20.跳ね除けられた願い
ティンドラの基地に世話になってから数日。
キリは、ファリエンヌに会う為、基地を発った。
向かったのは、ティンドラとグラジアの国境近くの街、ユルレド。
以前も訪れた街並みは、圧倒的な人の気配のなさに支配されていた。
貴族の別荘が多いこの街は、クレイズの避難と同時期に街ごと捨て置かれたも同然だった。
まだ残っているのは、元々この街の住民であった者たちが少しだけ。
荒れた温室庭園を横目に見遣りながら、街路を通り抜ける。
行き交う馬車もなく、数名の兵士とすれ違って。
同行していたアシュトルと共に辿りついた先は、教会だった。
人の気配がしない聖堂の扉が、軋んだ音を立てて開く。
途端、天から落ちる虹色の光に照らされた荘厳な聖堂が視界に入り、キリは目を眇めた。
戦争なんて話になるまでは、さぞかし多くの人で賑わっていたのだろう。
聖壇の前に跪くファリエンヌの姿を認め、アシュトルがすたすたと近寄っていく。
足音に気づいて顔を上げた彼女は、「あら」と軽く目を瞬いて声を零し。
――アシュトルの後ろから歩いてくるキリに気づいて、息を飲んで目を見開いた。
「あ、」
「……久しぶり」
どんな顔をしていいか分からないまま掛けた言葉に、返事はなかった。
その代わりに、
音もなく。
声もなく。
ぼろ、と大きな瞳から零れ落ちた雫に、慌てたのはキリの方だった。
思わず身を竦め、歩みを止める。
「え、あの」
トラウマになってもおかしくない、と思ってはいたけれど。
剣も持っていないのに、泣くほど怖がられるとまでは、思いもしなかった。
アシュトルの奴は話をしろなんて言ったけれど、やっぱり無理だったんじゃないか。
助けを求めてアシュトルの方へ振り返った、次の瞬間。
どん、と背中に衝撃が走って、キリは悲鳴を上げてよろめいた。
たたらを踏みつつなんとか踏みとどまり、勢いよくぶつかってきた何かを確認する。
ふわふわの金髪が、キリの背中に押し付けられていた。
腹に回された細腕と背中から伝わる体温に戸惑い、浮かせた両腕が行き場を失う。
名前を呼んでも返事はなく、キリは仕方なく少しだけ身体を回してファリエンヌと向き合った。
嗚咽は聞こえない。
ただ、細くて小さな肩が、わずかに震えていた。
静まり返った聖堂の中、ぐす、と鼻を啜る音がして。
すー、と大きく息を吸う音。
「……心配なんてしてないんだからねこの大馬鹿!!!!」
「うわっ」
間近で放たれた大きな声に、思わず悲鳴を上げる。
目を瞬くキリを前に、ファリエンヌは深呼吸を一回。
「……あんたって馬鹿よね。馬鹿だわ、ほんとに」
「バカバカって連呼するなよ……」
「里から逃げたあと崖から落ちて行方不明?見つかったと思ったら、グラジア軍からアシュトルたちを助けようとして代わりに捕まった?」
馬鹿以外の何者でもないわ、と続いた言葉に、キリは言い返す言葉を失った。
「ごめん」と呟き、行き場を失っていた手で、恐る恐る頭を撫でる。
それは振り払われることもなく受け入れられ、代わりにキリの服を掴む手に力が篭った。
「生きてたって聞いて、私が、どれだけ」
崖から増水してる川に落ちたなんて、まあ普通は死んだと思うよな。
でも何で知ってるんだ、誰かに見られてたのか?と首を傾げた所で、キリはもっと重大なことに気付く。
何でグラジアに捕まってたことまで含め、ファリエンヌが事情を全部知ってるんだ。
フォミュラたちとキリが行なった脱出工作について、ティンドラは知らないはずだ。
アシュトルやイージスは、あくまで自力で脱出してきたことになっているはず。
「ちょっと待て。何で捕まってたって知ってるんだ?」
「フォミュラから直接聞いたわよ」
「フォミュラ?え、面識」
あったっけ、と続けかけた言葉は、ようやく身体を離したファリエンヌの言葉に遮られた。
軽く目尻の涙を拭い、彼女は先程までの涙が嘘かのように眦を吊り上げる。
「あの夜が初めてだったに決まってるじゃない。あんたが逃げた後大変だったのよ」
「う、それは……本当にごめん」
「ま、それが切欠で連絡取るようになったのだけれど」
思ってもみなかった言葉に、キリは目を瞬く。
被害者と加害者の立場である以上、連絡を取りあう関係になるのは難しかったはずだ。
「今回だって、フォミュラが情報をくれたお陰で砦の中まで入れたんだからね」
「え?」
「砦内部の詳細な見取り図とか、砦内部の兵士の大体の規模とか、情報を融通してくれたのよ。捕虜を助けに行くついでに、キリを助けて欲しいって」
なるほど取引があったわけか、とキリは納得する。
しかし、これは竜人族側としてはかなり大きな干渉ではないのだろうか。
同盟自体は締結されていないのに、随分とティンドラに肩入れしているように見える。
それを指摘すると、ファリエンヌは「とは言っても」と口元に指を当てる。
「あんたを助けたのは、一応個人的なやりとりの内よ?」
「ティンドラの軍まで動かしといて何言ってるんだよ」
「軍は私の指揮下じゃないし、動かしていないわよ。元々ああいう動きをする予定だっただけ」
確かに、魔剣という力を得たティンドラ軍が国境を取り戻した後の行動として、一番近い砦を攻めるのは必然だ。
だが、フォミュラの告げた通り、ティンドラ軍は二日で国境を取り戻し、進軍してきた。
それは余りにも、
「行動が早すぎやしないか?」
「ああ、それは少し口を出したわね。でも、ちゃんとした理由もあるのよ」
例えば、と続けたのは、ファリエンヌではなくアシュトルだった。
唐突に挟まれた口に驚いて彼を見やると、彼は腕組みをして壁に寄りかかりながら。
「イージスの魔剣は、無敵ではありません。この間も話しましたが、時間があれば対策は立てられてしまう。時間との勝負だったんです」
「……それにしては、その後の行動はゆっくりだけど」
「こちらの目的は相手を怯ませることでしたからね。国境を取り戻したくらいで相手は揺るがないでしょう。砦に痛手を負わせる所までやって、初めて意味があるんです」
だからそこまでは急いだんですよ、との言葉に、キリは口を噤んだ。
理由があったのは理解できたし、それなら過干渉というわけでもないのだろう。
しかし、そうなるとフォミュラがわざわざファリエンヌに協力を要請した理由は何だ。
と、そこで忘れていたもうひとつの違和感が浮き彫りになって、キリはあっと声を上げる。
「ってことは、もしかして」
「そうよ。私はちょーっと、捕まった兵士さんが可哀想だからついでに助けてあげて欲しいなあってお願いしただけ」
彼女はふふ、と得意げに胸を張って。
「私のわがままをいつでも何でもどこででも聞いてくれる、とっても素敵な私兵さんにね」
その頬笑みは、見る人が見れば無垢であどけない天使のような笑顔だと評するだろう。
残念ながらキリには悪魔の笑顔にしか見えなかったが。
ほら、心配なんてする必要なかったでしょう――とばかりにアシュトルから送られてくる視線を感じつつ、キリは肩の力を抜いた。
「親衛隊が前線に出張ってくるなんて、不自然だとは思ってたけど」
「不自然極まりないですね。親衛隊はあくまで王族の護衛が任務ですし」
「あら、初めて聞いたわね」
とぼけたように肩を竦めるファリエンヌは、完全に普段の様子を取り戻している。
トラウマを植え付けるようなことにならなくて良かったと安堵しつつ、キリは一つ息を吐いた。
一段落着いたと見たか、そこでアシュトルが「さて」と声を上げる。
「とりあえず、その辺りは一旦置いておきましょうか。……それで、」
「分かってるわよ。わざわざあんたも来てくれたことだしね」
どうやら、わざわざファリエンヌに会いに越させた理由は他にもあったらしい。
一体何だと目を瞬くキリを見上げた彼女は、小さくひとつ深呼吸して。
「話があるの、キリ」
打って変わって真面目な顔で切り出したファリエンヌに、キリは面食らった。
そもそもこの王女にとって真面目な話とは一体なんだという話だ。
パッと思い当たるのは、まず同盟やら戦争やらのきな臭い状況のこと。
とはいえ、キリは既にキリ・ルーデンスではない。
世話になったのは事実だが、今更ティンドラの側で戦争に関わる理由はない筈だ。
……もしかして、先日聞いた魔剣の話が機密だったりするのだろうか。
剣を使えないこの状況で巻き込まれたら笑えないな、と密かに顔を引き攣らせる。
けれど、続いた言葉にキリは目を見開いた。
「私、考えたのよ。あんたに言われてから……私にできる償いは、なんだろうって」
竜人の里で受けた謝罪のことは、記憶に新しい。
あんな形ではあったけれど、あんなタイミングではあったけれど。
彼女はきちんと、キリの言葉を受け止めてくれたらしい。
「ねえ、キリ。――帰りたい?」
それはきっと、この世界に来て一番、望んでいたはずの言葉だった。
知らず、指先から熱が奪われていく。
瞑目し、震える息を悟られないように整えながら、吸って、吐いて。
覚悟を決め、キリは口を開いた。
「……ああ」
「もう二度と、この世界には戻ってこられなくても?」
「ああ」
「すぐには無理だし、もしかしたら何年も先になるかもしれない。それでも?」
「ああ。……帰りたい」
落ちるのは沈黙。
お互い目を逸らすことなく、数秒か、数分か、時間が過ぎて。
「そう。そこまで言うなら、私が止める権利はないわね」
ため息一つ。
ファリエンヌは瞼を落とし、そして再び開いた目を、アシュトルへと向けた。
「アシュトル、お願い。キリを、元の世界へ還してあげて」
ファリエンヌの凛とした、けれど少し寂しげな声音。
こんな声も出せたのかと思う反面、こんな声を出させている事実には多少の罪悪感もあった。
思わず目を伏せたキリだったが、次の瞬間耳に飛び込んできた言葉にばっと顔を上げる。
「……嫌です」
ぽかんと一瞬口をあけた後、ファリエンヌが戸惑うように声を張り上げる。
「アシュトル!?」
「できません」
「何故!」
キリ自身がこんなに望んでるのよ、と訴えるファリエンヌにも、アシュトルは硬い表情で首を横に振るだけ。
そもそも自分の主の、それも王族の命令に逆らうことこそが、彼にしてみれば罪だ。
聡い彼が、それを解っていない筈がないというのに。
「私が身勝手だったことは分かってるわ!だけど、これ以上キリまで巻き込むことないでしょう!」
「そういう問題ではありません」
「じゃあどういう問題よ!」
返るのは沈黙。
目を伏せて、それでも譲りはせぬとアシュトルは首を横に振る。
降りる沈黙を破ったのは、静かな言葉だった。
「……もういいよ、ファリエンヌ」
ぽつりと漏れた声は、自分でもわかるほど、温度を失くしていた。
アシュトルに視線をやる事もせず、キリはゆっくり踵を返す。
「それならいい。アシュトル、お前には頼まない」
「キリ!?」
「アルシータに戻れば協力してくれる人なんて腐るほどいるだろ。いいよ勝手に帰るから」
ファリエンヌが制止する声が聞こえたが、キリは歩みを止めない。
止められなかった。
扉に手をかけ、動きもしないアシュトルを振り返り。
「――お前に解るはずないよな」
突然家族も友人も全部奪われて、言葉も通じない世界に一人で放り込まれた奴の気持ちなんて。
捨て台詞を吐いて、キリはその場を逃げ出した。
ばたん、と空気を大きく震わせて扉が閉まる。
ファリエンヌが慌ててそれに続くのを見送って、一人残されたアシュトルは。
「……それだけじゃないのは、あの人が一番わかっているはずでしょうに」
目を伏せたまま。
聴く者もいない静かな聖堂に、一つ溜息が溶けた。




