屋が広がっていた。部屋には殆ど何もなく、奥に古びた桐箪笥が一つだけ置かれていた。理人は部屋に入るとバックをそっと畳の上に置く。
「おぉ……これがタタミですね!」
リリアは部屋に入ると少し興奮した様子でしゃがみ、畳を撫でる。
「不思議な感じです。何だか落ち着きます」
美女は何をやっても画になると言うが、畳に興味津々と言った感じで触れるリリアに思わず理人は見惚れる。その様子にツツジは不満げに理人に後ろから抱き付いた。
「ん?」
しかし悲しいかな、抱き付かれる程度では彼は最早動じない。ましてや実の妹に、である。反応が無い事を悟ってか、ツツジは悔し気に彼から離れる。
「あれ、そういえば」
そう言いながらリリアは立ち上がる。
「理人さんの部屋はどちらですか?」
「あぁ、俺の部屋は向こうだ。狭いし男臭い」
あと微妙に獣臭い。今頃カティアの手でもみくちゃにされているであろう榛名の事をふと思い出しながら、理人は付け足した。
「じゃあ、荷物は適当に広げていい。後で一旦雑巾がけした後、そこの押し入れとか、奥の箪笥とか、自由に使ってもらって構わないから」
そう言って理人は奥の箪笥を指さした。定期的に掃除はしているから酷く汚れている事は無いだろう。
「ちょっと待って」
ふとツツジが理人のシャツをつまみながら声を上げる。
「何だ?」
「……リリアさん、まさかここに住むんじゃないんでしょうね?」
深刻な顔で尋ねるツツジ。それに対して理人は少し肩をすくめると、仕方ないとも腹を決めたともいった感じで答えた。
「まぁ、そうなるな」
その言葉にツツジがあんぐりと口を開けて固まる。そしてそのまま目をぱちくりと瞬きさせると、彼女の視線はぎこちなくゆっくり理人と、奥でウキウキと荷物を広げ始めているリリアの間を何往復かした。
そしてわなわなと理人の両腕を掴む。
「み……」
「み?」
「認められる訳ないでしょうがああぁぁぁっ!!」
ツツジの悲痛な絶叫。それに思わずリリアも何事ですかと驚いてツツジの方に勢いよく振り向いた。ツツジはそんな彼女をよそに理人を両腕で揺さぶる。
「どうしてです理人兄さん!? 私と言う妹がありながらどこの竜の骨とも知れぬ女に手を出すなど!」
「言っている事が大分意味不明だぞ!?」
理人はツツジの両手を振りほどくと、両肩に手を置いて宥めようとした。しかしその手は彼女の両手によってがっしりと掴まれてしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
流石に心配になったのか、リリアがなだめようと立ち上がって近づいて来る。
「へ、平気だ……これくらいいつもの事だから」
理人は取り繕うが、ツツジのぎらついた視線は既にリリアに照準を合わせていた。
「おのれぇ! この泥棒猫めぇっ!」
ツツジはがっちりと握っていた理人の手を解くと、リリアに飛び掛かる。理人は何とかツツジの腰を掴むが、リリアは咄嗟に飛び掛かってきたツツジに反応できず――。
「きゃっ!」
「む――むぐっ!」
腰の所で固定される形になったツツジは盛大に、リリアの豊かな胸に顔を突っ込んだのだった。
ツツジの動きが、止まる。
「……」
「……」
「……」
室内に沈黙が流れる。ツツジの、リリアに伸ばしていて空を掴んでいた両腕は、だらりと垂れ下がっていた。
どれくらい時間が経ったのだろうか、モゾリとツツジが動きだす。その身体に力が入っていない事に気付いた理人はゆっくりとツツジの腰を離した。彼女は顔をうつ向かせたまま床にへたり込む。ゆっくりとツツジの手が動いた。その動作に理人がびくりと肩を震わせた。恐る恐ると言った感じで彼女は自分の胸に触れ、そして揉んだ。巫女服の白衣に皺が寄る。
ツツジが顔を上げる。その瞳からは光が消えていた。
「……ま」
「ま?」
ツツジの暗い瞳から、涙が一筋つぅ、と頬を伝って落ちた。
「負けた……」
彼女は、燃え尽きたようにしてゆっくりと床に倒れたのだった。
書いてて『何で俺こんなの書いてるんだろう』って気分になった。
多分賢者タイム的なサムシング




