17.慟哭に似た
渦を巻くように高まった風圧が、鋭い音を立てて破裂する。
それと同時に、キリとイシュの周囲にバチッと音を立てて紫電の光が走った。
驚いて目を見開くと同時、吹き荒れていた風が嘘のように辺りが静まり返る。
ぽかんと目を瞬くキリの前で、キリを睨んでいた男が目を瞠ったのが見えた。
「……今のは、お前か?」
「だったら何だよ」
要領を得ない言葉に返るのは、イシュのぶっきらぼうな返事だ。
そこでようやく、もしかして魔法で打ち消してくれたんだろうか、という所まで思考が至る。
魔力に関しては完全に蚊帳の外であるが、どうやらイシュが守ってくれたらしい。
眉間に皺を刻んだ男が言葉を続けようとした時、遠くから鋭い声が響いた。
「何の騒ぎだ!」
キリも聞き覚えのある声だ。
祭りの開催の挨拶をしていた覚えがあるから、お偉いさん……というか、族長だろう。
やべ、とイシュが呟いたのに対し、目の前の男はといえば、僅かに目を眇めたのみだ。
先程の言い争いなど無かったとばかりに、イシュに向かって言葉を投げかける。
「……大人しく里にいろ。その選択をいつか後悔するのはお前だ」
「後悔なんてしない」
「戯言をぬかすな。下手に人間などと関わるから変な影響を受けおって」
言い返そうと身を乗り出したキリだったが、言葉を紡ぐ前にぐいっと腕を引っ張られた。
驚いて振り返る間もなく、腹に腕を回されてあっという間に俵担ぎされる。
「え、ちょ、」
「口閉じてろ」
言うが早いか、イシュはキリを担いだまま力強く地を蹴った。
ぐん、と唐突にかかった加速に驚くキリの脇を男が通り過ぎ、あっという間に離れていく。
大股に男の脇をすり抜け、イシュが向かう先は魔法陣だ。
唐突な動きに反応が遅れたのだろう、男は一瞬目を瞠り、魔法陣を振り返る。
止めに入れる人間がいないことを確認すると、眉間に皺を寄せたものの、追ってはこなかった。
……恐らく、このまま逃げおおせてしまおうという魂胆だろう。
キリとしては、ここで逃げるよりは話をした方がいいと思うのだが、生憎と闖入者もやってきた。
そもそも口を開いたところで舌を噛みそうだと判断し、沈黙を守る。
だん、と音高く魔法陣に踏入り、イシュは男とその隣にやってきた男性を振り返った。
間髪入れず、足元から淡く光が立ち上り、視界を覆っていく。
キリの耳元で、震えるように息を吸う音。
彼らにはおそらく聞こえなかったろうそれに、キリが顔を上げたと同時。
イシュが叫んだ。
「俺は!――飼い殺しにされるだけの役立たずにはなりたくない!!」
そんな叫びに間髪入れず、光が舞っていた視界が真っ白に染まる。
耳鳴りのような高い音と共に、キリを襲うのは奇妙な浮遊感だ。
思わず目を閉じたキリの瞼の裏で、光が弾けた。
そうして次に目を開いたとき、そこはアルシータの森の中だった。
転移陣の光が消えたことを確認して、イシュは大きくため息をついた。
担いでいたキリを降ろし、ちらりと足元の魔法陣を見やる。
僅かに目を伏せてから、振り切るように森の中へと視線を移した。
「行くぞ。追ってこないと思うけど、もし捕まると……」
まずい、とでも言いかけたのだろうか。
彼の言葉が最後まで紡がれるのを待たず、キリはぎろりと彼を睨み上げた。
「言い逃げかお前」
帰ってくるのは沈黙だ。
歩き出していたイシュは足を止め、気まずげにゆっくりと視線を逸らす。
「つーか、あそこまで反対されてるのにそんな手使ったら、そりゃ怒られるわ」
「う、」
「悪いこと言わないからもう一回ちゃんと話してこい。絶対その方が後悔しないから」
今すぐが無理なら少し時間置いてでもいいから、と続けるが、彼の反応は芳しくない。
僅かな呻きを漏らした後は、唇を引き結んだまま視線を逸らし、地面を睨みつけているだけだ。
暫しの沈黙。
待ってはみたものの、反応らしい反応は返ってこない。
これ以上粘っても今は無理だと判断し、キリはため息を吐いた。
「分かった。とりあえず、一旦王都に戻ろう。返事はそれからでいい」
「……」
「けど、一応言っとくぞ。逃げたこと、私は怒ってるんだからな」
念を押すように言い置いて、歩き出す。
ちらりと窺ってみたものの、イシュからの返事はない。
だが、そのまま彼を追い越そうとしたキリは、ぐいっと強い力で肩を引かれた。
突然のことに目を瞠ったが、抵抗する間もなく、近くにあった木の幹へと押し付けられる。
背中を打って痛みに眉を顰めたキリの頭の上へ、鈍い音を立てて拳が叩きつけられた。
驚いて見上げたイシュの表情は、ひどく強ばっている。
「……俺も、」
一旦視線を逸らし、けれどそれは間を置かず再びキリへと向けられた。
鋭く睨む金色の瞳の中に燃えるような感情を見つけ、目を瞬く。
「俺だって、怒ってる」
ややあって絞り出されたのは、唸るような低い声。
何とか抑えようとして、けれど抑えきれない怒りが漏れ出しているかのような。
その矛先は、キリだ。
目を瞠って少し考え、口を開く。
「……喧嘩に口挟んだことか?」
「そうだけど、そうじゃなくて!!」
吐き出された言葉は、しんと静けさに沈んだ森を満たすように広く響いた。
激情を表すかのように、彼が握りしめた拳はわずかに震えている。
彼の口が物言いたげに開かれては閉じられ、歯が食いしばられる。
それを前に、キリは紡ごうとした言葉を飲み込んだ。
ただ黙って、イシュの言葉を待つ。
ややあって、搾り出すように告げられたのは、思ってもみなかった言葉だった。
「お前、やりたいことがあったんだろ!?」
やりたいこと。それは、確かにあるけれど。
戸惑いながらぱちぱちと目を瞬くキリに、「だから!」とイシュは言葉を紡ぐ。
「……譲れないことがあって、だから、あんなになってまで、頑張ってたんじゃないのかよ」
あんなになってまで、と。
その言葉が指す意味に気づいて、キリは問いかけようと開きかけた口を閉じた。
代わりに、強く向けられる視線をまっすぐ見返す。
「他人を傷つけて、それで自分も傷ついて、それでも叶えたかったんじゃないのかよ」
紡がれる声は、怒りゆえかそれ以外の何かか、わずかに震えていた。
それでもキリを射る視線の鋭さに、変わりはなく。
ひどく苦しそうに、辛そうに、イシュは言葉を繋げた。
「俺にはそれが何なのかは解らねえよ。けど、必死なのはわかる。……だからこそ、俺はお前の力になりたいって思ったんだ」
言い切って、ひゅっと苦しげに息を吸う音が近い。
なのに、と続いた言葉の響きは、一瞬泣きそうに聞こえた。
「……こんな所で俺なんか庇って、死にかけてる場合じゃないだろうが……っ」
ずる、と。
力の抜けた拳が、キリの肩に落ちる。
その手は訴えるように肩を掴み、その強さにキリは思わず眉を顰めた。
訴えるようにキリを見つめていた視線が、はっとしたように逸らされる。
ややあって。
肩を掴む手は、ゆっくりと外された。
「……ごめん」
言いすぎた、と。
ぽつりと残して、イシュは踵を返した。
強く握られて白くなった右手が、僅かに震えている。
どうにもならない感情の吐露。
言った本人も、それを向けられたキリも。
それに続けて告げるべき言葉を、見つけることができずにいる。
強く掴まれた肩に手を当てたまま、キリはただその背中を眺めて、立ち尽くした。
その日の夕刻。
王都へと帰ってきて真っ先に薬屋を訪ねたキリたちだったが、ネイアは生憎と不在だった。
王宮に子ども達を診に行ったまま帰っていないと聞き、キリたちは王宮へと向かう。
だが、中に入って探してみたものの、ネイアの姿は見えなかった。
仕方なくリノを訪ねると、彼女は書類の山から視線を上げて「あら」と手を振って返した。
「ネイアさんがここにいるって聞いたんだけど、入れ違いかな」
「いえ、いるわよ。ただ、今ちょっと仮眠室で寝かせてるけど」
「……倒れたのか?」
「そこまでじゃないわ。年甲斐もなく徹夜なんかするから疲れただけよ」
私も休憩がてらお茶でも淹れるわ、と彼女はぐるぐる肩を回しながら立ち上がる。
「ネイアに用なら、明日の朝もう一度来てもらったほうがいいかもしれないけど」
「それでもいいんだけど、頼まれてたものを持ってきたんだ。早い方がと思って」
そう告げて袋を掲げてみせると、彼女は目を瞬いてから「はあ!?」と身を乗り出してきた。
その勢いに思わず身を引いたキリをよそに、彼女は信じられないとばかりに袋を凝視している。
「これって、ネイアが探してたやつでしょう?早すぎない、というかどうやって!」
「あ、あー。色々あって、手に入ったんで」
「……色々ねえ。あんた達、本当に訳わからないわね」
キリの返事に呆れたように呟いて、彼女は肩をすくめた。
幸いなことに追求はなく、「とにかく」と言葉を続ける。
「とにかく、それなら助かるわ。すぐ叩き起して薬を作らせるから」
「悪いけど、頼む。リノさんも疲れてるところ悪いけど」
「リノでいいわ、愛称だし。仕事なんだからいいのよ。……それより」
と、言葉を切って彼女は居住まいを正した。
面食らって目を瞬くキリに向かって、軍人らしく敬礼の姿勢を取る。
「洞窟の件然り、薬の件然り。今回の件に関する貴方方のご協力に、深く感謝します。お陰で助かるであろう子ども達がたくさんいるわ」
「……いや、私たちこそ役に立てて光栄だよ。子ども達の事、よろしく頼む」
笑みを浮かべて頭を下げると、彼女は当然とばかりに頷いて返した。
敬礼を解き、腕を組んで笑みを浮かべる。
「ま、個人的にもお礼はしたい所よ。特にキリ、貴方にはアルムとジェドがだいぶお世話になったようだしね」
「世話……まあ、成り行きでって感じではあったんだけどな」
頬を掻きながら苦笑する。
アルムがどこまで自分との出会いを話しているかは分からないが、言及しない方がいいだろう。
言わぬが花ということもある。
キリの言葉には首を傾げたものの、リノは追求せずに次へと話を進めた。
「それと、事件への協力に関しては、本来なら国を通してちゃんとお礼をするべきなんだけど」
「ま、今はそんな状況じゃないからな」
「そうね。悪いけど、貸し一つってことでいいかしら?落ち着いたら改めて、褒賞の一つも用意させてもらうから」
「それは別にいいよ。代わりに、可能ならリノに少し時間をもらいたいんだけど」
魔術について話を聞かせては貰えないだろうか、と窺ってみる。
洞窟で手を貸した時の言葉を思い出したのか、彼女は「そうだったわね」と頷いた。
「構わないわ。ただ、今日はまだ難しいの。厄介事の処理は今晩で片付くし、明日には家に戻れると思うから、もし良かったらその時夕食を一緒にどう?」
「ああ、是非」
じゃあ明日の夕方に、と約束をしたところで、彼女は「ところで」と口を開いた。
「イシュはどうしたの?」
「……調子が悪いみたいで、宿で待ってる。何かあれば伝えようか?」
「いえ、一緒にいなかったから気になっただけよ。貴方のこと本当に心配してたようだったし、会った後も目を離すのも怖いって感じだったから」
……覚えがあまりないが、奴はそんな態度をしていただろうか。
段々と微妙な表情になっていくキリに気づいたか、彼女はにやりと人の悪い笑みを浮かべて。
「自覚がないなら今度観察してみなさい。面白いわよ、彼」
「……考えておくよ」
硬い響きの声になってしまったが、リノは別の理由と勘違いをしてくれたらしい。
くすくすと笑い声が響く中、キリはからっぽのポケットに視線を落とした。




