白猫の届ける美しい手紙
夕方と言っても少し空気が温かくなってきたように思う。
久しぶりに訪れた気に入りの桜のある場所は前とは姿を変え、薄桃色の優しい雰囲気から若葉色の爽やかな色合いに様変わりしていた。芭流と来た時のすっきりした空気は無くなって、例えるならやんわりとして眠くなる、落ち着いた風が髪をなびかせる。
紅蓮のような夕焼けが拍車をかけて、普段なら見られない長い影の伸びる綺麗な造形が奥行きのある雰囲気を作り出していた。
そしてこの間の出来事を思い出す。あの鳥籠の生活は本当に夢だったのだろうか。
この間、偶然に出会ってしまった美しい彼は今なにをしているだろう。
――彼は私と出会って、何を思ってくれただろう?少しでも何かを思ってくれていれば、後宮に行った甲斐もある。
季節が移り行く――。長く感じたこの期間で私は、少しは成長できただろうか?
あの日、目覚めれば隣には芭流がいて『おはよう』と言ってくれた。
あの時は、あの夢のような生活が本当に『夢』であったように、空白の時間があったのかどうかもわからない状態だった。
そして葉澄は居心地のいいこの場所に習慣と言っていいほどに足を向けていた。ついこの間まで後宮にいた葉澄にとってはあの広い後宮内をうろちょろしていた所為で、考えてみると家の敷地内にあるような距離だと感じるけれど。疎遠になっていた場所とは思えないほどに葉澄は悠長に過ごした。景色を眺めながら石造りの椅子の上で膝を抱えて、三角座りをして寄りかかっていると色んなことが思い出される。
葉澄は膝を抱えていた腕を解いて足を地面に下ろすと、左手を伸ばして冷たい石に触れた。あと二人は優に座れる隣の空間を虚ろな目で見つめた葉澄は、意識をするように大きく息を吐く。
ちょうどこの位置に座ると、意識せずにはいられないのだ。
たしか桜が散り始めた頃で桜の花びらが至る所に散らばり、頭にいくつもの白い飾りがついていた。それがはらりと揺れながら儚く落ちると――。
昔の自分は今よりも幼くて、けれど今よりも度胸のある少女だったように思う……。
今思えば数え切れない情景を目の裏で見ることができるけれど、付き物なのはいつも『どうしてそうしてしまったのだろう』という疑問や自問なのだ。
葉澄はまたふうと息を吐いて、指先で自分の唇にそっと触れた。
――芭流は人気者になった。自覚している以上に世間の認知は絶大だと思う。けれどそれでも、何も変わらないというように同じ付き合いを彼はしてくれる。会ったらまた優しく微笑んでくれて、また私を傷つけないように接してくれるのだ。
でも彼は世の女性たちの〝理想の彼氏〟だから、距離を決めないと――。けれど、あの時その人を受け入れてしまったのは紛れもなく『幼い観念を持った自分』だった。
ちらちらと粉雪のように降る桜の花をよそ目にここに二人で座って。人の熱が熱いと感じたのはあの時が初めてだったように思う。肌が敏感になったのも身をもって感じた。ただ触れるだけのものだったのにこんなにもその感覚を覚えているなんて、何だかとても破廉恥だと思う。
たしかこの位置で芭流が背に腕を回して、今よりも若い二人は初めて口づけを交わした。
以来、二人は恋人のような関係になりつつあるけれど……。
(私は、どうすればいいんだろう……)
すると、ざっと強い風が吹き抜けた。それはまるで夜との境目を告げるようだった。
葉澄ははっと立ち上がって、道具の入った鞄を持ち上げると肩に背負った。
どうも日が長くなったようで感覚が鈍る。きっともう少ししたら夕食の時間になるだろう。早く帰らないと夕飯の支度が遅れてしまう。そう思い立ったところで、葉澄はある光景に気がついた。
あの大きな桜の木陰から見慣れない真っ白な猫がこちらに向かって真っすぐに近づいてくる。葉澄は辺りをきょろきょろと眺めまわしたけれど、飼い主とおぼしき人の姿も人影すらどこにも見えなかった。
近づいてくるその猫は可愛らしい口で何かをくわえているのが見て取れた。そして目の前に行儀よくお座りをすると、そのくわえた手紙のようなものを葉澄に向かって差し出す。
「えっと……私に?」
葉澄が問いかけると、猫は言葉を理解しているようにコクンと頷く。
よく見ると目の前にちょこんと座る真っ白な猫はとてもきれいに手入れがされていて、つやつやした毛並みは触らなくてもわかったし、女の子なのか紅いリボンも首に付けていておめめもパッチリな可愛い猫だった。
葉澄は腰をおろして、差し出された自分宛ての手紙を受け取ると口に出して読んでみる。
「『選ばれし貴女様にこのお手紙が届きましたこと、大変嬉しく思います。私は催事を開く者――そして、この度開かれる催し物は〝宝探し〟でございます。今年の千鳥祭も皆様に喜んでいただけることを祈りつつ、貴女がお越しになることを心よりお待ちしております』……って、どういう事?どうして私宛に?」
綺麗な柄の入る手紙を眺め、葉澄は首を捻った。この手紙は椿燐街の伝いで使われるものだ。横文字で書かれた美しい字は紛れもなく『桜葉澄様』と書かれている。
〝お越しになる〟と言われても椿燐街にはずっといるつもりだし、『宝探し』とは、果たして何のことなのか……。
葉澄が大人しく居座っていた猫をちらっと見るとそれが何かの合図だったかのように、彼女は『ニャー』と可愛らしく鳴いて、走って何処かへ行ってしまった。
残された葉澄は意味の解らない美しい手紙を手に、その消えた方向を眺めることしか出来なかった。