22.【閑話】誰も知らない夜の出来事
キリ・ルーデンスの死が報告された時、王女ファリエンヌは顔色を変えて立ち尽くしたという。
当然だ、愛する婚約者が死んだのだから、と周囲は彼女を哀れみ慰めたが、同時にチャンスが巡ってきた事も理解していた。
残酷な形で終わってしまった恋と、傷心の女性。
慰めの言葉をかけ、甘く優しい態度で接すれば、もしかしたら――。
そんな期待を持って、大勢の貴族が彼女に接点を持とうと画策した。
王女は、暫く誰ともそんな気にはなれないと、申し込まれる縁談の話を全て蹴り飛ばした。
まるで自暴自棄になったかのような行動も、こんな悲惨な出来事の後では仕方ないと許容された。
夜。
色をなくした顔のまま、王女はひっそりと佇む尖塔の一室で視線を落としていた。
月明かりが照らす目の前の床には、光を失い、力を発揮していない魔法陣が刻まれている。
「…こんな所にいらっしゃったのですか」
背後で灯る、魔法灯の灯り。
この部屋の持ち主である魔法使いが、背後の扉を開いて目を丸くしていた。
「…顔色が真っ青ですよ、姫」
「だって…だって、わた、し。わたし、そんなつもりでは」
「姫のせいではありません。"助けなかった"のは親衛隊の者たちです」
瞳を細め、魔法使いが笑う。
その意に気付いて目を瞠った王女に、のんびりと言葉を重ねる。
「よいではありませんか。これで婚約者ごっこをわざわざ続けずとも、貴女は求婚を断る口実ができたのですから」
「あ、あなた、…あなた、そんなにキリが嫌いだったの?わざと――殺すほど!」
「まさか。貴女のためですよ、ファリエンヌ王女。貴女の望みは、暫くの間政略結婚を強要されない立場に立ちたい、それだけでしょう?貴女が苦労せずともその立場に立てるよう、考えたつもりでしたが」
「だからって!」
殺すことないじゃない、そう呟いた言葉は冷たい夜の空気に溶けて消える。
魔法使いは淡々と告げる。
「誰も困らないでしょう」
「…」
「親もいない。深い仲の友人もいない。唯一気がかりなのはルーデンス家の者ですが、彼らの口など王家の名を出して『忘れろ』とだけ言えばそれだけで閉じる事ができます。完璧ではないですか」
たかが数ヶ月。
そのうち多くの時間を勉強と剣の訓練に費やし、知り合いなど作る暇もなく。
いくつか無理やりに出席させたパーティでも、パートナーの隣に縛られたまま、作り笑顔で会釈させられていただけで。
養子縁組を命令した家の方は、元々そうした失踪にも融通の利く相手を選んでいた。
親衛隊の人間とも、数ヶ月程度ではそう親しくなる事などできなかっただろう。
元に戻っただけなのだ。
確かに、誰も困りはしない。
誰も。
誰も?
「……わたし、あなたはもっと博愛主義だと思ってた」
「私めは、貴女様はもっと情を与える相手を選ぶ方だと思っていましたが」
春の森のようだと詠われる深い緑の相貌と、氷の魔術師という二つ名の由来となった蒼の瞳が重なる。
少ししてから、気分が悪いと吐き捨てて、王女は城へと戻っていった。
その姿を見送って、魔法使いは肩を竦める。
そして、静かな空間に戻ったそこから踵を返した時。
「……おい」
「コーネル。護衛はどうしたんですか」
「部屋に戻られたから、後は見張りに頼んできた。こんな夜更けに、何故ファリエンヌ様がこんな所に来ているんだ」
「例の件ですよ」
見る間に苦々しい顔になった青年に、魔法使いはくすりと笑った。
「片棒担いでおいてその顔はないでしょう」
「……貴様は、本当に性質が悪い詐欺師だな」
「おや、貴方はキリを酷く嫌っていたと聞きましたが」
「……別に、そのことに関してじゃない」
「それなら問題ありませんね」
飄々と頷いて去ろうとするアシュトルに、突き刺さる視線。
ひどく胸糞悪そうな声が、静謐な空間に響く。
「……隊長が荒れている」
「おや、あの方が?珍しい事もあるものですね。まあ一ヶ月もすれば元に戻るでしょう。放っておけばいいじゃないですか」
「一ヶ月あの鬼みたいなしごきに耐えろと?」
「私には関係ありませんので。まあ、せいぜい頑張ってください」
「では、忙しいので私はこれで」と、彼は簡単に踵を返した。
去っていく魔術師の背を見送り、コーネルはフンと鼻を鳴らす。
コーネルは、キリ・ルーデンスが嫌いだった。
大嫌いだった。
貴族である自分が、一体どれだけの時間をかけて今の自分の地位を作り上げたか。
どれくらい幼い頃から剣技を学び、知識を学び、この道を歩き続けてきたか。
他の何があろうとも、積み重ねてきた時間こそが違う。
それをあいつは、全部かっ飛ばして入り込んできた。
それだけでなく、あっという間に王女の婚約者という地位までのし上がった。
ルーデンスの長男が未だ八を数える程度に過ぎないことなど、少し事情に詳しい貴族ならば誰でも知っている。
当然あいつの背後には王家がいたから、表立って言う奴はいなかった。
けれど、きっとあの隊の人間なら、誰もが知っていた。
彼は貴族の生まれではない。
だからこそ、媚を売る奴と表立って嫌う奴らとに別れた。
かろうじて隊長はキリを心配していたようだが、あんな朴念仁に何ができるものか。
四面楚歌とまではいかずとも、決して平気な顔をしていられる状況ではなかったはずだ。
それなのに。
だというのに。
キリは、笑っていた。
馬鹿みたいに笑って、楽しんでいた。
辛そうにしている顔なんて、ついに一度も見たことはない。
嫌味を言われれば、いつだって不適に笑って流しやがった。
挑まれた勝負に負けた事はないし、不意打ちで何かされた際には頭を使って倍返ししてきた。
隙のない男、というのが、きっと一番近かった。
やや気品に欠ける所はあったが、女性の扱いや所作の一つ一つ、物事の進め方は完璧と言ってよかった。
生まれながらの貴族である、自分よりも。
だから。
コーネルは、キリが嫌いだった。
許せなかった。
嫉妬と呼びたければ呼ぶがいい。
八つ当たりと蔑みたければ蔑むがいい。
ただこの身を焦がす衝動と怒りだけが、コーネルの対抗心を駆り立てた。
あの能天気な頭に、一度でも本当の屈辱を味わわせてやりたかった。
あのすかした顔が、絶望と痛みに歪む様が見たかった。
そして、つい先日、それが叶った。
キリの死と共に。
…けれど。
そのはずなのに。
他の奴らのように、いい気味だと笑い飛ばしてやることは、できなかった。
「くっそ」
最後の最後まで、厄介な置き土産していきやがって。
胸糞悪ぃ、と吐き出して。
コーネルは足元の花を踏みつけ、貴族にあるまじき荒い足取りでその場を後にした。




