2話
導入パートその2。
目が覚める。
そういえば今日は夏休みだったっけ。昨日は『仕事』もあったし、もう少し寝ようかな。いや、腹が減った。流石に起きよう。
俺、穂高理人が夏の蒸し暑い空気を肌で感じながら目をゆっくり開けると、薄ぼんやりとした視界に光が入り、靄がかかった意識が晴れ始めてきた。
――今まさに俺のパンツをずり降ろさんとする少女の姿。
咄嗟に体をひねらせ、強引に左へ転がる。
「理人兄さん、何故逃げるのです? 別に愛し合う兄妹が一つになろうとするのは何の問題も無いでしょうに」
「待て、色々おかしい」
黒髪の、巫女服を纏った少女がゆっくりと顔を上げる。艶やかな黒髪の下から露わになったのは、何処か俺と顔が似ている美少女。
彼女――浅間躑躅は、法的な部類では全くの赤の他人になるものの、遺伝的観点から見ると100%血のつながった兄妹である。そもそも何故兄妹なのに苗字が違うのかというと、今は亡き親父が母親と離婚する際に兄の俺のみを引き取り、穂高家――今は俺一人だが――に預け、一方御袋はツツジを浅間神社に預け、蒸発した。浅間夫妻は引き取った子を養子にし、自分たちの娘として育てた。
結果、法的には赤の他人だが兄という複雑な家庭の事情が誕生した。民法七三四条(近親婚の禁止)は守ってくれないのである。
何故そんな俺が妹に15年間守り続けていた童貞を奪われかけているかというと、それは有体に行ってしまえばツツジが俺の事をヤバいレベルで好きだからである。
加えて、俺が中二の頃、そしてツツジが妹と判明した直後、ツツジが俺の家を訪れた時にツツジは、俺が当時溢れんばかりの中二エナジーを放出させるための道具として購入した桃色写真集――エロ本を見つけてしまった。丁度、『妹巫女特集~兄さん、私を清めてくださいまし……~』なんて特集までやっている始末。
完全に誤解された。その予感はある意味悪い意味で当たり、現在に至る。
「ぐへへぇ、いいではありませんか。妹と巫女の組み合わせ。嗚呼、なんて甘美な響きなのでしょう! ――そう思いますよね、理人兄さん?」
「思っとらんわ!」
足に絡みついて来るツツジを振りほどこうとするが、生憎そこは無駄に運動神経の良い我が妹。がっちり太腿をホールドして離さない。
主人公、冒頭でいきなり童貞喪失のピンチである。お父様、俺は綺麗な体ではなくなってしまいます……。
現実逃避しかけた頭を太腿に絡みつくツツジの手が叩き起こした。咄嗟に手を掴む。
「あっ、理人兄さん、そんな強引な……でも、ツツジはそんな理人兄さんを受け止めて見せます……!」
「人を獣みたいに言うな! そっちが獣じゃねぇか!」
「ふへへへ、よいではないか、よいではないか」
「やめろぉぉぉぉっ! 妹に性的に襲われるとかトラウマになるわ!」
「大丈夫です理人兄さん。天井のシミを数えている間に終わりますから! はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ」
「いやあああああああ!? たーすーけーてえええ!」
無慈悲にも助けは来ず、ツツジは俺を性的な意味で食わんと襲い掛かってくる。
こうなれば手段は問うまい。何としてもこの変態を撃滅せんことには、プロローグで主人公が妹に汚されるという史上最悪の小説が出来上がってしまう。もう色々と手遅れな気もするが。
じりじりと後退する俺に絡みつくツツジ。しかし俺は視界の上の隅に、目的とする物が存在することをしっかりと捉えていた。
「……なぁツツジ」
「? 何ですか理人兄さん? ハッ!? もしや理人兄さんは巫女が好みではないのですか!?」
「いや、色々間違ってる。あと巫女は個人的には好きな部類だ」
あの清楚な感じが、何と言うか好みで――じゃなくて。
「もう一度聞く。やめるんだ、ツツジ」
「残念ながら私のこの情熱は理人兄さんを美味しく頂かない限り収まりませんよ? ハァ、ハァ」
交渉の余地なし。ならば――
五行変成、金→水。
――実力行使あるのみ。
ツツジの頭上に設置された金盥。俺はそれを固定している釘に、変成式を壁に這わせた霊力ラインを通して送り込んだ。釘は変成されて水になり、タライは重力に引かれて落下し、
「ぐべぇっ!?」
ツツジの脳天に、直撃した。
潰れたヒキガエルの様な声を上げてツツジが倒れる。当たった盥が床に転がりガランと音を立てた。
「ぐおおぉぉ、痛いぃぃ……!」
頭頂部を抑えながらツツジが言う。軽めに作ってあるから怪我はないだろう。俺はその隙に部屋をそっと抜け出した。部屋のドアを出ると、夏であるのにひんやり冷えた廊下に出る。3つある空き部屋を横目に見つつ、俺は階段を下りて1階に向かった。
1階に降りると、ムワッとした空気が俺を包む。その中にほんのりと味噌汁の香りが漂っている。俺は、そのまま居間へ向かって歩いて行き、居間の扉を開けた。
居間に入ると、ダイニングテーブルには食事が並んでいた。白米、漬物、焼き魚。
「おお、ご主人。起きたのか。味噌汁は今作っている。待っていてくれ」
「あー。お早う」
台所に立っているのは13歳程の姿の、狐の耳と9本の尾を持った金髪の少年。あいつは榛名。数年前、弱っていた所を某ゲームの如くゲットした俺の式神の、九尾の妖狐である。その後暴れられたのは想像するに難しくないだろう。
因みに多々ある伝承の中の、どの九尾かは不明。いつか本人に聞いてみようと思っているのだが、その話をしようとするといつもはぐらかされる。俺はまぁ触れられたくない過去の1つや2つ、あるものだと割り切っている。
そうこうしているうちに榛名が味噌汁の入った鍋を持ってきた。それを居間のテーブルに置いた木製の台の上に置く。
「じゃあ席について」
俺が言うと、榛名はエプロンを脱いで席に着いた。俺も座る。
「「いただきます」」
両手を合わせて、そう言った。
俺は味噌汁を啜る。鰹節出汁の赤味噌。味が濃くて好きなタイプだ。
ふと、階段を下りてくる音。
「うう……まだジンジンする……」
扉を開けて入ってきたのはツツジだった。まだ少し痛いらしく、頭頂部を抑えている。
「冷やすか?」
「……お兄ちゃんにナデナデしてもらえば治る」
そういって頭を差し出してくるツツジ。このまま放置していたら頭を脇腹に押し付けてきそうな勢いなので、仕方なしに俺はツツジの頭を撫でてやった。ツツジの、手入れされたサラサラの髪は触っていて心地よいのは確かだ。それは撫でられている方もまた同じなようで。
「えへへぇ……お兄ちゃんの手ぇ……あったかいナリィ……」
それはそれはとても気持ちよさそうな表情で恍惚としていた。あまりにも気持ちよさそうで、とてもじゃないけど人に見せられないような顔をするツツジ。隣で榛名が『うわぁ……』とでも言いたげな表情を浮かべているがここはスルーして良いと俺は思った。
「そういえば昨日の事件はどうだったんだ?」
榛名が聞いて来る。同時にツツジが一瞬顔を歪めた。
「単純だ。『一般人が妖怪に襲われている、助けて来い。』だってさ」
「で、どうしたんだ?」
「狙撃で仕留めた。当分は出ないと思うが、一応警戒はしておいた方がよさそうだ」
「一度出た所はまた出るかも、か」
夏場は怪奇現象のシーズンだ。これから忙しくなるだろう。
「そういえば夏に妖怪とかって、やっぱり多く出る物なの?」
隣で新聞を読んでいたツツジが尋ねてくる。
ツツジが持つ新聞。それをめくり、番組表の欄を開いた。
『怪奇! 幽霊は実在した!? 真夏の恐怖、心霊写真2時間スペシャル』
『未確認、超常現象大特集! 今宵、貴方はもう一つの真実を知る』
『奇跡実感ワンダフォー~死後の世界との交信~』
パッと見ただけで3つもある、所謂『怖い話』の番組。休日でもないのにゴールデンタイムでこの有様だ。百物語の様に、『人でないモノ』のうち自意識を持たないモノはそういった『人々がそういった物に向ける意識』により顕現する。要するに、『そこにあると思うから存在する』のだ。そして、自意識を持ち、自らを認識することができる物は実体を持ち、所謂現世に非常に長い期間――下手すると永遠に――留まり続ける。
俺はそんな事を、掻い摘んでツツジに説明した。
「そういうことだ」
「ちょっと待って!? 何か凄い端折られた気がする!」
「だって面倒くさいし」
「キッパリ言われた!?」
「つまり、あれだ。『幽霊の正体枯れ尾花』」
「理解した」
「早い!?」
流石俺の妹。理解力は凄まじい。一を聞いて十を知るとは彼女の事を言うのだろう。
「いえいえ、一を聞いて知るのは兄さんのパンツの色ですよ」
「へ、変態だー!?」
野郎のパンツの色なんて、知っても何も得ないだろうに。そうツツジに言うと、兄さんで妄想するのが捗り、リアルになるからです、と自信満々に答えた。凌辱された気分だった。
「ご主人、目から光が消えているぞ」
自家製の胡瓜の浅漬けを齧りながら榛名が言う。
「疲れてるんだ。暫く休みたい」
「憑かれてるんだな。お祓いでもしてもらったらどうだ? 近所におあつらえ向きの神社があるじゃないか」
「……死ねと?」
「赤飯の準備は任せておけ」
今度こいつの稲荷寿司の具を抜いてやろう。以前、酢飯ではない普通のご飯で稲荷寿司を創ったら『こんなの稲荷寿司じゃない』と言ってぽろぽろと泣き出したことがあった。
俺はしめしめ、と一瞬思ったが、その時の余りに情けない榛名の姿を思い出して、やはりやめることにした。今度何か別の復讐を考えよう。
ちらりと榛名の方を見ると、いつの間にか正座になり、尾を股に挟んでいた。耳はぺたりと伏せられていた。
ご飯が冷めないうちに食べてしまおう。そう思い、俺は味噌汁を啜る。赤味噌の風味を感じながら、昨日『退治』した妖怪のデータを反芻した。
シタナガババ。殆どは老婆の様な姿で描かれ――例外もあるが―伝承の多くは『襲われたら死ぬ』という結末に終わっている妖怪。全身の肉を舐め取られたり、呪い的なものにかかって死ぬなどバリエーションは豊富である。退治譚はほぼ無いに等しい為、退治はほぼ力押し。昨日は50口径の対物ライフルで認識されない距離から撃ちぬいた。保護した少女――俺のクラスの委員長で、俺の所属する部活の部長だった――を検査した結果、呪いの形跡は無し。記憶処理の後、実家に俺が送り届けた。本人は変な夢でも見ていたと思っているはずだ。
視界の上にチラチラと見え始めた毛先を俺は摘まむ。前髪だけはスコープを覗くのに邪魔になるので短めに切っているが他は伸ばしっぱのボサボサだ。今度床屋に行こう。上司にオールバックを勧められたが違和感が有った為数日で元の髪型に戻した、という記憶が真新しい。
「あ、お兄ちゃん、部活は?」
「――いっけね、すっかり忘れてた!」
考えに没頭していると、ツツジに言われて部活の事を思い出す。単なるおしゃべり部のような部活だが、そこそこ楽しい部活だ。今日はその夏季集会だったはず。
俺は慌てて立ち上がり、カレンダーに駆け寄る。今日の日付の所に、『部活 10:30』のメモ。咄嗟に時計を見ると、9時55分。ホッとしてため息をつくが、あまりのんびりはしていられない。
俺は榛名の作ってくれた朝食を急いで食べる。半分食べていたので3分程で食べ終わった。
「ごちそうさま。美味しかった」
「そりゃどうも。冥利に尽きる」
榛名の心なし嬉しそうな返事。押し殺しているようだが嬉しそうなのがバレバレだった。
俺はそのまま2階の自室に上がっていく。部屋に入って箪笥を開くと、制服の、清潔なワイシャツと心なしくたびれたズボンがハンガーに掛けてあった。急いで着替える。
コンコン、と扉をノックする音。俺が着替え終わってるぞーと返すと、落胆した様子のツツジが部屋に入ってきた。
「兄さんの生着替え、見逃しました……」
変態モードだった。思わず身構える。
「いやいや、今は何もしないわよ」
「……『今は』に関しては突っ込まないでおこう」
それにしても。俺は荷物を作りながら言う。
「野郎の着替え何て見ても得しないだろ。普通」
「ううん、まぁお兄ちゃんだから、ってこともあるんだけど、一般的に見て、お兄ちゃんの四肢は見る価値があると思うの」
四肢って。生生しい言い方だな。
「例えるならルネサンスの彫刻、みたいな?」
「あそこまで整った体つきしてないぞ」
筋肉は……7割くらいか。
荷物が出来たので、俺は学生鞄を持って部屋を出る。廊下を歩いている時、台所で皿洗いをしている榛名に行ってきますと声をかける。
「あ、私は後から行くねー」
玄関で靴を履いている時、ツツジが言った。
「了解っ、と」
そろそろ買い替え時と思われるくたびれ具合のスニーカーを履いて、玄関を出る。外の門の手前の所に置いてある自転車の鍵を外し、それに跨った。
「じゃあ、また後で」
「うん、またねー。お兄ちゃん」
という訳でプロローグ本編です。リメイクしても変わらずにツツジちゃん絶好調です。