1話
おまたせ
『例の騒ぎ』から1週間程経った。
8月25日の早朝。残暑厳しい中、穂高理人はランニングウェアを風にはためかせて走っていた。時速は15キロ位か。彼は周囲の景色が流れていく光景から自分の走る速度を見積もって走り続ける。途中の曲がり角を曲がると、遠くの前方に躑躅の家でもある浅間神社のある小山が、畑や水田の広がる中にポツンとそびえているのが見えた。
理人は足に力を込め、速さを増した。遠くに見えていた浅間神社のある山があっという間に大きくなっていく。目の前に大きく広がった山は、鬱蒼とした木々に覆われている。道はその山の脇を抜けるように走っていた。理人はその道を走り抜ける。やがて、左側に鳥居とその先へ続く階段が見えた。理人は進路を曲げ、境内に続く階段を駆け上り始める。心臓の鼓動が急激に増し、脚が重くなっていく。激しく、しかし規則正しく呼吸をし、全身に酸素を行きわたらせて――。
「はぁ、はぁ、はぁ」
階段を登り切って境内に到着したところで理人は足を止めた。そして少し速足で歩き出す。急に止まるのは心臓に良くないと知っていたからだ。
彼は参道を外れ、本殿の周りを反時計回りに廻る様に歩いて行く。山頂は平らにならされていて、その山の小ささの割には広い。1週する頃には呼吸も鼓動も落ち着いていた。彼は賽銭箱の前で立ち止まると後ろのウェストポーチに手を突っ込み、中からスポーツドリンクの入ったボトルを取り出すと蓋を開けて飲み始めた。喉が鳴る規則正しい音が頭の中に響く。
1リットル程もあったボトルの中身を半分以上飲み干すと、理人はぷはぁと盛大に息をついた。そよ風が境内を吹き抜けていく。汗に濡れた火照った身体が涼しくなる、心地よい感覚。彼は一息つくと、キャップを閉めてボトルをウェストポーチにしまい込む。そしてそのままクールダウン・ストレッチに入った。使った筋肉を優しくほぐし、伸ばしていく。
「あ、お兄ちゃん」
ストレッチが終わろうとした時に、理人は声をかけられた。声の方向を向くと、見慣れた紅白の巫女服を着たツツジが居た。寝癖がまだ完全には直っていないのを見て理人はツツジが、彼が早朝のトレーニングのついでにここに寄ることを知って待ち構えていたのだと理解した。
「朝早くから、頑張ってるね」
「身体がなまって仕方ないからな」
先日の戦闘で盛大に負傷した、左腕の二の腕のリハビリテーションでもある。理人はそれを言わずに喉の奥に飲み込む。
「これから帰る所?」
「ああ。一通りトレーニングは終わったしな」
先程のクールダウンもあって大分四肢の筋肉がほぐれた感覚がする。このまま帰ってシャワーでも浴びるかと理人は呑気にそんな事を考えていた。
「ふーん……」
そんな理人を、半目で見つめる躑躅。獲物を狙う獣の様な眼光で理人の身体を舐め回す様に見る。
「ねぇ、理人兄さん」
「何だ?」
「家、付いて行ってもいいです?」
この時理人はどこか嫌な予勘がしたものの、大したことはないとその予勘を脳内で却下した。可愛い妹の頼みだ。これくらい聞いてやろう。
だが。
「そっちの親御さんは、大丈夫なのか?」
浅間躑躅としての彼女には勿論両親と、一人の姉がいる。彼等は血がつながってはいないとはいえ、ツツジの大事な家族に変わりはない。
「大丈夫。いつも私が出かけているのは、みんな知ってるから」
「……そうか」
そう気の抜けた様な返事をしながら理人は歩き出し、ツツジはそれについてきた。鳥居をくぐり、階段へ。
彼女が出かける、要するに実の兄の元に行く事を彼等がどう思っているか。血のつながっていないとはいえ10年近く育てた娘が実の兄に惹かれるという事が浅間夫妻にとってどういう事なのか、理人にとってはそれが気がかりでしょうがなかった。
まぁ、でも。
自分はまだ16歳の正直まだ尻の青い餓鬼だ。決定できることは少ない。浅間家の問題にどうこう口出し出来る立場でもない。だが浅間家としてではなく、穂高兄妹としての問題なら――
「……はぁ」
「ん? どうしたの?」
「いや、なんでもない」
その時は、今度こそけりをしっかりつけよう。そう理人は静かに思った。
思考の海から戻った理人がふと気が付くと、すっかり階段を降り切っていた。木陰が途切れて日差しが肌を炙って来る。2人はそのまま、まだ少し夜の冷たさの残るアスファルトの上を理人の家に向かって歩き続ける。ランニングシューズと白木の下駄、2人分の足音が静かに響く。
「そう言えばツツジ」
理人の家が見えて来た辺りで、ふと気になった事を理人が切り出した。
「なぁに?」
「いや、服の事なんだがな」
そう言って彼はツツジの服装を見る。髪を水引で纏めてはいないものの、彼女が着ているのは立派な巫女装束であった。神事に用いる物をそう日常的に着ていい物なのだろうか。
「前も言ったでしょ、お兄ちゃん。別にいいってお義父さんにもお義母さんにも言われてるって」
「うー……ん。そうは言ってもな……」
理人は別に信心深い訳ではないが、連合で働いている以上それらのミームには知識として触れている。その観点から見ると、どうしてもツツジのそれには違和感を覚ええない部分もあった。ツツジの義親が、2人とも連合管理下であることも如何にも引っかかる。
――血縁者に理人という『深い』職員がいる場合別段不思議な事ではなかったが。
「まぁ、別にあんま深い事じゃないかもね」
「と、言うと?」
「お義父さんもお義母さんも、多分私に神社継いでほしいんでしょ」
お義姉ちゃんは出てく気マンマンだしね。そう言って少し早歩きになって理人を離して、ツツジは立ち止まる。理人もそれに合わせて立ち止まった。彼女は悪戯っぽく笑いながら振り向くと、続ける。
「だから、理人兄さんも一緒に継いでくれると助かるんです」
そう口調の変わった状態で言ってツツジは理人に歩み寄り、彼の胸板にそっと手を置いて身を寄せる。
「残念だったな。生憎妹と結婚する気はない」
「いいんですよ? 愛さえあれば」
「愛さえあれば何でも許されるってのは詭弁だろう……」
そう言って理人はツツジの両肩に手を置いてそっと彼女を引きはがし、そしてそのまま早足で歩き出す。
「あ、待ってよお兄ちゃん!」
剥がされたツツジは慌てて彼を追って歩き出した。
もう理人の家はすぐそこに見えていた。彼の家のレンゲツツジの植え込みはまだ青々と茂り、夏の終わりを感じさせない。
玄関の前にたどり着くと理人はウェストポーチから鍵を取り出した。慣れた手つきで鍵を片手で開け、そのままドアを開ける。
「ただいまぁ」
家に入ると彼は家の奥に向かって言った。すると奥からおかえりと榛名の返事があった。コンロを切る音、そしてトテトテと走って来る音が聞こえてくる。理人は屈んで靴の紐を手早く解き、脱いで下駄箱に入れた。
「お帰り、ご主人」
榛名の視線が理人に向かい、そしてすぐに理人の後ろのツツジに向かう。
「それといらっしゃい、妹君。ゆっくりしていってくれ」
「お邪魔しまーす」
そう言って彼女も履物を脱いで玄関に上がった。
「ご主人、シャワーかい?」
「あぁ、汗だくだからな。先に浴びてくる」
「了解だ。あ、そうだ。昨日張った湯船の残り湯がいい塩梅に冷えているかもしれないぞ」
「了解」
そういって理人は2階に上がっていき榛名はリビングに戻っていった。ツツジは一瞬どちらに付いて行くか迷ったが、すぐに理人の後を追う事にした。木造の階段が軋む。理人はまっすぐ自室に入ると、床の上にあらかじめ畳んで置いてあった着替え一式を取る。そしてそのまま部屋から出て真っすぐ風呂に向かった。そんな彼のすぐ後にツツジがぴったりついて来る。
そうして理人はそのまま1階に降りて、脱衣場のスライド式のドアを開けて脱衣場に入ってドアを閉めようとした。そこで違和感に気付く。
「……おいツツジ」
ドアが、閉まらない。そして彼は、そこでようやく今までピッタリ後ろにくっついて来ていたツツジの存在に気付いたのだった。
「はい、なんでしょう?」
「この手はなんだこの手は」
理人がドアを閉めようと取っ手を掴んで力を込めているが、ツツジは負けじと外側の取っ手を掴んでこじ開けようとしていた。
「はははー、可愛い妹め。お兄ちゃんをあまり困らせようとするんじゃないぞー? さぁ、リビングで冷えたお茶でも飲んで待っていてくれ」
「いえいえ、理人兄さんの御背中や様々な所をお流しするのも妹の務めですから」
理人はさらに力を込める。鍛えられた理人の腕の力によりドアはツツジの抵抗空しくゆっくりと閉まっていく。しかし、ドアが閉まろうとした直前、ドアの隙間からツツジが素早く手を差し込み、ドア自体を掴んで強引にドアをこじ開け始めた。理人はいつぞやのモンスターパニック映画で見た、怪物が倉庫のドアをその巨大な両腕でこじ開けていくシーンを思い出し、妹に対して心底恐怖を覚えた。
「さぁさぁ理人兄さん拒むことは有りません、ただ仲のいい兄妹が身体を洗いっこするだけです。なんの問題もありませんから」
「問題だらけなんだよなぁ……!」
理人も必死にドアを閉めようとするが取っ手は小さな窪みの形で、指先でしかつかめない。力をしっかりと入れられなかった。そうしているうちに戦況は逆転し、ドアがゆっくり開いて行く。ドアが開くとそこにいたのは息を荒げ、頬や首筋に髪を張り憑かせた目に怪しげな光を煌々と宿すツツジの姿だった。なにこれこわい。理人を再び尋常ならざる恐怖が襲う。
このままでは押し負けるのは確実だろう。理人は解決策を脳内で必死に模索する。そして数瞬の後、彼の頭脳は即座にプランBを考え付いた。理人は力を緩める。ドアがツツジの力によって完全に開かれた。
「さぁ、理人兄さん。これで邪魔者はもういません、さぁ一緒に洗いっこ「あぁ、いいぞ」え?」
そうして理人は不敵に笑うと、言った。
「一緒に入るか、ツツジ」
次はもうちょっと早く投稿できるかも




