2.鼠捕りの中は
こんこん、と音がした。
誰かが扉を叩く音で目を覚ましたキリは、ぼんやりと天井を見つめて瞬きした。
寝起きの頭に、今までの出来事がゆっくりと蘇ってくる。
「……」
どうやら、結局倒れてしまったらしい。
情けなさに肩を落としながら、キリはごそごそと身を起こした。
キリが寝かされていたのは、石造りの部屋の寝台の上だった。
内装からして、恐らくディアノスと会った砦の一室。
窓から差し込んでくる陽は、キリの頬を赤く照らしている。
……まさか朝方ということはないだろう、恐らく日が沈む刻限だ。
半日しっかり寝たせいか、身体の方は随分と軽くなっていた。
あれだけ濡れ鼠だったにも関わらず、幸い風邪は引かずに済んだらしい。
キリを覚醒させたノックの音は、未だに続いている。
中に入ってくる気配がないことに、キリは首を傾げた。
勝手に入ってくればいいのに、と思いながら「どうぞ」と一言かけると、軋んだ音を立てて扉が開いた。
部屋の中に入ってきたのは、格好からして恐らく世話係か何かの女性だった。
キリの視線を受けて一礼し、
「おはようございます、キリ様。お加減は如何でしょうか」
「……、まあ、悪くはないかな」
「それはようございました」
問いかけるような視線を送ると、彼女はすっと自分の胸に手を当てる。
「申し遅れました、殿下よりキリ様のお世話を仰せつかっております、ヘイゼルと申します」
「そうか、ヘイゼル。世話してもらった上にろくに礼もできずに悪いが、私には急ぎの用がある。できるだけ早くこの砦を立ちたいんだが」
「ディアノス第二皇子殿下より、目が覚めたら必ず執務室の方へ立ち寄らせるようにと伝言を承っております」
ちっ、先手を取られたか。
できれば顔を合わせることなく出て行きたかったのに。
舌打ちを隠さないキリに動じることなく、彼女は淡々と仕事を進める。
「それと、着替えをお持ちしました。それで部屋の外には出られないでしょうから」
反射的に自分の身体に視線を落としたキリは、身に纏っているものが変わっているのに気づいて動きを止めた。
そんなキリに気づいたのか、侍女が「ああ」と声を上げる。
「ひどく濡れておりましたので、寝ている間に一度お召し換えさせていただきました」
「いや、それはいいけど……なんで病人服」
「砦ですので、お客様用の備えがないのです。負傷した兵士用のもので恐縮ですが」
あのままよりはマシかと、と続く言葉には、キリも別に異を唱えるつもりはない。
ただ、確か預けていた荷物の中に服があったはずだ。
ちらりと机の上の荷物へと視線を動かすと、先読みされたのか声が降ってきた。
「お預かりしていたお荷物の着替えは、着用済みのようでしたので洗濯させていただいております」
「あー……」
「明日の朝にはお手元にお届けできると思いますので、今晩は我慢して下さるようお願いいたします」
つまり、明日の朝まではどうあっても出発できないと。
元々王都への旅は、しっかり計画を練ってのものだった。
身軽にしていたかったため着替えの用意も必要な分のみで、予備の服は持ってきていない。
帰ってから洗濯すればいいやと後回しにしたのが悔やまれる。
「一応聞くけど、ここに来た時に着てた服は?」
「こちらは……流石にもう、着られるような状態ではないと思うのですが」
「うわあ」
差し出された親衛隊の制服は、泥と血に塗れてぐしゃぐしゃだった。
濁流に揉まれた際に引っ掛けたのか、所々に穴まで空いている。
確かにこれはもう着られないな、とキリでも思う。
廃棄するという侍女に渋々同意すると、制服と入れ代わるように着替えの服が差し出された。
それを受け取って、キリは頬を引きつらせる。
それは彼女が来ているのと同じ、侍女のお仕着せ。
つまり、キリの世界で言う、メイド服。
「喧嘩売ってんのか……?」
「違います。代わりがすぐにお持ちできなかったため、とりあえずのご用意を」
しかし、この男装が可能なほどの髪の長さでふんわりスカートって。
男が女装している、とまではいかないかもしれないが、キリ的にはそんな気分だ。
竜人の里に行ったばかりの頃、ヴィルに男女と言われたのはまだ記憶に新しい。
そもそもキリは、ひらひらと足にまとわりつくような服装があまり好きではない。
というわけで。
「男物、あるか。執事服とか。もしくはスラックスがあればそっちがいい」
「……かしこまりました」
少々お待ちくださいませ、と言葉を残し、出ていく侍女。
しばらくして戻ってきた彼女の手には、ベストとスラックスに似た衣服が携えられていた。
さて、それから数時間。
勧められるがままに湯浴みと食事を済ませてやってきたのは、ディアノスの執務室だ。
顔を合わせずに出ていきたいというのが本音だったが、先手を取られては仕方ない。
それに、ぶっ倒れたキリにきちんと客人としての待遇をしてくれたのは事実だ。
ものすごく、非常に、限りなく気が進まないが、まあ一言礼くらいは告げておくことにする。
部屋に入ってきたキリの姿を見たディアノスは、キリの姿を見て数度目を瞬いた。
「なんだ、ここまできて男装か?」
「スカート嫌いなんだ」
「そうか。それは残念だ」
どうやら書類仕事をしていたらしく、机の上には書類が山と積まれている。
手にしていた書類を机に滑らせて、ディアノスはキリと向かい合った。
「……予定外だったけど世話になったな。それだけは一応礼を言っとく」
「律儀なことだな。まあ、その程度のことを恩に着せるつもりはないが」
「後々引き合いに出されても面倒だからな」
「やれやれ。信用のないことだ」
「そういうことは自分の行動省みてから言え」
ため息と共に言い放ち、キリはさっさと引き返そうと体を捻る。
長居は無用だ。
「じゃあ、用がないならもう行くからな」
「待て待て。行く前にここへ寄るように言伝したろう」
「……まだ何かあるのかよ」
「ああ。お前に聞きたいことがあった」
ディアノスが、横手にあった小さな机から片手に収まる大きさの何かを持ち上げる。
書類に隠れて見えなかったそれを目にして、キリは目を丸くした。
「これは何だ?」
「……傘」
「ほう」
それは、淡い橙色の折り畳み傘だった。
キリがこちらに――この世界に来た時に所持していたもの。
そういえば魔法陣を盗みに行ったとき、一緒に持ってきたな……と思い出すキリの前で、ディアノスは畳まれたそれを開いた。
突然のことに目を瞬くキリには構わず、広げた傘を見ていたディアノスが、軽く布を弾く。
「見たことのない形状だ。これほどまでに水を弾く素材も知らん」
ほぼ独り言のような内容だったが、キリは背筋に走る悪寒に慄いていた。
まずい。
これはまずい流れだ。
放っておくと碌なことにならない。
「ていうか何勝手に人の荷物いじってるんだよ!!!返せ!!」
力ずくで奪い取ると、ディアノスは案外簡単にそれを手放した。
その素直さに拍子抜けしそうになったキリだが、次の一言で凍りつく。
「やはり、お前のもので間違いないな?」
咄嗟に返答に窮したキリに、重ねて投げられる問い。
「どこで手に入れた?」
「……教える義理はない」
「どんな素材で出来ているのだろうな?」
「知るか」
合成ポリエステルとかそんなじゃないのか。
百円で買った雨傘の素材なんかいちいち見ない。
なんとかこの場を切り抜けられないかと、考え考えキリは言葉を絞り出す。
「確かにそれは珍しいものかもしれないが、詳しくなんて知らん。知人に預かっただけだ」
「預かり物、な。それにしては荷物から無くなっていても気付かなかったようだが?」
一瞬返答に窮して、慌てて言葉を探す。
墓穴を掘った気しかしないが、なんとか誤魔化しておかないと後が怖い。
「他の物に気を取られてたんだよ。大切なものに変わりはない」
「なるほど。とすると、お前の一番の目的はあの紙っきれか」
紙っきれ言うな。
肯定してやるのも癪で、キリは無言のままぎっとディアノスを睨みつける。
が、彼はその視線を完全に無視して、面白そうに笑い始めた。
「お前は本当に変わっているな。興味が尽きん」
「興味とか要らん。言っとくが、周りはともかく、私自身は本当になんの変哲もない普通の人間なんだからな」
「普通?ほう」
面白そうにすっと眇められた眦に、嫌な予感が身体中を駆け巡る。
え、竜人の里にいた時に何か失言とかしたっけ、とあわてて思い返すキリには構わず、言葉は続けられた。
「身体が重く膂力のある機械人――それも大柄な男性を簡単に振り払えるような、とんでもない馬鹿力の持ち主。それに加え、魔力を持たない特異体質の人間が。普通の人間か」
はい。
大失言でした。
もう自分のアホさに涙しか出てこない。
必死だったんだ。
あの時は必死だったんだよ。
「竜人と知り合いだったり、随分と複雑な式の魔法陣を後生大事に持ち歩いていたり、興味が尽きない面はこれまでも多々あったがな。流石にこれは見過ごせん」
「み、見過ごすって」
「キリ。君は一体、どこからやってきた?」
なんとか弁解しようと頭をフル回転させていたキリは、完全に言葉を失った。
何とかして逃げられないかと背後の扉に視線を向けるが、蝶番の向こうから聞こえてきたのは鎧の擦れる音。
ディアノスを挟んだ反対側の窓は、残念ながら人が出入りできる大きさではない。
付け加えるなら、司令官の執務室は砦の最奥にあるのが普通だ。
――ここは、砦だ。
最前線になる可能性を秘めた、兵力の集まる場所。
逃げられる可能性がほとんどないことに気づいたキリが青ざめた時には、もう遅かった。
「さて、話をしようじゃないか。幸いにして時間はある。一晩もあれば君の生い立ちくらいは聞けるだろう?」
ゆっくりと椅子から立ち上がったディアノスが、愉しそうに笑う。
差し出された手が、悪魔の誘いか何かのように見えた。




