2.新しい生活の幕開け
一歩屋敷の外に踏み出したキリは、そこに映った光景に思わず目を丸くした。
「うわ…」
「壮観だろう?」
彼の言うとおりだった。
まず視界に飛び込んできたのは、一面の雲海。
所々雲から突き出た山々の峰が蒼く輝き、雲の上に浮かぶ幾つもの浮島がそこに影を落としている。
自らの立っている大地に視線を降ろせば、麓に連なる道の所々が開墾されて、幾つもの家々と畑が見えた。
大きな広場があるらしく、ここから見える円形に抜かれたように開かれた土地では、幾つかの人影も見える。
高所恐怖症の人間なら数秒で気絶する光景だが、その辺の神経は図太い自覚があるキリは、純粋に心を奪われた。
ここまで高い場所に上ってくることが初めてだったのに加えて、この「何もない」だだっぴろい山々と雲の海が続くだけの場所に自分が立っている、という感動が大きかった。
元の世界は勿論、こちらへ来てからもずっと王都で息が詰まりそうな生活をしていたキリにとって、この光景は思わず呆けてしまうほど衝撃的だった。
目を真ん丸くしたまま見入っていると、促すように背を叩かれた。
はっとキリが意識を引き戻せば、笑いを堪えているかのようなフォミュラの顔。
「口が開きっ放しだぞ」
「…うるせーな」
「意外と口が悪いな」
気恥ずかしさでぷいとそっぽを向いたキリに、くすくすと零される笑い。
先に立って歩き始めたフォミュラの後を追いながら、キリは改めて眼下の景色を見下ろした。
ここで暫く暮らすのか、と感慨深く思いながら、ゆっくりと歩を進めていく。
ハイキングにでも来ている気分だが、きっとこれからは、これが馴染みの風景になるのだろう。
あまり使われていないらしい階段を降りながら、そっと息を吐いた。
ゆっくりとはいえ、二十分も歩けば里の中心部へと足を踏み入れる事ができた。
隠れ里というだけあって人々が行き交う姿はないが、所々で竜人たちの姿が見える。
畑の世話をしていたり洗濯物を干していたりと様々だが、彼らはキリたちの姿を見つけると例外なく近寄ってきた。
「フォーさん。その子がこないだ言ってた子かい?」
「ああそうだ。西の空き家に暫く住むことになってる」
「キリ、です。えっと、よろしくお願いします」
「さっきと違ってやけにしおらしいな?」
「こういう場所ではご近所づきあいが大切なんだよ」
「あっはっは、敬語なんていらないよ!アタシはクマル。そっちの畑で野菜育ててるから、分けて欲しけりゃ来ると良いさ。ま、よろしく頼むよ、キリ」
実年齢は200を超えるという恰幅のいいおばさんから始まり、
「あら、アナタがフォミュラ様の拾ってきたって子?」
「あ、ああ。キリだ」
「ふーん…。にしては、こう、ちょっと各所のインパクトに欠けるっていうか…」
「は?」
「…リリー」
「やぁだ、冗談よぉ。ま、女の子同士なら遠慮は要らないわ。よろしくねっ、キリ」
一見自分と同じくらいの年齢に見える女性(実年齢は秘密らしい)、
「おお、フォミュラじゃないか」
「じいさま!?外に出てきてもいいのか?」
「ほっほ、新入りが来たと聞いてのう。そちらの子かね?」
「は、初めまして」
「若い子はええのう。まあ、何もない里じゃがゆっくりしておいき」
もうそろそろ年を数えるのも億劫になってきたというおじいちゃんまで、たくさんの人々に声を掛けられた。
ただ歩くだけなら十分もかからない道をその四倍くらいかけて歩き、二人は里を往く。
「人気者なんだな、あんた」
「顔が売れているだけだ。それに古馴染みだしな。嫌でも親しくなるさ」
「へえ…。まあ、人の出入りも少ないなら、そんなもんなのか」
広場に足を踏み入れると、何やら立ち話をしていたらしい数人の青年達がこちらに気付き、向かってきた。
「フォミュラさんじゃないですか!」
「お帰りなさい。そっちが噂の?」
「お前たち、敬語はやめろと何度言ったら解るんだ。…そう、これが噂の。キリだ」
「えっと、よろしく」
ぺこりと頭を下げると、「ああ、こちらこそ」と笑い含みの声が降ってきた。
見上げると彼らは微笑ましげに笑っていて、何事かと首を傾げるとフォミュラがこっそり教えてくれる。
「君はまだ20歳だろう。私たちから見れば十分に子どもの年齢だからな、微笑ましいんだろう」
「ほ、微笑ましい?」
「ここではだいぶ子ども扱いされると思うぞ」
「…なんだよそれ」
彼らの外見が自分と変わらないこともあり、凄くやりにくい。
戸惑って視線を外せば、「拗ねないでくれよ」と髪の毛をかき回された。
完全に子ども扱いだが、反論の言葉が見つからない。
それでもそのまま受け入れるのは癪で、「何すんだよっ」とぺしっとその手を払った。
その光景がまた子どもっぽく見えたのか、青年達が声を上げて笑う。
…まったく、子ども扱いしたいなら、この里の子どもを対象にすればいいものを。
と、そこでキリは何だか違和感を感じ、辺りを見回す。
目ざとくそれに気付いたらしいフォミュラが、会話を切り上げて問うてくる。
「どうした、キリ?」
「…いや、子どもの姿が見当たらないなと思って」
これだけ天気のいい昼間なら、家の中に閉じこもっているなんてことは想像しにくい。
何か理由でもあるのかと首を傾げるキリに、青年の竜人の一人が苦笑を浮かべた。
「ああ。今、この里には子どもと呼べる年齢の竜人は一人しかいないんだ」
「え?な、なんで?」
「そもそも、私たち竜人には子どもがあまり生まれない。…私たちの生態については少しくらい勉強しただろう?」
知っている。
とはいえ、本当に本で聞きかじった程度の知識しかないけれど。
竜人は、亜人の一種に属する種族のひとつだ。
半人半竜のような容姿で、他の種族に比べて腕力や魔力が飛びぬけて高く、また寿命も長い。
容姿については個体差があるが、翼を持つ者は空を飛べるし、火を吹けるものもいるとのことだ。
特筆すべきは寿命で、個体差はあるものの平均して300年は平気で生きるという話。
本当かどうかは知らないが、本に書いてあったところによると1000年もの間歴史に名を刻み続けた猛者もいるそうだ。
「そう。その長命の代償みたいなものだが、私たちには繁殖能力が殆どない」
「大体が一人っ子だし、双子なんて生まれたら王様がすっ飛んでくるくらいだよ」
「里によっては子どもが一人もいない所もあるからねぇ。二人以上いる里だって数えるくらいしかないよ」
へえと目を丸くするキリに気をよくしたのか、一人が人差し指を立てて説明を始める。
「そもそも、俺たち竜人族は――」
「あー、悪いなロージィ。これから里の中を案内しなければならんから、その話はまた今度にしてくれ」
「ええ、ちょっとだけですよ?」
「ちょっとちょっとって、お前のちょっとは日が暮れるだろ。寿命が違うって自覚を持て」
直接的な物言いにキリはぎょっとしたが、言われた方は「酷いなー、そりゃないですよ」と笑って流した。
いいのかあんなこと言って、と見上げると、小さく笑ったフォミュラはキリにだけ聞こえる音量で、
「年寄りは話したがりな上に話が長いからな」
「…と、年寄り、かぁ」
どう見ても同年代か少し年上のお兄さんなんだけどなぁ、と。
思わず頬を引きつらせた笑みを浮かべたキリを責める者は、ここにはいなかった。