3.花咲く森の道
久々に踏み入れる森の中は、相変わらず鬱蒼としていた。
森の入口では心地よいほどに降り注いでいた木漏れ日は、進むにつれて枝葉に覆い隠されていく。
湿り気を帯び始めた地面を踏みしめながら、キリはつい半月ほど前に通った道をゆっくり歩んでいく。
ただ一つ違うのは、ジェドがアルムのフォローをしてくれている事だ。
前回も散々なドジっぷりを見せたアルムだが、今回も例に漏れず泥まみれへの道を一直線だった。
だが、根に躓いてすっ転びかけたアルムの襟首を掴み、目の前に垂れる青葉に気づかないアルムの脛に蹴りを入れ、沼に足を突っ込みかけたアルムを突き飛ばし。
明らかに、前回の惨劇を回避するのに一役買ってくれていた。
ただし、その度に「ぐえっ」「ぎゃー!」「何すんの!」という悲鳴さえなければ、だが。
……うん、多少暴力的な点についてはキリも気になっているが、アルムの反応的にどうやら日常茶飯事のようだ。
些事を除けば、見ている限り彼らは中々いいコンビだった。
感心しつつ後ろをついていくキリとしては、先日よりだいぶ気楽な心持ちである。
そして事前の情報通り、森の中に獣の気配は少ない。
以前は所々にあった木の幹の傷だとか、踏み荒らされた跡だとか、そういった痕跡はざっと見ただけでは殆ど見つけられなかった。
ただ、小鳥の鳴き声はよく耳にしたし、揺れた草から虫が飛び立つ姿もよく見かける。
どうやら大型の獣だけが姿を消しているようだ。
森の様子を観察しながら後を付いていくキリを、アルムが振り返る。
「ねえキリ」
「前見て歩けよ、危ないぞ」
「うん。ね、もしまた獣に会っちゃったら全力で逃げるんだよね?」
「逃げる?」
その単語に引っかかったらしいジェドが、眉間にしわを寄せる。
「じゃあなんでわざわざ付いてきたんだよ。あんた傭兵なんだろ、剣の一本も振れないのかよ」
睨むような視線に貫かれ、キリは言葉に詰まった。
確かに、アルムと出会った時のキリは帯剣していたし、傭兵に見えただろう。
どちらにしろ、旅をする者が剣を使えないなんて話にもならない。
ただ、確かに今は帯剣もしていなければ剣を振るつもりもない。
言われっぱなしも癪ではあるが流しておくか、と口を開きかけたキリの隣で、アルムが眦を釣り上げた。
「ジェド、そういうこと言わないの!」
「何だよ、当然だろ。護衛としては役立たずじゃないか」
「何言ってんの、凄いんだよ!キリは逃げ足めっちゃ早いんだから!!」
「それ褒められてる気がしないんだけど」
まあ、子供二人くらいであれば抱えて走ることはさして難しくない。
ジェドは嫌がるかもしれないが、そんな状況になれば流石に空気を読んでくれるだろう。
道中少し話しただけだが、彼が年の割に随分としっかりしていることはキリにも解った。
頭もいいし、将来有望なのは間違いない。
じっと眺めるキリの視線に気づくと、ぷい、とジェドはそっぽを向いてしまった。
鼻を鳴らし、歩く速度が少し上がる。
キリとしても、会って数時間でここまで嫌われるとは思ってもみなかった。
警戒されるわ突っかかってくるわ、初対面の相手に対してはだいぶ失礼な態度だ。
ただ、その理由には何となく予想がついているので、別に怒りは湧いてこない。
むしろ生温く見守ってやりたいくらいの気持ちではあった。
性別を誤解していることを指摘してやらないのは、単なる意地悪だ。
しばらく森を進んだ頃。
少し傾きかけてきた太陽を背に進んでいたキリたちは、岩場へと差し掛かっていた。
先日アルムと森に来た際、目的の花を見つけた場所だ。
群生することはないらしく前回も多くは見つけられなかったが、近くに生えている可能性は高い。
この辺りを探してみる意味は十分にあるだろう。
花を探して辺りを見回すアルムとジェドの後ろを歩きながら、キリも周囲に目を配る。
以前獣に遭遇したのもこの辺りだ、警戒するに越したことはない。
そして。
ふと視線を投げた木立の中、明らかに自然のものではない色合いを見つけ、キリは息を潜めた。
前を行く背中に、止まって、と合図を送る。
不思議そうに振り返った少女と渋々足を止めた少年を手招きし、キリはそっと木陰から様子を伺った。
少し離れた場所、木立に紛れるような岩陰の横に居たのは、人間だった。
濃紺や白の外套を纏った、恐らく男性が三人。
彼らは何をするでもなく、佇んで話をしているように見えた。
彼らを確認したらしく、ジェドが目を眇める。
「なんだよ、人間じゃないか。隠れる必要なんて」
「何言ってんだ」
人間が一番怖いだろどう考えても。
人間不信になりつつある自分には気づいているが、キリはその主張を曲げるつもりはない。
曲がりなりにも保護者としてここにいるのだから、尚更に。
そんなキリの言葉に警戒心を強めたか、アルムはキリの背に隠れながら岩陰を眺める。
「ボクたちと同じように、花を採りに来たんじゃないの?」
「にしては探し物をしてるようにも見えないが……」
何をするでもなく、その場から動かない彼らは、何かを待っているようにも見える。
こんな場所で待ち合わせというのも考えづらいが、全くありえない事でもない。
逆に判断も付けかねる状況だ。
「……まあ、なるべく静かに行こう。関わり合いにならなければいいだけの話だ」
「うん、早く見つけて帰ろ。ジェド、行こう」
アルムが声を掛けるが、ジェドは立ち止まったままだ。
掛けられた声に気づいた様子もなく、微動だにしない。
「ジェド?」
返事はなかった。
帽子の下の彼の瞳は、キリの示した岩陰、その一点から逸らされることなく留まっている。
そういえば、先程から言葉を切ったまま、彼からは何の反応もなかった。
「おい、どうした?」
「……何でもない」
キリが声をかけると、ようやっと反応があった。
だが、彼はそれだけ告げると、問いかける間すら与えずに前を向き、先へと歩き出してしまう。
アルムもジェドの様子がおかしいことに気づいたらしく、その後を小走りに続いた。
「ねえ、何かあったの?知ってる人でもいた?」
「違う。関係ないだろ」
「ちょっと、何その態度!心配してんのにさ!」
「うるさい。静かに行くんだろうが馬鹿アルム」
騒がしく後を追うアルムをどつく彼は、一見して先程と変わりない。
だが、あの一瞬、彼の様子は確かにおかしかった。
わいわいと花を探して進んでいく二人の後ろ姿を見ながら、キリは眉根を寄せる。
だが、あの様子ではキリに理由を話してくれるつもりはないだろう。
アルムに話すかどうかも怪しい。
少し心配ではあったが、いま追求したところで彼の機嫌が悪くなるだけだ。
とりあえずは放っておこうと決め、キリも花を探して辺りを見回し始めた。
――そうして、花を探すことしばし。
全く挙がらない戦果に、アルムが嘆きの声を上げた。
「……何か、全然見つからないね」
ジェドは無言で探しているが、表情に少しずつ焦りが見え始めている。
アルムの隣で足元に目を配りつつ、キリも眉根を顰めた。
「あそこにいた奴らが採っていったのかもしれないな」
高価な薬になるというのなら、獣が少ない今のうちに森に入っておこうと考える者がいてもおかしくない。
岩陰にいた彼らがそういった手合いの者たちであれば、根こそぎ花を採っていってしまった可能性もある。
「もう少し奥に行ってみるか……?」
目を眇めて森の先を眺めるが、岩場の奥は鬱蒼と茂った木々に遮られてしっかり見通せない。
ここよりも奥に進めば、完全に陽の光が遮られるような、深い森へと踏み入ることになるだろう。
いくら昼とはいえ、太陽も見えないほど深い森に、何の準備もなく入っていくのは危険だ。
獣達が出てくる可能性も高い。
かと言って、このまま諦めて帰ることも難しいだろう。
そんな提案をしたら、ジェドが一人で森の奥へと入っていきかねない。
次の行動を決めあぐねているキリに業を煮やしたか、岩の隙間を丹念に探索していたジェドが顔を上げた。
「ここにはなさそうだ。もっと奥へ行こう」
「アルム。あの花は岩場に生えるのか?」
「うーんと、ちょっと湿った日当たりのあんまり良くない岩場って師匠が言ってた」
確かに、それなら少し奥へ進めば生えていそうだ。
それなら二人にはここで待っていてもらおうか、と考えたその時、もぞりとポケットが動いた。
ひょこりと頭を出した赤いトカゲは、音も立てずキリの身体を伝って地面に降りる。
そのままきょろきょろと辺りを見回すと、するりと岩場を滑るように駆け出した。
あっという間に、小さな姿は森の奥へと消えていく。
「ヴィー!?」
「えっ何何!?ヴィーどっかいっちゃったの?」
「……動物なんて連れてくるからだ」
迷惑そうな顔をしつつも、ジェドはヴィーの後を追って走り出した。
慌てて後を追おうと踏み出した先で滑ったアルムを支えてやりながら、キリも遅れて後を追う。
木立に遮られた視界の中、ヴィーを追うジェドの足は速い。
キリはといえば、所々で足を引っかけるアルムを連れて追うので精一杯だった。
そして、しばらくの追いかけっこの末。
垂れた枝葉を抜けた先、視界に飛び込んできたのは、岩場に片膝を付いたジェドの背中。
花を見つけたのであればさっさと採っているだろうに、一体どうしたことか。
ようやく追いつき、キリと共にそこを覗き込んだアルムが、あっと声を上げた。
「あったんだ!けど……蕾かあ」
アルムの言葉通り、岩陰には蕾をつけた花が一輪、風に揺れていた。
恐らく、あまりにも小さかったため見逃されたのだろう。
僥倖ではあるが、キリとしては懸念がある。
「これで足りるのか?」
「薬にするには十分だ。……ただ、」
「咲いてないと駄目なんだよねー」
うーん、と腕を組むアルムの足元で、ヴィーがゆらゆらと尻尾を揺らしていた。
それに気づいたキリが視線を落とすと、縦長の瞳孔とぱっちり目が合う。
逸らされない視線に、まるで何かを問いかけられているようだと思うのは、考えすぎだろうか。
ヴィーは魔法が使える。
もしかしたら、この花を咲かせることもできるのかもしれない。
ただ、二人にヴィーが魔法を使えることを知られてしまうのは良いことではないだろう。
どうすべきか、と悩みかけたキリの耳に、事も無げに紡がれるジェドの言葉が飛び込んできた。
「おい、アル。何とかできるだろ」
「何とかって言われてもー。知ってるでしょ、ボク簡単な魔法しか使えないって!」
「種から芽吹かせろっていうんじゃないんだ、少し土に魔法かければいいだけだろうが」
「簡単に言わないでよ、土の魔法は苦手なんだってー!!」
二人の会話を聞きながら少し考え、キリは微かに首を横に振る。
ヴィーは応えるように尻尾を振ると、するりとキリのポケットへと戻っていった。
その間に、二人の会話は進展を見せていた。
「練習あるのみって先生も言ってただろうが」
「えー……。やってはみるけどさあ」
ぬー、と奇妙な声を上げながら、アルムは花咲く岩場の地面に手を置いた。
ジェドとキリが見守る中、目を閉じてじっと集中を始める。
周囲を満たす静寂。
そのまま五分ほど経過した時点で、ジェドが低い声を上げた。
「……おい」
「ま、待ってよもうちょっと」
そんな会話を挟みつつ、もう少し時間が経った頃。
花の周りに、ふわりと蛍のような小さな光が舞った。
おお、と目を瞠るキリの隣で、ようやくかとでも言いたげにジェドが鼻を鳴らす。
見守る二人の視線の先、やがて、蕾がほころび始めた。
仄かな燐光と共に花弁が緩み、ほわりと開く。
そこでようやく目を開いたアルムが、ぱあっと顔を明るくして立ち上がった。
ぴょんっと飛び跳ね、その勢いで隣にいたジェドに抱きつく。
「やったやった!!咲いた、咲いたよっ」
「くっつくな!」
「えへへー。見てた?キリ」
「ああ。凄いじゃないか」
ひどく上機嫌なアルムに声をかけてやると、彼女は締まりのない笑顔でブイサインを作ってみせた。
それから、キリのポケットに視線を落とす。
ヴィーが出てくる気配はないが、お構いなしにアルムはへらりと笑ってポケットを軽くつついた。
「ヴィーも凄いよね、よく生えてる場所が分かったねー!」
アルムに悪気は無いのだろう。
だが、
「やっぱキリに付いてきてもらってよかったね!」
和らいできていたジェドの機嫌が急降下した気配を感じつつ、キリは帰りの道中を思って内心ため息をついた。




