20話
嵐の前の静けさ回。
榛名は俺を抱き起す。俺はというと、霊力を一気に使った反動と失血と疲労で体がもう動かない。
「大丈夫だ、外傷はほぼない。ちょっと疲れただけだ」
俺は気丈にふるまう。実際体の感覚も戻って来ていた。
「俺の事はいい。そんな事より、プラチナを」
俺は何とか戻ってきた感覚を元になんとか立ち上がる。しかしよろけ、結局榛名に肩を貸してもらう事になった。半透明な榛名の身体は、触れられるのに如何にも存在が薄い様な、そんな感触がした。PDWをハンガーに仕舞おうとして、失敗した。2回目でようやく上手く仕舞えた。
「奴さん、相当な精神干渉の魔術の使い手だった」
榛名が言う。
ふと、俺の中で嫌な予感がした。
「化かし合いだよ。相手が壊れるまで精神に干渉する。結果はこの通りだ」
榛名の半透明になった身体が目に入る。精神が最上位の霊的存在は精神を壊されるとこの通りだ。
「だけど、まだ無事な様だな」
「完全には壊されなかった。一部を切り離して死んだふりをした。どのみち肉体は生成できなかったし、後は急いで修復さ」
嫌な予感が膨らむ。
「プラチナもあの通りさ。すっかり大人しくされちまった」
俺は力なく地面に倒れたままのプラチナを見る。
ぴくりと、少し動いた気がした。
今まで思考の外に置いていた。今回遭遇した敵の目的。仮にプラチナの殺害が目的なら、どうして生け捕りにしていた。生け捕りにする場合の選択肢はいくつかあるが限られる。身代金や交渉の為の人質か、それとも。
プラチナ自身を、利用する気だったか。
倒れていたプラチナがゆっくり起き上がる。喉をざらざらした生暖かい舌で舐められた様な、そんな感覚。全身に一気に鳥肌が立った。
「榛名」
「ああ、ご主人、どうやら無事そうみたいだ」
「……いや、多分違う……!」
歯の奥が、かみ合わない。
俺は榛名の肩をほどくと、プラチナに駆け寄る。平衡感覚が完全には戻っていないせいで、何度か転びそうになった。何とかプラチナの正面まで走って来る。プラチナは地面にへたり込んでいた。顔はうつむいて長い銀の髪に隠れ、見えない。
「プラチナッ!」
俺はプラチナの両肩を掴み、大声で叫ぶ。丁寧語もブルガリア語も忘れて叫んでいた。彼女はうつむいたまま動かない。
「……痛い」
プラチナがぼそり、とつぶやいた。しまった、と思い慌てて手を離す。どうやら強く掴み過ぎていたらしい。
だが、そうではなかった。
「……痛い、痛い、痛い、怖い、怖い、怖い」
彼女が平坦に呟く。様子が、おかしい。
「……プラチナ?」
「怖い、怖い、敵、怖い、ヒト、怖い、怖い、怖い、痛い、嫌、敵、怖い、ヒト、ヒト、ヒト、痛い、怖い、あなたが、怖い、あなたが、ヒト、あなたが――」
プラチナがゆっくり顔を上げる。
「――敵?」
縦長に小さく細舞った瞳孔のその瞳は、うっすらと金色に輝いていた。
「―――ご主人っ!」
襟元を急に引っ張られる感覚。次の瞬間体が宙に浮く。
次の瞬間、彼女から淡い紫の膜の様な物が広がり、周囲が一瞬でオレンジ色に赤熱した。頬を濡らしていた雨が熱で一瞬で渇く。数秒の滞空時間の後、俺と榛名は地面に転がった。その俺達を熱風が包む。咄嗟に身体強化の術式をかける。足元の青い雑草が一瞬で黒くなり、炎を上げて粉々になった。俺はその中心を見やる。
まるで、太陽だった。
プラチナから放出される紫の炎のような物。それが周囲に球状に広がり、その内側は岩石が沸騰を始めている。彼女の身体が炎と同じ色に輝きだす。両手足は華奢な少女のそれから力強い竜の様な形に。太い尾が伸び、側頭部から1対の角が後ろに向かって生えていく。その場しのぎに着ていた学生服は高温にさらされて一瞬で燃え尽きた。あらわになった裸体の脇腹は鱗に覆われている。
数秒もしないうちに、プラチナは出会った時の様な竜人の姿になっていた。しかし金色に輝くその瞳は、どこか焦点が合っていない。
そのうつろな目が、こちらに向けられる。
一瞬の事だった。殆ど反射的に後ろにジャンプし、空中で半回転して廃墟の団地の棟に飛び込む。着地と同時に転がる様に1回転してそのままの速度で走る。すぐ前には榛名がいた。後ろからは灼熱が迫ってくる。
「走れっ! 走れ走れ走れ!」
長い廊下を一瞬で走り抜ける。榛名の前で閃光が微かに走る。次の瞬間廊下の壁は綺麗に切り崩されていた。そうして出来た穴から、俺と榛名は飛び出す。数秒の落下の後、地面を大きく凹ませて着地した。
「榛名っ! 認識阻害っ!」
「了解っ!」
術式展開、物理障壁。
着地した瞬間、俺は球状に物理障壁を展開。榛名と俺を包み込んだ。榛名は認識阻害の結界を展開。俺達を認識できなくする。
次の瞬間、灼熱の嵐が吹き荒れた。
建物の影に入った俺達に、両側から淡い紫色の炎がたたきつけられた。障壁が大きく歪む。だけど壊れてはいない。障壁の外側では濡れた土が一瞬で渇き、地面に生えた雑草が一瞬で燃え尽きた。焦げた地面と棟の柱の鉄筋コンクリートは熱で溶け始める。
頼む、耐えてくれ。
ほんの数秒の事だったのかもしれないが、俺には何分にも感じた。灼熱の嵐は急に止まり、霧散した。地面に再び届き始めた雨が赤熱した地面に落ちて蒸発する。
温度が下がったのを見計らって障壁を解除する。嫌な予感が的中していた。
「榛名」
俺は言う。榛名がこちらを見た。
「あいつの位置、分かるか?」
「いまの一撃でこの辺りの術式が全部吹き飛んだ。恐らくここに仕掛けられた認識阻害の結界にも障害が生じていてもおかしくない」
ふと見渡すと、周囲にはまだ先程の灼熱の残滓が微かに漂っている。
「しかしまぁ、あれほど強いエネルギー源だ。荒っぽい術式でも十分にわかるさ」
悔しそうな、苦笑いを浮かべて榛名が言う。
「あいつ、ゆっくり門に向かって歩いてる。外に出る気だ」
俺はため息をついた。いろんな感情が渦巻いていたが、真っ先に出たのは深い、深いため息だった。
初めは夜中にたたき起こされ、
出勤した次の日の休日に無理矢理出勤され、
それを妹に見られて泣かれ、
変な作戦に参加させられ、
仲間とはぐれ、
竜に頭突きされて頭を打ち、
頭のイカレた魔術師4人に襲われて全員を殺し、
そして挙句の果てには守るべき対象が暴走し、映画に出てくる巨大怪獣みたいに暴れている。
踏んだり蹴ったりにもほどがあった。
「もう嫌だ、そんな顔をしているな」
榛名がニヤニヤしながら言って来た。
「当たり前だ。給料をいくらもらっても足りないくらいだ」
「命も幾つあっても足りないなぁ」
榛名の返しに、思わず変な笑いが出た。で、諦めて逃げるか? と榛名が聞いて来る。
まさか、俺がどういう性格かは知っているだろうに。
「いいや、あのお転婆お嬢様をたたき起こす」
「了解。いやいや、今回こそ死ぬかもしれんな」
「そうしたらお前は自由の身だ。よかったな、榛名。さぁ、森へお帰り」
「精々末代まで語り継いでやるよ、ご主人。神話のドラゴン相手にたった一人で戦って焼き尽くされた馬鹿だってな」
軽口をたたき合う。勝算は万に一つ、有るか無いかだった。
それでも、
ここは俺の町だ、ツツジの暮らす街だ。人払いがあるから安全とかそういう事は関係ない。壊されてたまるか。
それに、さっき見たリリアの瞳。この世の全てが怖い。そんな目をしていた。それが何となく俺には、なんというか、気に食わなかった。
「必ず帰るぞ」
「ああ」
静かに榛名が呟く。
通信が入る。HQからだった。俺は腕の端末を弄り、通信を繋げる。
「こちらステイン。HQ、どうぞ」
『ステイン、何があった!? 各地の観測網から凄い値が観測されてるぞ!』
どうやら大事になり始めたらしい。思わず変な声が出そうになった。
「こちらステイン。敵対人員3名に襲撃され、3名を殺害しました。しかし1人が何らかの精神干渉を行った模様。現在保護対象が暴走下にあります」
『暴走? それにしたってこの値は……』
通信の向こうで黒部の声が一瞬途切れる。どうやら通信の向こうで黒部が誰かと話しているらしい。面倒臭い事になりそうな臭いがした。
『ステイン、こちらHQ。本件は日本支部の即応部隊が引き継ぐことになった。撤退しろ』
黒部が言ってくる。しかし命令ではない。俺に対する指揮権の半分はカティアさんが握っているはずだ。
それに、撤退する気も無い。
俺は榛名を見やる。榛名は悪戯を思いついた子供の様な笑みを浮かべてこっちを見ていた。
「こちらステイン」
俺は通信機に向かって言う。
「任務を続行。また、対象が槍沢地区に被害をもたらす可能性を考慮し連合長野支部槍沢地区担当管理部として対象の無力化を試みます。アウト」
通信機の向こうで黒部が待てと叫ぶが、俺は通信を切った。
「始末書ものだな、ご主人」
「始末書が怖くてこの仕事がやってられるか」
それもそうだな、と榛名がシッシッシッと笑った。
「で、具体的にはどうするつもりだ? そのまま突っ込んでも燃えカスになるのが関の山だぞ」
榛名が言う。
確かにそうだった。でも、考えは有った。
「榛名、可能性が最も高い案がある。どうだ?」
「危険なのか?」
「とっても」
「最高だ。いいじゃないか」
理人は膝まずく。彼の前には、完全に狐の姿になった榛名がいた。榛名はゆっくり足を進め、理人に重なって、消えた。
周囲に小さな稲妻が広がった。彼の腰から青白い霊力の奔流が6本、尾か翼の様に噴き出してうねった。頭からは狐の耳の様な、龍の角の様な奔流が現れる。彼の中で霊力が次々に増幅されていく。普通の人間では、耐えられないほどに。
そして、唐突にそれは発生した。
理人の頭上。淡い赤色のぼんやりとしたリングが現れ、そして段々と橙、白と色が変わって行き、そして一気に収束して青白く輝く光輪と化した。
単位空間辺りの霊力が一定の閾値を超えると発生することが知られている現象で、シュワツマン・アウレオラ発光と呼ばれていているが、魔術師たちの間では専ら――
――『聖者の光』と、呼ばれている。
怖い。
怖い。
私の怖い物で溢れているこの世界が、怖い。
私に痛みをもたらすもので溢れているこの世界が、怖い。
私に敵意を抱くもので溢れているこの世界が、怖い。
そして何より、そんな世界を燃やし尽くそうとしている、私自身が怖い。
でもなんだろう。
私の目の前に降ってきた、黒い、黒い、真っ黒な天使は、
不思議と、怖くなかった。