18.お月様だけが知っている
僅かに開いた窓から、冷たい夜の光が差して床を照らしていた。
部屋の中は、物音一つせず、しんと静かだ。
寝台の上。
頬杖をついて外を眺めるキリの背中を眺めながら、俺は竜の姿でじっと丸くなっていた。
あの後から、二人でいる時はずっとこんな空気だった。
表面上はいつも通りを保ちながらも、その実ひんやりとした緊張感が漂っている。
お互いに何かを言おうとするものの、まとまらず、時間だけが過ぎていく状態。
そんな静けさの中――俺は一人、後悔していた。
父親と口論になったとき、キリが自分のために怒ってくれたのは、痛いほどわかっていた。
それは素直に嬉しかったし、成長したという彼女の言葉には心が震えた。
少しでも彼女の役に立てたのだろうかと、報われた気持ちになった。
けれど、それだけではなかった。
口喧嘩が暴力へと発展する気配を見せて、それでもキリが退こうとしなかったあの時。
周囲で高まる魔力に心底肝が冷えたし、なんとか打ち消せた時は肩を落とすくらい安心した。
そして、それが自分の父親が引き起こしたものだという現実に、ひどくぞっとした。
喧嘩に口を挟んだことに怒ったわけじゃない。
わざとかどうか、挑発するようなことを言ったことに怒ったわけでもない。
そんなことより、何よりも。
自分のせいで、彼女を危険な目に合わせている事実に、耐えられなかっただけだ。
何もできない自分。
キリに庇われている自分。
彼女を助けるどころか、彼女を危険に巻き込んでいる自分。
……俺は、キリ以上に、自分が許せなかった。
確かに、お前何やってんだよって、そう思う気持ちだって嘘なわけではないのだ。
気づけば厄介事に巻き込まれ、目を離せば死にかけている、手のかかる奴。
いっそ自分から首を突っ込んでいる節があるような状況、いい加減にしろよと思う。
けれどそれは、俺の勝手な思いでしかない。
キリは悪くない、謝らなければならないのは、俺の方だ。
耐え切れない衝動のままに当たり散らしたのは、ただの八つ当たりだ。
呆然と見上げてくるキリの瞳を思い出して、ぎゅっと目を瞑る。
今はもう、ただ後悔しか残っていなかった。
違うんだ、お前が悪いわけじゃない、と。
説明を、釈明を、しようと思っても。
うまく言葉にできないし、説明もできない。
謝ろうと、そう思えば思うほど言葉は絡まり、声にならずに消えていく。
ぐるぐると空回りする思考の中、重い気持ちだけが存在を主張していた。
もう、あんな風に一人で泣いてる所なんて見たくない。
最初は、それだけだったはずなのに。
どうしてこんなにこんがらがってしまったんだろう、と自分でも頭を抱えるしかなかった。
もう今日は、何も考えたくなかった。
このまま眠ってしまおうか、と無理矢理に目を閉じようとした時。
「……、イシュ」
静かな部屋に、キリの声が響いた。
イシュはのろのろと、ゆっくりと視線を上げる。
くるる、と喉を鳴らして返事をすると、僅かな沈黙の後に再び名前を呼ばれた。
「イシュ。……話がしたい」
何度か目を瞬き、俺は目を閉じる。
ゆっくりと深呼吸し、覚悟を決めて机から降りた。
しんと沈黙が落ちた部屋の中、ぎしりと寝台が鳴る。
背を向けたままのキリの向こう、寝台の端に、彼は腰をかけていた。
狭い一人用の寝台で十分に距離を保てる訳もなく、彼の背が寝転がるキリの背に触れる。
お互いに顔を見るだけの勇気もなく、ただ毛布を介して僅かに伝わる熱に、存在だけを感じながら。
青白く光る月を見上げたまま、キリは静かに口を開いた。
「なあ。まだ、怒ってるか?」
「……いや」
「そっか」
小さく吐いた息に気づいたのか、イシュがちらりと視線を向けたのが分かる。
それはすぐに逸らされ、僅かな沈黙のあと、ぽつりと言葉が漏らされる。
「その……昼間はごめん。悪かった、怒鳴ったりして」
「いや。……多分、心配してくれたんだろ?」
心配っていうか、と小さく呟くような声。
言葉の続きを待ってみたものの、その後は沈黙が続くばかりだった。
少し考えて、キリは言葉を選ぶ。
「例えそういう理由じゃなかったとしても、心配はかけたと思うから。私も、ごめん」
「……おう」
短いやりとりだ。
目も合わせない謝罪だったけれど、張り詰めていた空気が緩んだのがわかった。
緩慢な夜の空気の中、沈黙の帳が降りる。
ややあって、もごもごと呟くような声で、イシュが口火を切った。
「うまく、言えるか分からねーんだけど」
「うん?」
「お前に怒ってたわけじゃないんだ。いや、ちょっとは怒ってたけど」
思いがけない言葉に、キリは思わず目を瞬いた。
てっきり、キリが口を出したことや心配させたことを怒っているのかと思っていたのだが。
少し身を起こし、背中越しに視線を向けても、まあるくなった背中が見えるだけだ。
赤い髪に隠れた横顔は見えない。
「怒ってたのは、自分にっていうか。俺、何もできてないなって……」
「……助けてくれたじゃないか」
「そうじゃなくて……あーもう!!」
うまく言葉にならなくて焦れたのか、がしがしと頭を掻き回す音が聞こえてきた。
頭を抱えるイシュの姿を、ちょっと言葉に困りながら眺める。
キリからしてみれば、イシュには助けられてばかりだ。
グラジアの件然り、今回の件然り、彼がいなければキリは多分ここにはいられなかった。
今日告げたありがとうだって、それも全部込みでの感謝だった、つもりなのだけれど。
「なんていうか、こう、足手まといになりたくないっつーか」
「足手まとい?」
「……俺の事情に巻き込んじまっただろ」
そんな風に思ってたのか。
どうしてそうなったのかは知らないが、キリはそんな風には微塵も感じていない。
というかむしろ、自分から突っ込んでいったというのが正しい気がする。
「あれは私から首突っ込んだが正しいだろ」
「首突っ込ませただろ」
「私が勝手にしたことなんだから、お前が気に病むことじゃないよ」
「言っとくけど、首突っ込みまくる癖に関しては、俺はお前に怒ってるからな」
「あ、はい」
イシュの件のみならばともかく、アルムの件を引き合いに出されれば反論はできない。
素直に頷いて神妙に身体を丸めると、再び部屋に沈黙が落ちた。
やがて、ぽつりと言葉が漏れる。
「それでも、お前がやろうとしてることの邪魔にはなりたくないんだよ」
「……」
「俺は、お前に、もっと頼ってほしい」
充分頼ってるよ、と言いかけて、キリは言葉を詰まらせた。
それでは足りないと、そう、言われているのだろうか。
少し迷って、彼の背中を見ながら口を開く。
「私としては、お前には助けてもらってばかりだと思ってるよ。だから、助けてもらったぶんお前を助けたいとも思う」
彼は微動だにせず、キリの言葉をただ聞いていた。
「もしそれが迷惑なら言ってもらっていい。けど、そうでないなら私にも手を貸させてほしい」
「けど」
「一方的に助けてもらうのも、気が引けるだろ?友達なら尚更」
反論しようとしたらしい唇は閉ざされる。
少しだけ待ってやって、彼がそれ以上口を開かないことを確認して、キリは言葉を続けた。
「それに、私もできるだけ寄り道しないように気をつけるけど、私がやらないといけない事はそれができるような一本道でもないからさ」
「……そうなのか?」
「ああ、色々首突っ込んで調べ物して、遠回りもしながら探ってく感じになると思う」
だから、とこちらを振り向いた彼を見上げる。
「ごめん。これからも多分たくさん頼ると思うけど、付き合ってもらえると嬉しい」
こちらを見下ろすイシュと視線が絡んで、キリは小さく微笑した。
彼は居心地悪そうに視線を逸らしたが、僅かな間の後に再びキリへと視線を戻す。
それから小さく頷いたのを確認し、キリは今度こそ笑う。
そして、真面目な空気を吹き飛ばすかのように声を少し明るくして、話題を切り替えた。
「にしても、お前はほんと色々できるようになったよな。会った頃は魔法で整地もできなかったのにさ」
「お前は会った時と何も変わらないよな。相変わらず死にかけてばかりだ」
口元が思わず引きつったが、イシュがそこでやっと笑ったのを見て、文句は飲み込んだ。
苦いものが混じってはいたが、釣られたように笑ってやると、少し彼の雰囲気が柔らかくなる。
それから何事か言いたげに口を開いたイシュは、ややあって唇を引き結んだ。
瞼を落とし、言葉を捜すように視線を彷徨わせる。
「……俺は、」
まだ何かあるのかと目を瞬くキリと視線を合わせ、イシュは告げた。
「お前がいてくれて、良かったよ」
月明かりが照らす彼の表情は、笑っていた。
「俺、結構な間、目的もなくふらふらしてたからさ。こうしてお前と一緒にいるのも、外に出て色々なものを見るのも楽しいんだ」
目を瞠ったまま言葉を失うキリを前に、イシュは続ける。
「まだ俺自身何がしたいとかは、わかんねーんだけど。とりあえず今は、お前の手伝いがしたいって思う」
「……うん。ありがとう」
辛うじてそれだけ返し、キリはそっと視線を逸らした。
僅かに間を置いて、途切れそうになる言葉を何とか繋げる。
「じゃあ、とりあえず。明日は夕方、リノさんに時間をもらえたから。その前にネイアさんのとこに挨拶と、ジェドの様子見に行こうか」
「そだな。アルムも心配してるだろうし、丁度いいだろ」
「うん。それじゃあ、おやすみ」
おやすみ、と小さな声が帰ってきて、毛布越しに触れていた熱が消えた。
少しして枕元に赤い塊が丸くなったのを見て、キリも目を閉じる。
やがて。
しんと静まった部屋の中。
傍らで眠る赤いトカゲをちらりと眺め、キリは静かに息を吐いて月を見上げた。
本当は、それではいけないと分かっていた。
できるだけ早く、出来うる限り全てに代えて、キリは元の世界へ帰らないとならなかった。
――考えるうち、自然とその言葉が出てきた自分に気づいて、キリは顔を顰めた。
「……違うだろ」
聴く者もいない部屋の中、毛布に遮られてくぐもった声が溶けて消える。
帰らないとならない、なんて。
あの頃は思ったこともなかった。




