苺の香りと林檎の姫の再会
あと三日で千鳥祭が始まる。『千鳥祭』と言うのは、椿燐街で度々行われている祭の中で一番長い期間催されるお祭りだった。
椿燐街のお祭りは特異なもので、各州から貴族が集まるからと言う事もあるのかもしれないけれど皆一様に美しい仮面を被るから、普段以上に華やかな場所になる。
葉澄は久々に椿燐街に来ていた。
椿燐街は葉澄の住む桜区から歩いてもそう遠くなく、健康を考えるならなるべく車は使わないというのが彼女の信条だった。そして、周辺の景色が美しいなら存分に楽しみたいものだった。
朋鸞国は『海に浮かぶ鳥籠』と形容されているけれど、実際は水に囲まれているというのが正しくて、椿燐街はまさしく『水に囲まれた孤島』だった。そんな美しい島に、もうすぐもっと華やかな季節が訪れる。
葉澄はまだ静寂に包まれる椿燐街の中で一番広い街道を歩みながら、弾む気分を暖かな日の光に溶かすように翡翠のいる鬱金香に向かっていた。
久々に翡翠に出会える喜びと、お祭り前の何とも言えない高揚感が身体に力を巡らせる。
鼻歌を歌っていたからなのか、それとも人影が見えなかったからなのか、十字路を勢いよく曲がった葉澄は誰かとぶつかってしまった。けれど、その人は反射神経の優れた人なのだろう。咄嗟の事だったのにも関わらず、倒れそうになる体を抱き留めてくれたのだ。
「すみません。助かりました……」
「いいよ。君にはいつも驚かされるね」
(……『君にはいつも』?)
このフレーズが気になった葉澄はガバッと顔を上向かせる。
上質な着物に、気品の良い香りを身に纏った艶めかしい声を持った彼は――。
「苺羅さん!?どうしてここにっ?」
「どうしてって。私はここの常連さんだからかな~」
相変わらずひょうひょうとした様子で彼はそう口遊み、にこりと優しげな笑みを浮かべる。
「よかった。夢じゃなかったんだ」
葉澄はほっと胸を撫で下ろした。王城に行った事は真実だ。
「夢?」
「あ、いえ。何でもないです」
「そうだ。運命的な再会を果たせた事だし、お礼に椿燐街を案内してあげようか?」
「案内ですか?でも、行き先は決まっていますし、まっすぐですから」
「そうか……君はやっぱり真面目さんだね。少しは寄り道も必要じゃないかな?」
言うなり葉澄は彼に手を引かれ、行き先を正反対に難なく変更されてしまった。優しいエスコートだったけれど有無を言わせない力がある。
「ちょっ……苺羅さん。私、会いに行かなくちゃいけない人がいるんですけど」
「大丈夫。彼女はそんな事で腹を立てるような人じゃないよ」
翡翠の事だから実際はそうだろうと思いはするけれど、またまた冗談を軽く並べる苺羅に溜息をついて、葉澄は仕方なく従うほかなかった。でもどうして彼が『彼女』の事を知っているのかと疑問に思ったのは、彼の饒舌な褒め言葉を聞いている時になってだった。
椿燐街はとても古い建造物が化石のようにそのままの姿で残り、下町では感じられないような懐かしい空気の漂う所で、何しろ外の情報なんて関係ない場所だった。だから時は動いているはずなのに、動きを忘れてしまった針の行方を知らぬうちに追い求めてここまでついて来てしまうと言うような、『非現実的』と言う言葉が一番似合う――そんな場所かもしれない。
葉澄はまだ見たことのなかった風景を見渡しながら、ふとひょんなことを思う。
まだお手々を繋ぎながら隣を歩く苺羅は楽しそうにそれらの話をし、ここでは昔こんな珍事件があっただとか、ここは逢瀬に最適な場所でよく使われるなど、あまりお勉強にはならない知識を吹き込まれて、葉澄はさらーっと聞き流していた。
勉強になることと言ったら、地図を見ずに道がわかるようになるというところだろうか。
「どうしたの~?私の話に飽きちゃった?お姫様はご褒美がないとダメな子なのかな」
「べ、別にそうじゃないですよ。初めてみる景色に魅了されているだけですから、お気遣いなく」
「それじゃあ私としては困るけれど、君が楽しんでくれているならいいとしよう。ちょっと待っていて」
そう言って苺羅は手を離し、甘味の並ぶお店に入って行った。その間葉澄は近場にあった石段に腰かけ帰りを待つ。
それより本当に不思議だ。どうしていつも苺羅は突如として目の前に現れ、道連れに彼の世界に連れて行くのだろう?
(これじゃ、この間までの出来事が幻想の世界として処理し切れなくなってしまう……)
それにいつの間にか日の陰る時間帯になっている。時間はこうして動くものだ――。
「……あれ?雅茜兄さま?」
見覚えのある赤茶色の揺れる髪に、すらりとした体格の理知的な顔立ちには確信が持てる。
「でもどうしてここに?」
葉澄は先程の約束も忘れて、軽々とした歩調で川を挟んで向こう側の岸まで伸びる石橋まで駆ける。それでも、それを遮るように優しく手を引かれた。
「どうしたの?待っていてくれないと私は寂しくて泣いてしまうよ」
「苺羅さんが泣く姿なんて想像もできませんけど」
「お姫様は案外毒舌なんだね。でも、可愛い子にツンとされるのはちょっといいかもね。クセになりそう」
そして苺羅は優しい表情で顔を覗き込む。
「……お姫様?これだけは覚えておいて。『何かを追いかけることを癖にしてはいけない』よ?」
決して強く言われた訳ではないのに、身体が動かなくなるような威圧が彼の言葉にはあった。言うなれば『普段と違う彼』だ。
「えっと、ごめんなさい……。知り合いがいたような気がして、つい居ても立っても居られなくて」
「でも、それはきっと見間違いだね」
いつもと同じ穏やかな声で、苺羅は子供を諭すように囁きかける。
「あっち側は君の知っている人はいない。それに君も行ってはいけない。そういう場所なんだよ、あっち側は。……わかったかな?」
「はい……わかりました」
「それに、こっちの方がおいしいものがたくさんあるよ。お姫様は何がお望みかな?」
苺羅が手に提げた紙袋の中には、甘い香りを漂わせた美味しそうな絶品の菓子が詰まっていた。香ばしい匂いを放つ焼き菓子を始め、色とりどりの美しい色をした飴たちに柔らかくて口に含んだらすぐにも溶けてしまいそうな異国のお菓子も顔を見せる。
その中から葉澄は真っ赤で大きなリンゴ飴を手に取って、苺羅にお礼を言った。
「苺羅さんはお菓子が好きですね。それに私の好みもわかっているんですね」
「そうかな。でも君は本当に華やかなものが好きだよね。確かどこかのお伽噺では、その真っ赤な林檎が物語の鍵になっていたね」
「やっぱりお話にはそういうものが必要ですよね。だってお話が分かりやすくなりますから」
大口で頬張りながら、にっこりと葉澄は微笑んだ。
「……じゃあ君の物語には何が出て来るんだろうね?」
夕陽を見上げるために仰向いた苺羅はそっと囁き、それは先をすたすたと歩いて行く葉澄に聞こえるはずのない問い掛けだった。
「苺羅さんもそう思いませんか?」
くるりと振り向く葉澄に苺羅はやれやれと近づいた。
真紅に染め上げられた何も塗られていない口唇を拭ってあげるために。