8.敵の敵、味方の味方
闇の帳の内側、静けさを取り戻した牢の中。
意識を失ったジェドを抱え上げ、キリは辺りを見回した。
この牢をいち早く見つけられたのは幸運だった。
ここが何の施設なのか、他に何があるのかは知らないが、まずは無事に彼を連れ帰ることだ。
……他の子どもたちをこのままにしていくのは忍びないが、今のキリの手には余る。
意識があったらしい子どもがぼんやりと見上げてくるのと目が合って、奥歯を噛み締めた。
「ごめんな」と搾り出すように呟き、視線を外す。
腕力に物を言わせて檻をへし曲げ、出口を作る。
ついでに、簡易ではあるが武器にでもなればと一本棒を折り取って拝借した。
剣のような重みも切れ味もないが、リーチは似たようなものだ。
振り回すだけなら不足ないだろう。
そのままジェドを抱えて牢を出たキリの耳に、微かな音が飛び込んでくる。
わずかに反響しながら近づいてくるそれは、足音だ。
息を潜め、キリはジェドをそっと床に降ろした。
見回り、だろうか。
見張りがいないことを考えると、可能性は高い。
もしかしたら、キリが落とし穴に落ちたことに気づき、やってきたのかもしれない。
薄暗い洞窟の中、あたりの様子を把握する。
鉄格子は周りの壁から少し奥まった位置に設置されており、少し離れた場所に机と椅子がある。
入口は、壁に遮られて牢の中からは見えない状態だ。
牢の外、視界を遮る壁に張り付くようにして陣取り、キリは様子を見ることにした。
そろそろ空洞の中に入ってくるだろうという頃になって、足音が一旦途切れる。
何事かと眉を顰めたが、僅かな間の後、足音は中へと入ってきた。
探るような間隔で、一歩、二歩。
気配に気づかれているのか、足取りはゆっくりだ。
キリから攻撃を仕掛ける気はなかったが、自然と空気が張り詰めていく。
そして、足音がもうすぐ間合いに入ろうかというその一瞬。
近づいてきていた気配が消えた。
目を瞠る間もなく、ヒュ、と微かに風を切る音。
間近で膨らむ嫌な気配に反応し、キリは咄嗟に手元にあった鉄の棒を振り上げた。
「っ」
鈍い音と共に鋭い衝撃が走って、キリは目を眇めた。
ぶつかりあったそれらが、ギチギチと音を立てる。
流石に全力ではないが、キリと張り合う膂力の持ち主はそういない。
ついでに言えば、足運びからして相当の手練だ。
多分このままやったら負けるな、と冷静に思うと同時、強い衝撃と共に一旦武器が引かれる。
二撃目。
薄暗い視界の中で捉えたのは、下手するとキリの身長ほどもありそうな長槍だった。
突くのではなく薙ぐような動きを見てとって、キリは眉を顰める。
通常であれば、槍を掻い潜って懐へと飛び込み、拳でお話するのが定石だ。
だが今は、後ろにジェドがいる。
攻撃が当たってしまう可能性がある以上、ここを動くことはできない。
衝撃に備えて腰を落とし、キリは槍の軌道上へと棒を滑らせた。
再び襲う衝撃をいなし、受け止める。
防戦一方となれば、近いうち息切れして負けるのは目に見えている。
さっさと無力化できれば一番なのだが、易易とそれをさせてくれる相手かどうかは解らない。
隙を見て何とか急所に一撃入れることができれば、意識を狩ることはできるだろうけれど。
さてどう動こうか、と考えたその時、ふっと感じていた重みが消えた。
今度は突きか薙ぎか、と身構えるキリだったが、相手はそれ以上の動きを見せなかった。
武器を引いたまま、キリを見て、後ろに庇うジェドを一瞥し、もう一度視線をキリに戻す。
逡巡するかのような僅かな間の後、
「……ここの関係者じゃなさそうだな」
目の前の影から零れたのは、そんな言葉。
張り詰めていた空気はどこかへ消えて、向けられていた敵意も失せている。
そこで初めて、キリにも相手を観察する余裕が生まれたわけだが。
武器を収める相手の姿――闇の中でも微かに光る、青い肌の色には見覚えがあった。
見間違えるはずもない、キリが追いかけてきたあの亜人の男だ。
思わずぽろりと言葉が漏れる。
「あんた、さっきの」
「途中からこそこそ俺を尾けてたのはお前か」
ばれてた。
決まり悪さについつい視線を泳がせたキリだったが、彼にとってはどうでもいいことだったらしい。
「それはともかく」と鋭い目つきで辺りを睥睨して。
「……そいつよりもいくらか幼い、青い肌の男子を見なかったか」
告げられ、キリは弾かれたように辺りを見回す。
倒れている子ども、壁際で蹲っている子ども、その中に。
仄かに青白く光る肌をした子どもがいた。
「あそこ、あの子か?」
キリの差す先を確認し、男は血相を変えて走り寄っていく。
なるほど、どうやら彼もキリと同じ目的でここまで来たらしい。
少なくとも敵にはならなさそうだと小さく息を吐き、キリは再びジェドを抱え上げた。
「……間に合いそうか?」
「なんとか、といった感じだな。……生きていてくれただけで上々だ」
心底ほっとしたように続いた言葉に、キリも小さく息を吐く。
間に合わなかったなんて言われたら、寝覚めが悪いどころの話ではない。
お互い探し人が見つかったところで、キリは「それで」と口を開く。
「見たところ、私たちの目的は似たようなものって事でいいんだな?」
「だろうな。お互い子供を抱えていることだし、手を組むというなら異存はない」
「よし。……ひとつ聞いておきたいんだけど、ここまで妨害はどれくらいあった?」
一直線でここに来てしまったキリとしては、行きはよいよい帰りは怖い、というのが本音だ。
彼が全て倒してきてくれたのならば大変楽だが、流石にそれは希望的観測に過ぎるだろう。
案の定、彼から返ってきたのは非常に現実的な言葉だった。
「ここまで来るだけなら手練はそう多くなかった。だが、恐らく一番守りの堅い部分は素通りしてきたからな。すんなり帰してくれるとも思えん」
「一番守りの堅い部分、ね……」
ここが一体何の施設、隠れ家なのかはキリには解らない。
彼に話を聞けば教えてくれるだろうが、キリが口を開く前に彼が口火を切った。
「しかし、お前は奴らに見つからずにここまで来たのか?抜け穴でもあるのか」
「……いや、一方通行。見つからなかったのは多分あんたのお陰様だよ」
あの程度の罠に引っかかる奴なら放っといても死ぬと思ったのか、もしくはこの男に気を取られていたのか。
タイミング的に、気づいていてもこの男に掛かりっきりでこちらに割く手がなかった可能性も高い。
まあ、バカ正直に落とし穴に落ちたことを話す必要もないだろう。
曖昧に誤魔化すと、「そうか」と彼は簡単に話題を打ち切った。
「ここは長居したい場所ではないな。話は後だ、さっさと出るぞ」
「ああ」
ジェドを抱え直し、二人は牢を後にする。
キリはちらりと残された子供たちを一瞥したが、男は彼らに見向きもしなかった。
空洞を出た瞬間に空気が変わったのを感じて、キリは思わず大きく息を吸い込む。
どうやらあの空洞だけ、ひどく空気が澱んでいたらしい。
他より一段低い場所に位置していたのもあるだろうが、やはりあの状態が一番の理由だろう。
……早くここを出て、彼らをなんとか助け出さなくてはなるまい。
男も似たような心持ちだったのか、ひとつ大きく深呼吸する。
その後、早足で先を歩き始めた。
所変わって。
魔法王国アルシータ、その王宮の一角。
決して少なくない部分を陣取る魔法部隊の司令部は、本日も阿鼻叫喚の様相を呈していた。
世界各国から魔法に関する知識・学識が集まるこの都市の魔法部隊は、質量共に最高峰と言える。
常であれば、数多くの優秀な隊員が王宮に詰めているのだが、今ばかりは事情が違った。
流行り病に倒れた魔法部隊の隊員は、少ないどころかむしろ他の部隊よりも圧倒的に多い程。
ただでさえ人手不足の中で、しかしながら早急に進めなければならない仕事は山積みだ。
現在王都を飲み込む病への対応、それに伴う治安悪化の対応、ついでに言うならティンドラとグラジアの戦争への対応。
下部組織や他部隊どころか王宮のお偉い人まで巻き込んで、王宮は本日もバタバタと騒がしい。
さて、そんな中。
怒号や喧騒を扉の外に聞きながら、三人はお茶を前に椅子に座っていた。
「っていうか悠長にお茶飲んでる場合じゃないんだってばーーー!!!!」
「うるさい」
一蹴。
べちりと湿った音と一緒に、アルムが沈黙した。
ややあって、叩きつけられた濡れ布巾を顔から引っペがし、アルムが抗議する。
「静かにするならばここにいてもいい、そう言ったはずだけど?」
「う、だ、だってっ」
「できないなら部屋の外で待っていなさい」
「やだっ!」
即座に帰ってきた強い拒否の言葉に、漏らされる嘆息。
ややあって、呆れたようにアルムを眺めていた視線は、男へ向けられた。
「――それで?」
あからさまではなく、やんわりとではあったけれど。
声音に潜む警戒心と伺うような視線は、確かに男に向けられたものだ。
部屋に漂う緊張感の中、彼はひどく気まずそうにポリポリと頬を掻く。
「えーっと、突然訪ねて驚かせたのは謝る」
「前置きはいいわ。急いでるならとりあえず話を聞かせなさい」
ばっさりと切られ、男は苦笑する。
どうやら無駄な話を嫌うらしいと判断したのか、女性の言葉に従った。
「じゃ、お言葉に甘えて。この街の北東にある森、特に最近獣の数が減ってるって報告が上がってる一帯。あそこの調査を至急で、っていうか、この話が終わったらすぐ調査隊を結成して行なって欲しい」
「なぜ?」
「急ぐのは、その周辺で行方不明になってる奴がいるからだ。この状況で兵士は動いちゃくれないし、元々調査をする予定だったあんた達に頼むのが一番早いと思った」
そう告げると、彼女はすっと目を眇めた。
ちらりとアルムを見下ろし、両手で口を抑えて黙っていることを確認してから口を開く。
「調査と捜索は別物よ?このクソ忙しい状況で、自分たちから危険に飛び込む馬鹿まで面倒見てられないのは分かってる?」
「普通ならな。でも今回の調査って、今この国に蔓延してる病気の原因を突き止める為のものだろ」
「そうね」
「だったら俺が協力できる。場所に心当たりもある。ついでに言うと、探してる奴らもそこにいる可能性が高い」
彼女は目を眇めたまま、腕を組んだ。
品定めするかのように男を見る視線からは、遠慮が消え失せている。
「つまり、情報を提供するから協力しろと。貴方の情報が正しいという証拠は?」
「ない。けど、なんで知ってるかっていう理由はある。あの森、ある一帯を中心に魔力の汚染が起きてるんだ」
「汚染、ね」
「あの森を睨んでるなら、もうあんた達も気づいてる筈だ。アルシータで流行ってるこの病気の原因は、魔力だって」
この一言は、どうやら考えるに足る言葉だったらしい。
目を閉じた彼女は、暫くの沈黙のあと、ぽつりと呟いた。
「……病気と魔力が繋がる根拠は?」
「薬、かな。あんたが飲んでるっていう薬に使った花、あれって魔力に働きかけるものだろ」
男の言葉に、彼女は一つため息をついた。
「なるほど、それで私をご指名だったわけね。事情を知ってるから一番説得しやすいと」
「アルムがいたからってのもあるんだけどな」
「ま、その辺は今はいいわ。ともかく事情は分かりました」
組んでいた腕を解き、全く手をつけられていなかったお茶に手を伸ばす。
冷えた茶を一口、息を一つ。
「交渉の仕方はともかく、交渉相手は正解だったと言っておきましょうか。すぐに人をかき集めてくるから、それまでここで待ってて」
「分かった」
「あ、あのししょー、ボクも一緒に」
「そうね、病人を一人にしておくのは危ないし、何かあったらジェドが悲しむわけだけど、あなたはどう思う?」
「ハイ!看てます!戻ります!」
びしっと背を正したアルムに一つ頷き、彼女は椅子を立つ。
そのまま部屋を出ていこうとしたが、ふと思い出したように振り返る。
「ああそうだ。今のうちに、ひとつ聞いておきたいのだけど」
「なんだ?」
「アルムがお世話になったっていうキリって人間のお知り合い、さん。お名前は?」
ああ、そういやまだ名乗ってなかったか、と男は呑気に頭を掻いた。
炎のように燃える赤毛の間で、黄金色の瞳が柔らかく細まる。
「長いから色々呼ばれるんだけどさ。イシュトヴァーユっていうんだ。適当に呼んでくれ」
「あら、仲間ね。私はリノヴィラよ、ヴィラでもリノでもお好きにどうぞ」
くすりと笑った彼女の、清水のような青銀の髪が流れる。
海のように青い瞳をゆらりと揺らめかせ、彼女はひらりと手を振って部屋を出て行った。




