エピローグ
夢を見た。いつもの夢だった。
時々夢に見るいつもの場所で、私はお気に入りのドレスを着て膝を抱えていつもの様にうずくまっている。いる。目が眩むほど明るいけど、何となく周囲に何があるかは分かった。石造りの部屋に、鉄格子。その向こうは真っ白な空っぽの空間が広がっていて、時折小さな影が現れたり消えたりしている。
これは牢獄だ。
牢獄の鍵は内側に付いている。当たり前だ。私がここに自ら入ったからだ。周囲の人の、異質な私に向けられる警戒、敵意、恐怖。そういう物から、私は逃げ出した。
外に出なくちゃいけない。じゃなきゃまるで罪を犯した囚人だ。でも、出ようと思っても体が恐怖で動かない。
怖い。
怖い。
怖い。
何とか出ようとしたこともあった。でも、鍵は無かった。
いや、違う。鍵は持っていた。でも何かに理由をつけて、私は逃げていた。鍵の存在を、忘れようとしていたのだ。
ふと、暖かい感触。顔をゆっくり上げると、格子の前にたたずむ人影。
その人影を見た瞬間に、私は手に質量を感じた。手には、錆びた鍵。いつもとは違う。はっきりと質量と存在を掌の中で放っている。
人影が、私にゆっくり手を差し伸べる。影は真っ黒で、触れる物を飲み込んでしまいそうな暗黒だった。
私は手を出せないでいた。少しすると、人影は少し俯いたようになったあと、何だか少し寂し気に手を引いた。
これが最後の機会なのかもしれない。この人影を掴まなければ、きっと私は、一生このままおびえながら生き続けることになるのだろう。手の中の錆びた鍵が、私に何だか勇気を与えてくれるような、そんな感触。
だから、私は人影の手を掴んだ。
掴んだ人影から何かが染み出してくる。生暖かい、赤。血だった。私のお気に入りの白いドレスの袖が、紅く染まっていく。人影は一瞬私の手を振り払おうとした。でも私はその手を離さなかった。人影が下がるのにつれて、まるで追い詰める様に私も立ち上がり、人影と身体が触れた。
人影と目があった。そんな気がした。そこから感じたのは、恐怖。私のそれと同じような、世界の物全てに対する様な、深い恐怖が、黒錆で覆い固められている様な、歪な感じ。しかし、感じたのはそれだけではなかった。
恐怖の奥に、今にも消えそうだが確かに感じる、勇気の炎。
現状を変えたいと望む、意志の光。
そして、決意。
ああ、彼は、私と同じなんだ。
冷たい。
人影から感じる心地よい月夜の様な冷たさは、私の光で焼け付いた心をゆっくり冷やしていく。
ありがとう。
そう、私は小さく呟く。そして感じる。何処か懐かしい様な、焦がれていた様な、そんなものの匂い。
――理人さん?
「っ! 先生、患者が目覚めました!」
…………ここは?
「大丈夫。我々は貴女の味方です。自分の名前は分かりますか?」
■■■■■。
「結構。では、このペンライトの光を目で追って下さい」
まぶしい。
「ありがとうございます。最後に、この模様が何に見えますか?」
……木?
「ではこちらは?」
……アゲハチョウ?
「最後にこちらです」
……塔。
「ご協力に感謝します。とりあえず今はゆっくりお休みになって下さい。じきに、回復します」
……会わなきゃ。
「はい?」
あの人に、会わなきゃ。
「うわああああああああああもうやだあああああああああ!!!」
IRU日本支部内の病棟で、病室に絶叫が響き渡る。声の主は彼が寝ているベッドを半分起こしながらしきりにテーブルをキーボードでも打つように叩いていたが、今は頭を掻きむしり、激しくベッドの上で暴れていた。激しく、とはいっても本人にとっての激しくであり、実際はベッドの上で小さく痙攣している様にしか見えないのであった。相部屋の病室だが、彼以外の患者はいなかった。
「ご主人。いい加減諦めろ。嘆いていたって終わらない物は終わらないんだ」
彼のベッドの横では、金髪のスーツを着た20代程の男性が膝の上に置いたノートパソコンでタイプを続けている。彼の目の下には真っ黒な隈が出来ていた。足元には栄養ドリンクの空き瓶が十数本入ったビニール袋が置いてある。
「榛名、お前いつのまに狐から猫になったんだ?」
「『大熊猫』ってか? ほら、ご主人宛てにメールだ。拝啓、穂高理人少尉。やったな、早速昇進が伝わっているぞ」
「その代価がこれか? 泣けるぜ」
理人は再びテーブルをたたき出す。何も無いように見えるが、彼のかけているARグラスから見た視界には、テーブルの上のバーチャルキーボードと報告書作成の為のウィンドウの数々が表示されていた。
「あー、くそっ。疲れた」
理人はARグラスとコードでつながっているベッド脇のノートパソコンを取る。AR表示をオフにし、ARグラスを外した。使えるウィンドウが小さくなったが、目と指が疲れていた。
「ARも考え物だな」
「もともとヘビーに使う物でもないだろう。戦闘の時に一々腕の端末を確認しなくても済む程度に関考えた方がいい」
「確かになぁ……表示が最小限ならまだしも、色々な表示をしていると心なしモニターよりも目が疲れる気がする」
理人はそう言って右手で目の間を抑える。左腕は怪我の再生のため包帯が巻かれており、代わりに左足から点滴のチューブが2本伸びていた。ノートパソコンには『装備品の破損・紛失に関する報告書』のタイトルの始末書。既に一万字を超えている。
「くそっ、やめだやめ、休憩だ」
理人はファイルの上書き保存を行い、ノートパソコンをたたむ。そして彼はベッドを倒して、そのまま横になって右腕で顔を抑えた。
「さっきから言葉が汚いぞ。大分疲れている様だな」
榛名もノートパソコンを畳み、窓の外を眺める。窓の外には病棟の中庭である明るい地下庭園の風景が広がっていた。
「……気にしているんだな?」
榛名がちらりと理人の方を見て言った。理人は動かない。
「……割り切れない部分も、あるさ」
理人は腕で目を隠したまま、言った。
病室が静寂で満ちる。病室の防音扉の向こうからナースステーションの喧騒が微かに聞こえていた。
「だがそれがどんなものであれ、飲み込んで進んでいくしかないんだ。抱えたまま」
理人は目を覆い隠したまま呟く、まるで自分に言い聞かせるように。彼が先の戦闘で殺害したうちの、遺体の身元が判明していたのは4人のうちの3人。先程カティアから送られてきたデータによると、そのうちの理人が真っ二つにしたあの少女はやはり理人と同じ、16歳だった。
「そうだ……進むしか、ないんだ……」
榛名は少し目を細めたあと、軽くため息をついた。
「だがご主人は、どうも先を急ぐ質がある」
彼はノートパソコンを膝の上に載せたまま器用に、理人の枕元に置いてあるプラスチックの水差しから紙コップに水を注いで、そして一気に呷った。ごくごくと喉が鳴る。コップの水を飲みほして、榛名はぷはぁと息をついた。そのまま榛名は紙コップを握りつぶして、放り投げる。紙コップは壁に当たって跳ね返り、入り口の横の小さなゴミ箱に入った。
「休むべきだろう」
榛名は膝の上のノートパソコンをベッドの脇のテーブルに置く。淡い金色の光が彼を一瞬覆い、次の瞬間そこには大型犬サイズの狐が一匹、座っていた。狐はくぁぁと一鳴きすると、床に丸まってすぐに寝息を立て始めた。
「休むべき、か……」
理人は呟く。急ぎ過ぎている、という表現が理人の頭の中で妙に引っかかっていた。先を急ぎ過ぎている、どちらかと言うと当てはまる様な気がするのは、■き急ぎ――
ドアが開く音で思考が中断させられた。理人がドアの方を向くと、セミロングの金髪の長身の女性。カティアだった。今は空兵隊の証である深い紺色の制服を着ている。
「リヒト、調子はどう?」
彼女は微笑みながら訪ねてくる。理人は床で寝ていた榛名の寝息が変化するのを感じた。こいつ、狐の癖に狸寝入りしやがった。
「順調です。3日後には退院できるみたいです」
理人が左腕を持ち上げて言う。カティアの顔が一瞬、後悔の様な表情で僅かに歪む。そして何かを言おうとして、飲み込んだ。
「そう、なら良かったわ」
カティアの表情が安堵したような微笑みに戻った。理人はその変化をはっきりとわかっていたが、それには触れない事にした。俺には関係ない。そう心の中で呟く。
「えーと、それでー……」
そこまでカティアが言ったところで、話が詰まった。気まずい沈黙が部屋の中に流れる。カティアは話題に選びあぐねている、そんな感じだった。静寂の中榛名の狸寝入りの呼吸音が静かな部屋に響く。いい加減起きろと理人は心の中で呟いた。
「あ、そうだ、そうよ。リリアちゃんの事!」
数瞬の沈黙の後、ようやく打開点が開けた。
「そ、そうですね、リリアさんはどうしたんですか?」
理人も話題に食いついた。
「彼女、無事目を覚ましたらしいわ。精神汚染も軽微。あまり干渉に時間をかけられなかった事、彼女が竜であり精神構造に人間のそれと違う箇所があった事、あとは……」
「あとは?」
そう理人が聴くと、カティアは微笑んで言った。
「リヒト、貴方彼女を止める為に貴方の霊力を流し込んだわよね?」
「はい」
「それが幸いしたわ。浅い所にあった汚染術式が貴方の霊力で破壊されていたの。汚染が軽微だったのもそのお蔭、って感じよ」
「……成程」
自分が行った行動が、図らずとも良い結果に繋がったわけか。今思うと、もしあそこで素直に術式を解くという選択肢を思いつき、それを取っていたら、自分は此処にいなかったかもしれない。そう考えると、理人の背筋に冷たい物が走る感触がした。
「ただ、副作用が無い、とも言えないわ」
「副作用?」
「貴方、変な夢を見なかった?」
夢。そう言われても、理人には朧げな記憶しか残っておらず何とも言えなかった。
「すみません、よく覚えていないです」
「謝ることは無いわ、夢なんてそんな物だから。私が言いたいのは、貴方が彼女に霊力を流し込んだ過程で彼女に貴方の記憶が流れ込み、一時的な意識の共有が起こった可能性があるって事よ」
「意識の共有?」
「コンピューターを無理やり並列稼働させるようなもの、と言えばいいかしら。よっぽど特殊な状況じゃなきゃ起こりえないから例が少なくて何とも言えないのだけれど、正直、何が起こるか分からないわ」
理人の胸に妙な違和感が起こる。それは自分の過去を他人に知られる事への抵抗か。いや、過去の情報程度なら連合のデータベースに保存されている。今更な事だったが、しかし理人は何故か胸の中の抵抗感を拭う事は出来なかった。
「不安なの?」
カティアがそんな理人の心中を見透かしたように聴いて来る。一瞬ギクリとしたが、すぐに平静に戻った。大丈夫、この人ならいつもの事だ。
「不安じゃない、と言えば嘘になります。と答えておきます」
「……成程、ね」
カティアは目を少し細めて聞いた。
振動音。カティアのポケットからだった。
「失礼」
そう言ってカティアはポケットから端末を取り出すと、連絡を取り始めた。
「はい、こちらカティア・クリチェフスカヤ」
早口のロシア語で話し始める。仕事モードだ。
「はい……はい……え?」
困惑の表情を見せる。
「はい……分かりました。では、そのように」
そう言ってカティアは電話を切った。
「リヒト」
そう言うカティアの瞳は真剣であった。
「リリアちゃん、今からあなたに会いに来るみたいよ」
「……はぁ?」
思わず素っ頓狂な声を上げた。榛名は気付かれないようにベッドの下にこっそり移動を始める。
「ちょ、どういう事ですか!?」
「何でも意識が戻り次第、理人に会わせろー理人に会わせろーって呟いていたみたいだから、今は家族同伴の元ここに向かってるみたいよ」
「なにそれこわい」
突然の親御さんとの引き合わせ。これは最早死刑宣告と言ってもいいのでは? 理人は困惑した。
「あー……取りあえず理人、覚悟決めなさい」
「決めるってどういう事ですか!? ってあいててて……」
思わず出した大声が響いて傷が痛んだ。逃げる事はどうやら叶わぬ願いらしい。あと榛名、お前出てきやがれ。理人は心の中で毒づく。そうこうしているうちに、廊下から足音が響いて来る。
「いやぁ! 来た! 来た! きっと来た!」
女々しく騒ぐ理人。戦場とはまた違う、未知の恐怖が彼を襲っていた。
「まだこことは限らないでしょう? 静かにしてなさい」
「ふぅーっ、ふぅーっ、ふぅーっ」
過呼吸気味になりそうな理人にカティアが告げる。
足音は大きくなっていく。それに比例して理人の心臓の鼓動も大きくなっていった。足音はそのまま病室の前で――通り過ぎた。
「ほ、ほっ……」
思わず変な息が漏れる。どうやら思い違いだったようで、理人はその間に覚悟を決めようと深呼吸をする。
しかし、足音は一度止まり、そしてあろうことか戻ってきたのだった。
「大当たりね」
「――! ――!」
声にならない声を上げて理人は必死に酸素を肺に取り込もうとする。
そして、扉が開かれた。
「失礼するよ」
流暢なロシア語。入ってきたのは銀髪の男性。若若しい外見をしているが、その穏やかな表情には年季が入っている。という印象を受けた。
続いて入ってきたのは緩やかにウェーブした金髪の女性。落ち着いた物腰だが、動作に何処か気品を感じる。
最後に入ってきたのは金髪の女性。ウェーブした長い金髪をポニーテールに纏めている。履いているジーパンと相まって活発な印象を受けるが、前の2人と同じでどこか気品を理人は感じた。
「こんにちは」
カティアが挨拶をする。理人もそれにつられて思わず日本語でこんにちはと言った。すると男性は少し驚いた表情をすると、それからすこし拙くもはっきりと、『こんにちは』と言ったのだった。それに理人が今度は驚く。
「日本語、お上手なんですね」
理人はブルガリア語で話しかける。
「娘の手紙の練習に、付き合わされてね。気が付いたら挨拶位は出来る様になっていたよ」
そう苦笑いをするその男性の表情は、不思議と楽しそうだった。
「紹介するわ。彼はイヴァン・フェレ・ヴィトシャ。リリアちゃんの父親よ」
「娘から話は聞いているよ。よろしく頼む」
そう言って右手を差し出してくる。理人は右手を持ち上げ、その手を握り返した。
「穂高理人――リヒト・ホタカです。よろしくお願いします」
「お会いできて光栄だよ、リヒト君。彼女は妻のエレナだ」
「エレナ・ルカ・ヴィトシャです。よろしくお願いしますね」
そう言ってエレナと理人は握手をする。
「彼女は娘のマリア。リリアの姉だ」
「マリア・ルカ・ヴィトシャよ。よろしくね、リヒト君」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
自己紹介が終わった所で、イヴァンが切り出した。
「その……リヒト君、その傷はどうしたんだい?」
「あー……」
何と説明したらいいものか。少し言いよどんだ。
「任務で、少し」
結局、理人ははぐらかした。
途端に空気が重くなる。和気あいあいとした空気が、鉛の様に重くなった。失言したな。と理人は心の中で思ったが、どのみち事実だ。変えようはない。
「リヒト君……君はやはり……」
イヴァンが手を握るのを理人は見た。緊張しているというか、マズい領域に足を突っ込んでしまったと、そう思ってるのだろう。そう理人は感じた。
「別に。どうってことないですよ」
「しかし……」
理人はイヴァンの言いかけた言葉を遮る。
「これは俺が選んだ道です。その過程で俺は、やるべきことをやっただけです。別に同情されるつもりもありませんし、名誉の負傷と誇る気もありません」
あくまで、対等に。そのような感じで、理人は少し強めに言った。6つの、金色の竜の瞳を見据えながら。
するとイヴァンはあっけにとられた様な表情を取った後、少し微笑んだ。
「リヒト君、君は」
イヴァンは一息つく、と言った感じで呼吸を置く。
「どうやら、僕が考えている以上に、大人だった。子供とばかり思っていたよ。済まなかった」
「構いませんよ、実際16歳ですしね」
理人が苦笑いを浮かべると、イヴァンもそれにつられてか引き攣った苦笑いを浮かべた。後ろではマリアがぎこちない苦笑いを浮かべている。しかし、それでもエレナの表情は少し厳しそうだった。
「リヒトさん」
そんなエレナが前に出て言う。
「私は貴方に対して悪い印象は持っていませんし、娘と文通しているという状況はむしろ歓迎しています」
ですが、とエレナは続けた。語調が厳しくなる。理人を見据えるエレナの金色の瞳の中の縦長の瞳孔が、真っすぐ理人の黒い瞳を射抜いた。見透かされる様な感触に、思わず目を逸らしたくなる。
「娘は、貴方に救われたのです。それで貴方がその様では、納得は行きません」
「……救われた?」
その単語に理人は違和感を覚えた。カティアの方を見ると、何か知っている、と言いたげな表情をしていた。
「……娘は、孤独でした」
エレナは、静かに語り出す。
「娘は、生まれつき大きな力を持って産まれ、そのせいで周囲から避けられ、碌に学校も通えずに小さな城の中で暮らし続けていました。そんな彼女を、私達も心のどこかで避けてしまっていた」
それはまるで自責のようで、瞳に辛い後悔の記憶が映し出される様だった。
「やがて、娘は部屋から出てこなくなりました。自分は外の世界が怖い。このまま朽ちていきたい、と」
ですが、とエレナが言った所で、エレナの瞳が潤んだ。
「カティアさんの提案で、貴方と文通をするようになってから、娘は変わりました。自分の力で、世界に押しつぶされるだけだったのを押し返す様になりました。城からも出て、まるで幼い、まだ明るかった頃の本当の性格に戻ったかのように、明るく振る舞うようになりました」
「それは……」
「そんな娘に対し、今までどこか腫れもののように扱ってしまっていた私達も、娘の変化でようやく娘に触れられるようになりました。ですから――」
そう言うと、エレナは口元を抑えてポロポロと涙をこぼし始めた。彼女の肩を、そっとイヴァンとマリアが抱き締める。
「――私たちも、救われたのです。貴方によって、ようやく」
そう言ってエレナはそっと理人の右手を両手で包み込んだ。暖かい。そう理人は感じた。
「ですけど、カティアさんから聞いて思いました。そして今こうして会って確信しました。貴方は何処か生き急いでいる。戦いに、死に惹かれている」
「そんなことは――」
そこまで言いかけて、理人は口を噤んだ。いや、言葉が出なかった。エレナの言葉に、ノーと否定することができなかった。
「会って何を言おうか、ずっと考えていました。ですが、こうして会ってみて、はっきり分かりました」
娘の、傍にいてください。
そうエレナは言って理人の手をそっと離した。理人はそれに対して何も言う事は出来なかった。
気まずい沈黙とエレナの嗚咽が小さく部屋に響く。
カティアは腕組みをしたままちらりとドアを方を見る。そして少しため息をつくと、ブルガリア語で言った。
「リリアちゃん、入って来て」
はい、と外で返事。少し舌足らずなような、緊張した声色。そしてゆっくりと部屋の扉が開かれる。
ドアを開けて入ってきたのは、純白。腰まであるさらさらとした雪の様な銀色の髪を揺らして、リリアが部屋に入って来る。理人と同じ青い入院着を着ていた。
「は、はじめまして。リリア・フェレ・ヴィトシャと申しま……って、え?」
挨拶をしようとしたリリアの声が詰まった。
理人が顔を上げ、その瞳がリリアと合う。素っ頓狂な顔をするリリア。それが何だかおかしくて、毒気を抜かれたか憑き物が落ちたように、理人は少し苦笑いを浮かべながら軽く右手を上げて会釈したのだった。
「す、ステインさん? どうしてこんな所に?」
「えー……っと。初めまして、でいいのか? 穂高理人です」
よろしく。そう理人は言う。金色の瞳の縦長の瞳孔が困惑したように細まっていく。
「え、えっと、ステインさんは理人さんで、理人さんはステインさんで……」
頭から湯気が上がりそうな、という表現が似合いそうな程顔を真っ赤にしていくリリア。その光景が何だか可笑しかったのか、イヴァンも、エレナも、先程までとはうってかわってポカンとした表情を浮かべている。マリアは思わず笑いをこらえていた。
「ステインさんがステインさんで、理人さんが理人さんで……」
目がぐるぐる回る、という漫画的な表現が似合う程狼狽し、ついにはうつむくリリア。そろそろマズい、と思って理人が声をかけようとした時だった。
「……っ! ……!」
リリアが真っ赤な顔を上げ、同時にツカツカと速足で理人のベッドの横まで歩いて来る。そして水差しを掴むと、そのまま口をつけて一気に喉を鳴らしてごくごくと飲み始めた。
「っ、ぷはぁっ!」
大きな水差しの半分を一気に飲み来った彼女の口の横からは水が一筋垂れている。その様子にあっけにとられ、そして一体何を、と理人が言おうとした時、リリアは顔をリンゴの様に真っ赤にしながら少し乱暴に理人の頭を掴み、
「む――っ!?」
ぶちゅう。
そんな擬音が似合いそうなほどのディープキス。理人の脳内が一瞬でスパークして真っ白になる。理人の口腔の中をリリアの舌が蹂躙していく。
数秒か、下手すると数十秒か。その蹂躙劇は続き、そしてようやくリリアの唇が理人から離れる。リリアの服は汗ばみ、頬や喉に銀色の髪が張り付いて艶めかしさを醸し出していた。
「……ふぅ」
そんな中でリリアは満足したかのような息をつく。実際に理人を見つめる目は、捕食者が獲物を見つけた時の瞳と言うのはこのような瞳なのだろうな、というあやふやな感想を理人に抱かせた。
理人の思考がようやく戻って来る。リリアが自分の顔を見て、それでリリアと文通していた人がリリアを命がけで救った人物と同一だと知り、顔を真っ赤にしながら水を半分飲み干し、フランス人並みの、ワイルドすぎるドラゴン式と思われるディープキッスをかまされた。
やっぱり何も分からなかった。
そんな理人が目を白黒させていると、リリアは顔を真っ赤にしながら理人を見据え、そしてすぅ、と息を吸うと、
「――私のです!」
と叫んだのだった。
「え、ええ?」
「リヒテインさんは私のです!」
「リヒテインって誰だって――むぐぅ!?」
そして2回目のディープキッス。今度はリリアが理人を押し倒す。
「むぐっうっ! むぐっ! むぐぐっ!」
「むふぅっ! ふぅっ! むぅっ!」
体が自由に動かない理人に対して行われるリリアの蹂躙を、周囲はあっけに取られて見つめる。その中で、カティアは思わず笑いだした。
「カティアさん?」
不思議に思ったイヴァンが尋ねる。
「いえいえ、やっぱり正解だったな。と」
カティアは理人をがっちりホールドして貪るリリアを見つめる。恥ずかしい光景だが、彼女なら理人を任せられる。恐らく理人が一人で死に向かうことなんて、彼女は許さないだろう。きっと縛り付けてでも自分の元に置いておくだろう。荒療治だが案外上手くいくかもしれない。そう、エレナが望んでいる様に、理人を死の道から救えるかもしれない。理人にもリリアにも、その可能性がある。
だから、きっと――
「安心して、ケイスケ」
カティアは日本語で、小さく呟く。
託された身として、自らの憧れた名前を。
だから、もう少しだけ。
「貴方の平穏に、犠牲になってもらうわね」
「んーっ! んんーっ!」
理人に平穏な日常は、訪れない。
お待たせしました! これにて『平穏の魔術領域』第一章、『Fallen Dragon』、完結でございます!
リメイクを決意してからここまで長かった……
ですけど『平穏の魔術領域』としての序章はもう1.2章は続けるつもりです。そういう意味で『Fallen Dragon』は本当にプロローグのプロローグみたいなものです。だからこの先もまだ暫くこの作品は続きます。ホント。
この後、ちょっとした幕間というか、閑話というか、Cパートみたいなのを挟んで次章に行こうと思います。お楽しみに。
ではでは。




