椿燐街の胡蝶
椿燐街の妓女たちが『蝶』と言われるようになったのは、いつの頃だっただろうか。何時しかその麗しい姿から、彼女らは美しい蝶に例えられるようになった。
かつて、その蝶の中でも秀でた妓女たち数名を、彼の王は【胡蝶】と称し、褒美を与え、そして彼女らを特別に匿った。そして、この世に二つとない美しい飾り物や道具が贈られた代わりに、彼女たちの自由は奪われる形になってしまった――。
その麗しい娘たちは貴族の家に娶られる事も少なくはなかったが、【胡蝶】に娘が生まれれば、必然的に【椿燐街の蝶】として丁重に迎えられた。
その優美な姿とは裏腹に、『蝶の血』は鎖となり、背くことの出来ない枷になった。
だが美しい贈り物と引き換えに、彼女らは『椿燐街』にとって宝物のような掛け替えのない存在となったのだ。
決まった運命を生きることに納得のいかなかった娘もいたが、脱走など出来るはずもなく、以来【胡蝶】たちは邸から外へ出ることも許されなくなった。『椿燐街』という厳しい監視の中で蝶たちは日々を生きなければならない。
生活の保障された、『美しく魅力的な蝶』に憧れを抱く者も少なからず実在するけれど、それは表向きだけの評価であろう。何故ならば、見えない場面は醜く熾烈な想いが繰り広げられているからだ。
『縛られた習慣』を今の世で信じる者もいるはずは無いけれど、その慣わしがすべて消え失せたとも言い切れはしない――。
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「へぇ~。そんな言い伝えがあるんですか。僕、始めてここに来たのでとても新鮮で、やっぱり『普通』じゃないっていうか」
まだ夜にも満たない時刻から酒の匂いを振りまいて、善い御身分な男たちは饒舌に【椿燐街】の昔ばなしを囁き合う。
こうして椿燐街の噂は広がっていくのだけれど、雲の上のような話の内容から、大体の人々は手の届かない存在として【その街】を見る。
一人の、まだ年も若そうな青年は目を輝かせ、その話を食い入るように聞いていた。
「あの、さっき【胡蝶】は全員で九人いたって伺いましたが、今はここに何人の【胡蝶】がいるんですか?」
青年は酒を飲みかわす男たちに質問をするが、年も若い青年はまるで相手にされなかった。どうやら【胡蝶】に会いたいのだと思われたらしく、彼らに盛大に笑われると、『彼女たちは値打ちが高すぎて相手にもしてもらえないことや、先約がもういるから諦めることが大事だ』と可哀相な目で同情された。
そして、この時季には【祭り】が開かれる――。その情報だけ聞くと、青年は席を後にした。
暗くなり始めた空を仰ぎ、慣れた足取りで道を進んで行く。身なりも貧相な青年が向かった先は、椿燐街でも有数の高雅な邸の裏手だった。どちらかと言えば、由緒正しい風格の邸だ。
そして若い男は、まるでいつもの習慣ように隠し扉を見つけると、至って普通の事のように中へ入っていく。中庭に繋がった道を歩けば、一人の女が縁側で涼んでいるのが見えた。彼女は麗しく腰を下ろし、美しく整えられた庭園を前にして、雲間に覗く月の姿を眺めていた。その場は他に話し声も聴こえなければ、人の気配もしない――言うなれば彼女専用の庭だった。
今でも見頃な牡丹桜の花が悪戯な風に吹かれると、ふさふさと音を立てて揺れる。そして、薄暗い月明りに照らされて彼女の髪がちらちらと輝き始めた頃、彼女は嬉しそうに微笑みを男に向けた。
「お戻りになられていたのですね。私はずっと、あなたの事を思っておりました。会いに来てくださってとても嬉しゅうございます」
肩ほどまであるほんわりとした髪を上下させながら彼女は青年に駆け寄り、上目づかいで男の顔を確認すると体を預けるように寄り添う。
「久しぶりだな、琉花。少し痩せたか?確認してみないとわからないけど」
「もう……会った早々、幻想的な夢を壊さないで下さい。……嫌ですわ、私。この優美な時に浸りたいのに」
「別にそれは構わないけど、見ない間に清楚な女性に転身でもしたのか。『未知の花』なんて呼ばれているらしいな」
琉花は『降参』とばかりに溜息をつくと、男の着ている上着を慣れた手つきで脱がせていく。それはまるで男の仮面を剥がすかのように……。
そして質素な上着の下から現れたのは、桜の花びらが鏤められた赤紫色の上質な着物だった。
「では今宵はお互い普通でいいんですの?つい先ほどまではきっと愛想のいい青年でしたでしょうに。華藍様は本当に変わり過ぎて」
「それで事が上手く進むから、使える術はすべて使う方が合理的なんだよ。……何よりいいものが見れた」
華藍と呼ばれた男は麗しい彼女の首元に顔を埋め、首筋の香りを楽しむように囁く。
「『いいもの』ですか?それはどんなにすてきなものなのです?私の大好きなお祭りよりも心が躍りますの?」
彼女は華藍を見つめ、可愛らしく笑う。
「――だって、あなたが『帰って来た』ということはそうなのでしょう?」
腕にしがみついて楽しそうに話す彼女を見て、『ウキウキしている』という言葉が本当によく当てはまると、華藍は思った。それと同時に、『よく笑うようになった』と華藍は微笑みながら頷く。
「……ああ。でも今年は少し、違うな」
「少し?何が違いますの?」
華藍は、『分からない』という表情で見上げてくる彼女の額に優しく口付けた。
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「翡翠、今年の千鳥祭はどうしようか……どうすれば楽しくなるだろうね」
箜篌のたおやかな音色の中に、眠たげな男の声が流れる。
その優しい音色を醸し出す美女はそっと彼に目を向けた。
「いつでも、皆様は楽しんで行ってくださいますよ?苺羅様は見物するだけでよいのではないですか?」
「ううん……そうだね。でも、今年は私も楽しみたい……どうすればそうなるのだろうね?何をすればいいのかな……」
手を差し出して寝転がる彼はその『何か』を求めるように翡翠に向かって囁いた。
翡翠は手を止めると彼の眠る寝台に近寄ると腰を下ろし、その手に触れるか触れないかの距離に手をつく。
「苺羅様……ゆっくりお休みください。お忙しいのはわかりますが、そのことは目が覚めたらお考えになればいいのですから、ゆっくり眠って……」
優しく子守唄を口ずさむように囁きながら、枕の上にまるで血液のように広がる繊細な髪に翡翠は優しく触れた。