23.ドとレとミとファとソとラとシの音が出ない
はい、どうやら芽は出なかったようです。
主は私を見捨てたもうた。
まあ、神様なんて別に信じてなかったけど。
無人の廊下で窓枠に寄りかかりながら、キリは一つ大きなため息をついた。
一時間ばかり前だったか。
二度目の交渉が終わり、部屋に戻ってきた外交官の報告を聞いて、キリは覚悟を決めた。
決めざるを、得なかった。
やらなければならないとなると、先送りにしていた問題が一気に火を噴き始める。
まず、誰をやるか。
誰を、なんて正直考えるのも嫌だけど、誰でもいいわけじゃない。
ディアノスは要人でなくてもいいと言ったが、キリとしてはその必要がある。
なぜなら、もし、万が一、殺せなかった場合。
それでも同盟が破綻するような相手であることが、絶対条件だからだ。
外交官かそれに近い地位の人々、もしくは、族長に連なる関係が、多分一番いい。
だが、族長は顔も見たことがないし近づける気がしないので却下。
フォミュラ、は、個人的にお世話になったし、できるわけがない。
そんな消去法で消えず、キリが知っている顔となると、残るのは一人だ。
外の人間を迎え入れる立場であった、恐らく外交官に近い立ち位置の、アゲート。
親衛隊であるキリは、一応王女の護衛も兼ねているので、城内でのみ帯剣が許されている。
つまり城の外、里の中には持っていけないわけだが。
ただ一つ、例外。
最終日の夜、ーーつまり今夜。
あの時だけは、長い長いマントの着用が許される。
体型でさえ隠れるようなしっかりしたマントを着ていれば、帯剣の有無など解らないだろう。
ついでに、逃げ出したあとのことも、もう決めている。
ティンドラにも竜人の里にも、もう戻れない。
――とりあえず、グラジアに行ってあの馬鹿を一発と言わず何発かぶん殴る。
でもって、何とかして荷物を取り返して、グラジアを出て。
魔法の研究が盛んだという、アルシータ辺りにでも行ってみようか。
あそこなら、戦争にも巻き込まれなくて済むだろう。
ぼうっと宙を見ながらそこまで考えたキリは、ふ、とため息を吐いた。
まあ、その前に一番の難問が立ちふさがっているわけなので。
色々問題点はあるものの、首尾よくやれたとして、さて。
里からどうやって出ていくべきだろうか。
なんせ、里が魔法で空間的に隔離されているだなんて、考えもしなかった。
魔術師ならともかく、魔力皆無のキリにしてみれば巨大で完璧な密室だ。
内鍵もなければ外鍵もない上に、キリの知る出入り口は一つだけ。
しかも、用途を見るに、あの魔法陣は普段は起動されていないはずだ。
誰かに協力してもらわずに脱出するのは不可能と言っていい。
事を成したあとでは、恐らく魔法陣は起動されない上に大勢の見張りがつくはず。
できればタイムラグなしでさくっと脱出したいところだが。
……ちょっと周りの様子でも見に行ってみるか、と、窓枠から身体を離す。
確かここからあの広間までは、そんなに遠くなかったはず。
そのまま歩き出そうとしたキリは、ふと背後から視線を感じてそちらを振り返る。
何気なくの行動だったのだが、柱の影に隠れるように立っていた人影を見て目を瞠った。
「イ、」
シュ。
と、思わず紡ぎそうになった言葉を、キリは理性で無理やりひん曲げる。
「いつから見ていたんだ。私に何か用か?」
そして内心全力で慌てながらも、とりあえず引きつった笑顔を作ることに成功した。
傍目には、ぼんやりしていた所を見られて驚いているようにでも見える……だろうか。
そうであってくれれば嬉しい。
っていうか不意打ちにも程があるわ!!
なんでこんな所にいるんだよ!!
普段は引き篭ってるんじゃなかったのか!!
声をかけられてのこのことやってきたイシュはといえば、何ともいえない複雑な顔をしていた。
振り返ったキリの問いかけに「あ、いや」と言いよどんだあと、躊躇いがちに問いかけてくる。
「ええと、キリ……だよな?」
「確かに私はキリだが、貴方は?」
「…………」
全力で知らない振りをしてみると、眉間に皺が寄った。
あ、これ怪しんでるな、とキリが思う前に、ぐいっと右手を掴まれる。
「え、ちょ」
「俺、思うんだけどさ。剣握ってて、こんな所にタコなんかできないよな」
と、示されたのは指にできた小さなタコ。
そういえば里にいた時にそんな話をしたことがあったような、と今更思い出しても、時すでに遅しというやつだ。
「細かい作業でもしてないと、できない場所だよな。――薬をすり潰す時、とか」
……はい、どうやらキリの努力は無駄だったご様子。
まあ、突然だったし心の準備も変装も何もなかったのだから、ばれても仕方ないか。
でっかいため息を一つ吐いて、キリは取られていた右手を軽く挙げる。
――降参の意味を込めて。
そしてそのまま、何事か言い募ろうとしたらしいイシュの顔の前に、手のひらを突き出した。
イシュが驚いて動きを止めた隙に、さっと周囲に視線を走らせる。
そして誰の気配もしないことを確認してから、目に付いた柱の影に身を隠してイシュを引っ張り込んだ。
「おい、キリ」
「あまり大声出すなよ。お前といるのが見つかったらまずいんだ」
誰に、とは言わなかったが、キリの様子に、イシュはとりあえず言葉を飲み込んでくれた。
そして、多少小さめの声で伺うように声をかけてくる。
「どっか部屋に移動するか?」
「むしろ二人で部屋にいる所なんて見られたら言い訳がきかない。人通りもない場所だし、このままでいいだろ」
ただ遠目に見つかりにくいように影に隠れたけど、と続けると、イシュは「そっか」と素直に頷いた。
そのことにとりあえず落ち着いて、キリは小さく息を吐く。
「ていうか、お前どうしてここにいるんだよ」
「俺が祭りに来てちゃ悪いかよ」
「いや悪くないけど、そうじゃなくて。どうして城に?」
「……こっちの方が視線が痛くないから」
ああそうか、と今更ながらに思い出す。
確かに、こいつが引き篭りがちだったのは容姿が原因だった。
竜人ばかりの里よりは、人間のいる城の中の方が目立たなくて済むのか。
「というか、それを聞きたいのは俺の方なんだけど」
「……ちょっとした偶然と悪意と悪意と悪意が重なって」
「何だそれ。大丈夫なのか?」
大丈夫ではない。
が、流石に何も知らない関係ない奴に事情を漏らすわけにもいかない。
というかそれより、イシュならフォミュラに接触できるのではないだろうか。
うまく繋ぎを取ってくれれば、この状況を何とかできるかもしれない。
「なあイシュ、お前フォミュラと連絡取れるか?」
「フォー?あいつ祭りの間は死ぬほど忙しいし、会議だ何だでバタバタ移動してるから、祭りが終わるまでは無理だと思うけど」
「……ですよねー」
流石にアテにはできないか。
落胆を隠さずにため息を吐くキリをどう思ったのか、イシュは眉間にしわを寄せたまま。
「……困ってるのか?」
「……いや。それならそれで、何とかするさ」
まあ、もうどうにもならない所まで来ているんだけども。
実際、この時点で連絡が取れたとして、状況は変わらないような気もしてきている。
キリが最初フォミュラに連絡を取ろうとした大きな理由は、ティンドラを祭りに招待した竜人側の狙いを早めに知っておくためだった。
それ自体はアゲートとの会話で達成できているし、これ以上フォミュラからの情報に執着する理由はない。
フォミュラ自身が外交官だと知った時には「頼み込めば何とかなるんじゃ」と思わないこともなかったが、フォミュラは多分仕事に私事を持ち込まないタイプだろう。
それに、彼には随分と迷惑をかけ通しなのだから、これ以上わがままを言うのは気が引けた。
そもそもが、自分の浅慮が蒔いた種だ。
だったらもう、自分でなんとかするしかない。
無意識にため息でも吐いていたのか、イシュの眉間のしわは消えない。
なんとか話題を逸らそうと、キリはイシュを見つけた時から気になっていたことを聞く。
「……なあ、そういえばお前、どうやってここに来たんだよ?」
この里に来ているたくさんの竜人たちは、一体どこから出入りしているんだろう?
この城を使って里に出入りしているのなら、もっと竜人の姿を見かけるはずだ。
イシュはといえば、唐突な質問に目を瞬いて首を傾げていた。
「は?キリも使って来たんじゃないのかよ?魔法陣」
「城の中以外にも魔法陣があるのか?」
「そりゃ、一箇所だけなわけないだろ。この城にあるのは祭りの時だけ使う来客用」
他にも里の集会所と里の門の前に一個ずつあるぞ、とすんなり教えてくれる。
これで出入り口は三つに増えたわけだが、他二つの場所が場所だ。
里の中心と里の入口、恐らくその二箇所は常に人の目がある。
やっぱり一番逃げやすいのは城の魔法陣だろうか。
逃げる算段を立てているキリには気づくはずもなく、イシュは不満げに言葉を続ける。
「それはともかく、あの手紙。なんだよ、こっちに帰れないって」
「……なんでお前が読んでるんだよ」
フォミュラ宛てに出した筈だったんだけど、と言いつつ、とりあえず彼に手紙が届いていたことに安心する。
それなら多分、キリがどんな状況にいるかくらいは察してくれているはずだ。
まあ、彼自身今は動けないようだからあんまり意味はないかもしれないけれど。
とりあえずイシュへの返事は、適当に誤魔化しておかないとまずいだろう。
こいつ、何も知らないはずだし。
「……見れば分かるだろ。厄介事に首突っ込んでんの」
「そりゃ分かるけど」
「こんな厄介事、里に持って帰るわけにいかないんだよ。そういうことだ」
この話はこれでおしまい。
そう言って会話を打ち切ると、イシュは不満げに黙り込んだ。
まあ当然か、殆ど説明になってないわけだし。
でもこれ以上の説明もできないんだよな、とぽりぽり頬を掻く。
じーっと不満げな視線で睨みつけていたイシュが、「じゃあ」と質問を変える。
「お前今どういう立場でここにいるんだよ」
「あ?あー……ここに招かれてるお偉いさんの護衛、かな」
間違ってはいない。
「こんな所ほっつき歩いてていいのか?」
「あんまりよくないな。そろそろ戻らないといけない」
「……わかった。色々聞きたいことはあるけど、今日は勘弁してやる」
「そりゃどうも」
正直助かった、と思いつつ視線を逸らすキリに、イシュが思い出したように付け足す。
「お前のいない間、畑の世話してんの俺なんだからな。さっさと片付けて戻って来いよ」
「……ああ」
そうか、そうだった。
荒れ放題になっているものと勝手に思っていたが、イシュの奴が世話してくれてたのか。
正直、少しどころじゃなく申し訳ない。
里に帰るつもりも、もうないし。
「その……放っといてくれたっていいんだからな。当分帰れそうにないし」
「は?手入れしなきゃすぐ駄目になるんじゃないのか?ああいうのって」
「でもお前、自分の家があるの別の里だろ?」
「別に、待ってる奴がいるわけでもないし」
納得いかなさそうな声で、言葉は続く。
「だってお前、あんなに頑張って畑作ってた癖に」
「……まあ、そうなんだけどさ」
「いいのかよ、また草だらけの藪になっても」
「あー……」
藪蛇か。
余計なこと言わなきゃ良かった、と思いつつ、キリは視線を泳がせて。
「……、ま、大丈夫だよ。その時はその時で、何とかするから」
フォローにもならない一言を付け足したお陰か、イシュからこれ以上の追求はなかった。
その代わりに、でっかいため息が降ってきて。
「――あのさ」
「ん?」
「本当、何か困ってるなら、言えよ」
思いがけずそんなお言葉を頂戴して、キリは目を瞬く。
旅に出ていた期間があるから、イシュと過ごしたのなんて、長くて二ヶ月かそこら。
キリにとってはともかく、百年以上生きているイシュにしてみれば、ほんの一瞬のはずなのに。
ほんと、人のいい奴だ。
利用されたって文句言えないぞ。
そんなことを考えながら、気まずさと罪悪感を吹っ切るように、キリは笑う。
「ありがと」
うまく笑えたかな、と少し心配になった。




