誕生を祝う宴
夕暮れ時、私はやっと苺羅さんから解放されて鬱金香に赴くことができた。すると、思い掛けないことに受付のあたりで翡翠の姿を見つけた。
『翠お姉さん、遅くなっちゃって。連絡もしないでごめんなさい』
『いいのよ。いらっしゃい、ゆっくりしていて』
促され、広い応接間にたくさん設置された席に座る。
あと千鳥祭まで三日という事もあり、どこでも忙しそうなのは窺えるけれど、随一の老舗・鬱金香は何処よりも忙しそうだった。
それにもかかわらず、翠お姉さんはお茶を淹れて来てくれて、ちゃんと話をしてくれた。
千鳥祭が今年も始まる――。去年はただ遊びに行くだけだったけれど今年は違う。
今年の千鳥祭は、自分もお祭りを盛り上げる一員だから。
「大丈夫かな。少し心配だけど……」
翡翠の話によると、いつものように鬱金香の前の噴水のところで客引きの為に好きな曲を弾いてほしいと言われたけれど、他にも舞台があるから呼ばれるかもしれないらしい。
そして最後に彼女にお礼を言った。
『この間は迷惑かけてごめんなさい。芭流が教えてくれたの。千鳥祭は頑張るね』
それを聞いた翡翠は麗しく微笑んでくれた。
日中のことを頭に過らせながら葉澄は寝台に寝転がって、天蓋をぼうっと眺めていた。
結局、あの美しい手紙の事は聞けず仕舞いだった。けれど翡翠お姉さんに訊いても仕事を増やしてしまうだけだから、それでよかったのかもしれない。けれど、気になって仕方がなかった。
「あと3日だ……」
すると、自室の扉を叩く音が聞こえた。
「は~い、ちょっと待って」
返事をして起き上がると、慌てて扉まで駆けた。
この間まで家に居候していた芭流はあの醜聞が落ち着いてきたこともあり、ときどき顔を見せるだけで、今は夏に公開される舞台の稽古に身を入れているらしい。
けれど何かと家に独りでいることの多い自分を心配してくれて、久々にする大掃除を快く手伝ってくれたりした。彼は将来、きっといい旦那さんになると思う。
「葉澄。少し話があるんだけどいいかな」
けれど扉越しに聞こえた声はその彼ではない。
家に戻って来てからというものの時間が合わなくてあまり顔を合わすことがなかったけれど、どうやら今夜は早く帰って来られたみたいだ。
私は取っ手に手をかけ、扉を開ける。
「お帰りなさい、お父さま。今日は早かったんだね」
微笑みかけると、疲れているようだったけれど微笑みを返してくれた。
「ああ。近頃は話す機会もなかったね。ごめん、葉澄。一人で寂しくはなかったかな」
父は優しく頭を撫でる。比較的に背の高い父は体格も年から考えたら整った体型をしているからか、娘が言うのもなんだけれどとても若く見える。
「大丈夫だよ。芭流も時々来てくれたし、莉綾ちゃんも様子を見に来てくれていたから。ところで話って?」
そこで父の手は腕を通り、温かい手が小さな手を包み込む。
「葉澄は昔から頑張り屋でいい子で、弱音を吐かない子だったね……。一人にして悪い父親だ。年頃の娘を放って置いて、年近い芭流に面倒を任せるのもどうかと思うだろう。親として失格だと自覚しているよ。一緒にいると約束したのにね」
父の名は桜朱那――。人呼んで、朝廷では『朱鬼』と憂い恐れられる人物だ。
家にいる時はとても過保護で心優しい父親だけれど、朝廷では別の顔を持っているらしい。
でも、母が亡くなってからというもの男手ひとつで私を育ててくれたのに、誰がどう攻められるだろう。骨身を惜しまず一生懸命に働いてくれているのだとわかっているし、特殊な仕事柄だから不規則で忙しいということも重々承知している。
「そんな事ないよ。いつものお父さまらしくない。お国のために頑張ってるお父さまは、すごくかっこいいよ」
「……ありがとう。今夜は遅いから、また明日、たくさん話しをしよう。葉澄の誕生会もしたいしね」
「えっ、でも……忙しいのに」
「いいんだよ。葉澄が心配することは何もないからね。楽しもう」
そう言って父は、何時よりも増して優しい眸で微笑んだ。
次の日、朝から豪華な料理が食卓に並んだ。
父はとても料理が得意で、仕事続きで腕が鈍ったと言っていたけれど、そんな事は微塵も感じさせないくらいに皆とてもおいしかった。葉澄も家事はするけれど、一人だけでは豪勢な料理を作る事もないから久しぶりにお腹いっぱいに食べた。
葉澄は最近あった身近な出来事を、口を挟む間もないくらいにしゃべった。葉澄の通う胡蝶蘭での出来事や芭流やその姉の莉綾、幼馴染みの星との他愛のない話しを朱那は嬉しそうに聞きながら頷き、ときどき笑って肯定してくれた。
葉澄はその様子を見てますます嬉しくなった。父親はやはり朝廷の高官だけあって、こういった時間をとることが難しい。昔からそれは普通のことであったし、葉澄には慣れていることではあったけれど、心のどこかでは父に話したくて仕方がなかったのだと改めて思った。葉澄にとって、父はたった一人きりの家族だから。
「お父さま、みんなすっごく美味しかった。たくさん話もできたし、本当にありがとう」
「喜んでもらえて嬉しいよ。葉澄、前よりよく食べるようになったね」
「あ……そうかな。太らないように気を付けないと、芭流にその事でいじられかねないからね……」
葉澄はお腹の辺りを触る。ぷにっと摘まむことができたらもうアウトなのだ。
実際、友人といったら世を賑わす人たちばかりで。これは恵まれているようでそうでは無くて。幼馴染み(芭流を始め、星や紅璃鴾)の見映えの良さが目にあまり、葉澄も体型維持には特に気をつけている。
「そんなことはないよ。葉澄はお人形のように可愛らしいから大丈夫。それによく食べることはいい事だよ」
朱那はそう言って箸を置き、作法よく宴の終わりを告げた。そして食後のたおやかな時が流れる。
「お父さまは、千鳥祭の期間もお仕事が忙しいよね。よかったら千鳥祭だし、演奏を見に来てもらいたいと思ったんだけど、無理だよね……」
「いいや。愛しい娘、直々のお誘いなら断る理由なんてものは無いよ。それがましてや仕事であっても。早々に終わりにして見に行く」
「えっ!嬉しいけど……でもお仕事は疎かにしないでね」
「わかっているよ。私は君にベタ惚れだけれど、そこまで馬鹿じゃない」
「…………うん、そうだね」
こういった発言によって、葉澄は父の『二つ名』によく疑問を覚える。
(このお父さまが本当に恐れられているのだろうか……)
『朱鬼』と恐れられ、敏腕で辛辣な御史台長官――。
もしかしたら、と葉澄は思う。もしかしたら影武者がいるんじゃないかと。だってそうでなくては説明がつかない。
目の前にいるその『朱鬼』は、優しい眼で自分を見つめ、理想のお父さんの雰囲気を醸し出し、ゆったりとしてどちらかと言えば、のほほんとした空気を持った人だ。だから噂の御史台長官は影武者なのだと思う。きっと偉い人がこんなにも心優しいとなめられてしまうから、この父の穏やかなイメージを払拭するために影武者がその役を引き受けて演じているのだ。そうであるなら葉澄には大いに頷けた。
「葉澄。何か欲しいものはあるかな。ああ、きっとこういったものはさり気なく聞き出すのがいい父親なのだろうけど、年頃の女の子の欲しいものはよくわからなくてね」
朱那は卓上で上品に手を組み、問いかけるように首を傾げた。
「欲しいもの……何だろう。考えてなかった。どうしようかな……」
「何でもいいよ。なんでも言ってごらん」
葉澄は考えた。本当に欲しいものって何だろう。
――欲しいもの……。
「ごめんなさい。今は思いつかないから、また今度でもいい?思いついたら言うね」
「そうか……わかったよ。ちゃんと悩んで決めるといい。葉澄も十七だから、大人びたものが欲しくなるだろうからね……。おめでとう、葉澄」
そして葉澄は朱那に対してニコッと微笑み返した。