12.ほぼ逝きかけました(*暴力描写注意)
静寂に包まれた地下で、見回りの足音だけが響く。
今日は朝から雨でも降っているのだろうか、嫌に湿気が多い。
この荒野で雨なんて珍しいなと思いつつ、キリは湿った壁に寄りかかって目を閉じる。
痛みで気を失ったキリが目を覚ましたのは、つい先ほどだ。
相変わらず痛みの残る身体を持て余しながら、キリは大人しく体力の回復に勤しんでいた。
――あの後。
船が出るのを見送り、剣を抜いて追っ手と対峙したものの、キリはまた例の吐き気に襲われた。
あっこれやっぱ無理して使うもんじゃねーわ、と思いつつも、素手でどうこうできる相手ではない。
しっかり装備を整えた軍人相手に、そんなことは思いもしなかった。
何とか剣を振り回して数人地を舐めさせたが、まあ当然、そんな状態で無事に突破できるものでもなく。
結局、キリは捕まった。
問答無用で牢屋に叩き込まれ、恐らく責任者であろう中年軍人からひどく罵倒を受けて。
幾度も蹴られ殴られ打たれ、挙句の果てには焼かれ、まあ好き勝手してくれた。
さぞスッキリしたことだろう。
どうやら男性だと勘違いされていたようなので、それだけは救いだった。
無事に命も拾ったことだし、満身創痍ではあるが一安心だ。
だが、楽観はできない。
キリは立場上、ディアノス直下の軍人だ。
恐らく、というかほぼ確実に、ディアノスに報告が行っただろう。
留守にしているという彼がいつ帰ってくるかは分からないが、顔を合わせるのはまずい気がする。
フォミュラの告げた二日、それまで何とか時間を稼ぎたいものだけれど。
俄かに外が騒がしくなり、腫れた頬の痛みに眉を顰めつつ、キリは顔を上げた。
牢の中は相変わらず静かだったが、時々漏れ聞こえてくる会話からは、どうやらかの第二王子が砦に帰ってきたらしいということが解った。
……噂をすれば陰というやつか。
殴られようが打たれようが歯を食いしばって耐えていたキリは、そこで初めて、心底嫌な気持ちを隠さずに顔を歪めた。
半月ぶりに顔を合わせたディアノスは、座り込んだキリの姿を見るなり吹き出した。
目を据わらせて睨み上げるキリの前で、わざとらしく肩を竦めてみせる。
「半月で戻ってくるとは、随分ここが気に入ったようだな?」
「うるさい」
逆光で表情は見えない。
けれども、見下ろす視線に愉快げな笑みが含まれているのを感じ取り、キリは眉間の皺を深めた。
一体何が楽しいんだか知らないが、相変わらず人の神経を逆撫でするのが好きな奴だ。
しかし、不貞腐れたようなキリの応答に眦を吊り上げたのは、ディアノスではなかった。
「貴様!逆賊と手を組んでおきながら、殿下に何という態度か!!」
「立場を弁えろ、裏切り者が」
彼の後ろに控えていた、例の中年軍人と、恐らくディアノスの護衛だろう兵士。
憤怒の篭った視線と冷たく見下ろす視線を同時に受けて、キリは彼らを冷たく一瞥した。
元々グラジアの人間になったつもりもないし、ディアノスの部下になった覚えもない。
逆賊で裏切り者だからこそこんな態度なんだろ、と内心舌を出すキリの反応が気に障ったのか、中年軍人の拳がわなわなと震えだした。
また手を出すつもりかとも思ったが、ディアノスが小さく息を吐きながら軍人たちを窘める。
「怒鳴るな、響く」
「はっ、し、失礼しました」
「気持ちは分かるがな。こちらの警備に不備があったのも事実だ」
有無を言わさぬ語調に、中年軍人がぐっと押し黙る。
代わりにこちらに向けられる殺気が濃くなったことを感じて、キリは肩を竦めた。
ディアノスが、視線を再びキリに移す。
「……それに、これはお前たちだけの問題でもない」
頭上で紡がれる言葉。
それに少しだけ不穏な響きを感じて顔を上げたキリは、僅か目を瞠った。
正直に言おう。
多少、タカを括っていた部分はある。
捕まっても、キリの持つ異世界の技術や知識が必要なら、最悪でも殺されはしないだろうと。
特にディアノスは、キリには暴力よりもっと効果的な脅しがあることを知っているのだから。
だから。
流石にこれは予想外だと、頭の中で警鐘を打ち鳴らす音がする。
背を伝う冷や汗を感じつつ、キリはそれでも視線を逸らすことができなかった。
……なぜかといえば。
ディアノスがこちらを見下ろす視線の中に、
「飼い犬にきちんと躾をしておかなかった、俺の責任でもあるからな」
酷く嗜虐的な色を見つけてしまったから、だった。
腕を引っ張り上げられて膝立ちになったキリの腹部に、容赦なく繰り出された膝が突き刺さった。
「が、ぉあ……っ」
到底人のものとは思えない呻きが漏れる。
一瞬、視界が白く染まり、揺らいだ世界が現れる。
痛みを堪えていたはずの身体から感覚が消え、力が抜ける。
元々傷めつけられていた内臓への更なる攻撃は、キリに膝をつかせるには十分だった。
実際は、膝どころか完全にくずおれて、地面に額をつけている。
それでも苦いものがせり上がってきて、耐え切れずにそのまま吐いた。
そこに淡く赤が混じっているのを見て、ディアノスが目を細めるが、キリはそれどころではない。
痛みと吐き気にぐわんぐわん揺れる視界の端に、軍靴が写る。
ちゃんと息ができているかも解らないくらい、身体の感覚がない。
額をぐいっと持ち上げられ、顔を上げる羽目になったキリは、微かに呻きを上げた。
彷徨っていた視線が辛うじて焦点を定め、ディアノスの青い目を捉える。
「――いい顔だな。嫌いじゃないぞ」
埃と胃液と血に塗れているだろう面を拝んだ上で一体何を言っているのか。
常であればそれくらいの軽口は叩いてみせただろうが、現在のキリはこの言葉をきちんと認識できているかどうかすらも怪しかった。
痛みは、思考を塗りつぶす。
強固な意思など簡単に折ってしまう。
痛みに耐性がなければ尚更だ。
ちょっと痛めつけられた程度で、満足に指先さえ動かない。
軽口を叩くどころか、言葉をひねり出すことさえ難しい。
――暴力は、実に絶対的な力だ。
抵抗らしい抵抗もできないキリに、再び言葉が投げかけられる。
「選ぶんだな。ここで死ぬか、ほんの少し生き延びて戦場で死ぬか」
相変わらず選択権のない選択肢が好きな奴だ。
痛みにがんがんする頭でなんとか拾い集めた言葉を理解し、キリは内心失笑した。
されど、そこまでだ。
言葉にしようとなんとか喉に力を込めたところで、ひゅ、と掠れた音が出るのみ。
腹に力を入れようとすれば痛みが邪魔をして、キリは顔を顰めた。
「とっとと返事をしろ!」
応えらしい応えがないことに苛立ったのか、傍に控えていた中年軍人が剣の鞘でキリの背を打ち据えた。
元々絶え絶えだった息が詰まり、盛大に咳き込む。
どうやらそれがいけなかったらしい。
当たり所が悪かったのか、咳き込むこと自体が過負荷だったのか。
数度目の咳は真紅に染まった。
くらりと目の前が霞む。
真っ赤に染まった掌を、キリはぼうっと不思議そうに見て。
そのまま、がくりと糸が切れたように崩れ落ちる。
投げ出された腕が、鉄格子に当たって耳障りな音を立てた。
兵士を咎めるディアノスの声を遠くに聞きながら、キリの意識は闇に飲まれる。




