1.ばたんきゅう
次に目を覚ました時、竜の姿は跡形もなかった。
その大きな姿を探しながら、キリはぼうっと身体を起こす。
あれからどれくらい時間が経ったのか。
見上げた空は、まだ星が瞬いている。
一晩経ったということは流石にないだろう、せいぜい数時間だ。
水が滴るほどに濡れていたはずの服は、少し湿り気こそ残っていたものの、ほとんど乾いていた。
だが、気を失う前の暖かさは、今ここにはない。
夜の風に当てられて、キリはぶるりと身体を震わせた。
せめて風の当たらない場所まで移動したい、と痛みの残る場所を確認していたキリの耳に、何かの足音が入ってきた。
ぱっと顔を上げ、様子を伺う。
落ち着いて辺りを確認してみると、少し離れた場所から水の音が聞こえていた。
どうやら川辺から少し離れた岩陰に寄りかかっていたらしい。
目の前は、あの竜が鎮座できただけあって、他に比べて少し開けている。
近場に隠れられるような場所もない。
だんだんと近づいてくる足音に警戒しつつ、キリは音の方へ目を凝らす。
それが飢えた獣の類でないことを祈りながら。
やがて茂みから出てきた影は、人の形をしていた。
それがたった一つであることに気づいて、キリは緊張する。
こんな夜中に、一人でこんな人里離れた場所にやってくるなら、どう考えても只者ではない。
まさか竜人族がもう、と最悪の想像をしかけたキリだったが、その影に翼や尾、角はない。
茂みから出て辺りを見回していた影は、ふとキリの方へと視線を向ける。
「……ああ、こんな所に」
女性の声だった。
何の躊躇もなく進んできたその影は、キリの前で膝を折ると、すっと手を差し伸べた。
「ほら、回収に来てあげましたよ」
「……え」
そうのたまった女性は、へたりこんでいたキリの腕をぐいっと引っ張り上げる。
――よく見れば、それはいつか、グラジアの天幕で見た顔だった。
ということは、グラジアの人間?
急な展開についていけないキリは、まだ混乱の最中で彼女の言葉を復唱する。
「回収、って」
「手筈通りのはずですが?……まあ、一週間前にティンドラ王都付近の森で貴方の通信機の反応が途切れたので、厳密には通信機の反応を捜索しながら近場で待機していたんですが」
随分流されましたね、という言葉に、そういえば流されたんだったと思い出す。
ここがどの辺りかは解らないが、グラジアの人間が普通に来られているあたり、だいぶ国境に近いあたりにまで流されたんじゃないだろうか。
いや、そんなことより。
「……この辺で、竜、見なかったか」
「はあ?」
「赤くてでっかい竜」
「疲労で幻覚でも見たんじゃないですか?」
一言でばっさりと切り捨てられたが、幻で空を飛べるはずも、服が乾くはずもない。
あれだけ大きければ、目撃されずにどこかへ行くことも不可能なはずだ。
……やっぱりあれは、神様か何かだったんだろうか。
首を傾げるキリの腕を自分の肩に回していた女性が、眉をひそめる。
「もう少し力入らないんですか」
「あ、ごめん」
とりあえず彼女の肩を借りて、キリはふらふらと立ち上がった。
「――よくもまあ」
やり遂げた上で無事に逃げ出してくるとはな、と。
呆れた顔を隠さないディアノスに、キリは剣を置いてきてしまったことを全力で後悔した。
洞窟を出た後。
回収に来たという女性に連れていかれた先は、一軒の小屋。
既にグラジア国内だと言われたそこに鎮座していたのは、大きな転送機だった。
そのままディアノスが滞在しているという砦に飛ばされて、数時間もしないうちにご対面だ。
既に真夜中を過ぎて空が白む時間帯だが、ディアノスは眠そうな仕草も見せずキリたちを迎えた。
その第一声が、冒頭の台詞である。
「正直見くびっていた。すまなかった」
「……ぶっ殺してやろうかクソ野郎」
睨む目に殺意も篭ろうというものだ。
思わず漏れた言葉はだいぶ殺気がこもっていたが、キリを回収してきた女性はさっさと退室してしまっているため、咎める者もいない。
「謝っているだろう、そう怒るな」
飄々とした謝罪は怒りを煽る材料にしかならなかったが、キリはため息一つでそれをなんとか飲み込んだ。
今はそんなことよりも、大事なことがある。
「それより、荷物返せ」
「……よく解らないがな。そんなに大事なら預けなければ良かったろうに」
「うるさい」
あの時の私が全力で迂闊だっただけだ。
呆れ顔で、けれどディアノスはきちんとキリの荷物袋を返してくれた。
中身を覗いて、魔法陣が無事なのを確認し、小さく息を吐く。
黙ってそれを見ていたディアノスが、「さて」と徐に口を開いた。
「これでティンドラと竜人の同盟崩壊はほぼ確実だろう。その後の事はとりあえずさておいて――約束を守ろう。ルーデンス家に手は出さんし、グラジアでの身の保証の準備もできている」
「……今となっちゃ意味のない約束だな」
ルーデンス家にはもう戻れない。
グラジアで暮らす気なんてもともとない。
「褒賞の内容は決めたか?」
「要らない」
それだけ告げて、キリはさっさと踵を返す。
予想していたことだろうに、背後からかかった声は心外そうな響きを含んでいた。
「もう行くのか?」
「お前の要求は飲んだだろ。もう私に用はないはずだ」
「泥まみれのままでか?路銀もそんなに入ってなかったように思ったが」
こいつやっぱり中見たのか。
この野郎と思ったものの、正直今のキリは怒る気も失せていた。
――厳密には、怒る元気もなかった。
「放っとけ。関係ないだろ」
「行く宛も稼ぐ宛もないのにか?自殺行為だな」
「誰のせいでこうなったと思ってる!」
はずなのに、思わず叫んでしまった。
ばっ、と勢いよく振り返った途端、ぐらりと視界が揺れた。
「……っ?」
明滅する景色、脳が縦横に揺らされているかのような気持ち悪さ。
一向に収まらないそれに、キリはぎりっと歯を食いしばった。
ある意味当然だ。
今のキリの体調は、本調子じゃないどころの話ではない。
睡眠不足で大暴れした上に川に流され夜風に晒され、ほとんど限界だ。
けれどせめてグラジアを出るまでは、いや、後生だからこいつの前を去るまでは、と、崩れそうな身体をキリは必死で立て直す。
だが、再び襲ってきた目眩に、奮闘虚しくキリは膝をついた。
「……無理をするな、馬鹿者」
ぐるぐると渦を巻く視界と、遠く反響する声。
呆れたような言葉を最後に、キリの記憶は途切れている。




