8.ちーちちーちーおっぱーい
ノックと共に響いたその声には、よーく聞き覚えがあった。
慌てて開いた扉の向こうに立っていたのは、
「た、いちょう…?」
「久しぶりだな」
ティンドラ王国第二王女親衛隊隊長。
であり、なおかつ国軍指揮下第三特務隊隊長、兼、前線指揮官補佐。
イージス・グラスフェルズ。
……長い。
というかまず、そんなことより。
「な、何故ここにいらっしゃるんですか!?指揮官補佐に任命されて前線に出ておられると」
「戦況が膠着しそうだったので報告に一時帰都した。それと、お前が帰還したと聞いたのでな」
ついでに様子を見に来た、と告げる調子は淡々としていた。
無表情なのも淡々と言葉を紡ぐのも通常運転だが、内容が内容だ。
何度でも言うが、今はグラジアと戦争中なのだ。
しかも開戦直後で、一番お互いに戦力があり、相手が何をしてくるか解らない状況。
普通に考えて、それだけの理由で一時帰都ができるわけがない。
それつまりわざわざ前線から私に会いに来たってことですよねー!?という言葉はぐっと飲み込み、キリは代わりに溜め息を吐いた。
「……よくそんな我侭が通りましたね」
「戦況が膠着しそうだったのは本当だ。一度砦が襲撃を受けたが、退けた後、相手側に動きがなくてな」
「力押しが通じなければ作戦を練るものでしょう、普通……」
「私がいない程度の理由で簡単に落ちる砦ならば、必死になって守る価値もなかろう」
口調が平坦なものだから、どこまで本気かわからない。
正直、キリはこの隊長を相手にするのは得意ではなかった。
決して嫌な人物ではないし、隊長としての器が大きいことはキリにも解る。
それでも、
「夕食を一緒にどうだ」
この、いまいち何を考えているか解らないところが、どうも苦手だった。
訓練で指導してもらうなんて場合ならまだしも、一対一で会話とか、何を話していいか解らない。
普段からあまり自分のことを話さない人だし、こうしてプライベートで遭遇するのだって初めてだ。
そもそも只者ではない雰囲気を持っているあたりとか、そういうものに縁遠いキリとしては敬遠してしまう。
…いやまあ、実際只者ではないのだが。
これだけ肩書き持ってて、武人としては最高峰の技を持ち、凛々しくて格好よくて。
おまけに個性豊かな(自分含め)第二王女親衛隊どもを取りまとめている手腕があって。
長身で睫長くて整った顔で、一つに括った銀色の髪もさらさらと流れる、巷の女の子達の憧れの的で。
天に一物ニ物どころかご寵愛を頂いているのではないかと思うくらいの人なのに、
どーしてそれが、こうも立派なお胸を抱えていらっしゃるお姉様なのかと。
絶対この人、生まれてくる性別を間違えている。
初対面のときの衝撃を思い出して遠い目になるキリをどう思ったか、イージスは軽く首を傾げて。
「どうした」
「い、いえ何も。…それよりよろしいんですか、私と二人だけで夕食など」
要らぬ誤解の元になるのでは、と。
一応婚約者という立場的にまずかろうと進言してみるも、相手は無表情のまま、瞬き一つ。
「王女の許可は取った。それに、部下に黙って襲われるほど鍛錬を怠った記憶はないが。試してみるか?」
「いやいやいやいや襲いません遠慮します。それより行くなら行くで早く寮を出ましょう」
こんな男の園にこんな立派なおっぱいを長時間放置しちゃいけない、とキリは彼女の背を押して部屋を出る。
男所帯の紅一点ということもあって、彼女は良くも悪くも噂の的だ。
確かに上司だし隊員は貴族だが、クズが皆無なわけではない。
実際、キリがこの寮で暮らしていた時、下卑た話など幾らでも耳に入ってきたのだから。
だというのに。
うっかり本人の耳にでも入ったら大変だと早足で歩くキリの隣を、長身故の歩幅で悠々と歩きながら。
「……何を焦っている。逢引でもあるまいに」
そんな発言をさらりと首を傾げつつやってしまうこの人を、キリはどう扱うべきなのか。
内心頭を痛めつつ、キリは乾いた笑いで誤魔化すに留めた。
さて、と。
導かれるままに一軒の店に入り、衝立で仕切られた簡易個室に通されて。
喉を潤して一息ついたあたりで、イージスが口火を切った。
「予想はついていると思うが。話がある」
「はい」
まあ、ただ単に食事のためだけに帰ってきたわけがないだろう。
背筋を正す。
「一つは、親衛隊内でのこれからのお前の処遇について」
ああきたか、と頭の隅っこで考える。
そりゃそうだ、一時期死亡に近い行方不明になっていたのだから、除籍されていて当然。
王と王妃に謁見した際に、親衛隊に籍を戻すとは言われたが、その後のことは何も知らされていない。
続く言葉を待つキリに、イージスは一本指を立てて。
「これについては以前と変更はない。ただ、一度除籍されているから、再度提出してもらわねばならない書類が幾つかある。それについては追って届けよう」
「解りました。提出は近衛事務へ?」
「そうだな。給料の問題もあるから早めに出すがよかろう」
ちなみに、だが。
キリが数ヶ月薬を卸して稼いだ額と、親衛隊の一月の給料がほぼトントン。
薬で稼いだ額でさえ、フォミュラには「月頭で換算して、大体平民が稼ぐ額の1.5倍くらい」と言わしめた。
…その話を聞いた時は、さすがエリート、とキリも頭を抱えるしかなかった。
閑話休題。
そう間をおかず、「では二つめ」という言葉と共に、二本目の指が立つ。
そして、ティンドラから逃げる時になんとか給料持ち出せないかなー、とか不埒な事を考えていたキリの耳に、とんでもない言葉が飛び込んできた。
「副隊長にコーネルを推そうと思っているのだが、意見を聞いてもいいか」
「……は?」
予想外の言葉に思わず真面目な顔の仮面が剥がれかけ、キリは慌てて顔を上げた。
そこには、至極真面目な顔のイージスが、小首を傾げてキリを見つめている。
「って、え、副隊長?親衛隊に?そもそもどうしてそのような話に」
「私が長期間不在の状況が予想されるからな。誰かに隊を纏めておいて貰わねば困るだろう」
「あ、ああ…。それはまあ、確かに」
いなくなる前も、帰ってきた後も、そんな話はついぞ聞いていなかったキリとしては、寝耳に水だ。
理由を聞いて納得はしたが、まさかそんな話になっていたとは。
「まあ私がそう決めただけで、副隊長という役職を作るかどうかの正式な決定もまだ先だがな」
この人心臓に悪い!!!
正したはずの姿勢がぐにゃりと崩れそうになるのを気合で持ちこたえながら、キリは何とか応えを返した。
「……まあ、ほぼ決定事項なんですね。で、コーネルを」
「ああ。コーネルを」
「……適任、とまでは言いませんが、悪くないと思います」
少し歯切れの悪い物言いになってしまうのは、ここ最近の完全無視が堪えているからだ。
視線で続きを促されて、キリは言葉を選びながら続ける。
「努力家です。多少猪突猛進で素直すぎるきらいもありますが、だからこそ他の隊員からの信頼も厚い」
「ふむ」
「能力的に適任な人物は他にもいますが、確かに他の隊員が最も納得できるのはコーネルでしょうね」
コーネルも、あれで能力は決して低くない。
思い込んだら一直線、という性格だけ直せば、十分隊長候補に上るであろう器は持っている。
…だからこそ、残念極まりない、という評価をされているのだろうけれど。
「というか、何故私に?他の皆にも聞いて回っているというなら解りますが」
「隊の中での一番新入りはお前だからな。隊員をよく知っていながら、最も客観的に見られるのはお前だろう」
確かに理屈は通っている。
だが、ここ数ヶ月行方不明だったような相手にそれを頼んでいいものなのか…。
悩むキリに、イージスは更に爆弾を投下する。
「ついでに、お前にコーネルを補佐してもらえると助かるとも考えた」
「……私が、ですか」
「そう悪くない人選だと思っているのだがな」
至極真面目な顔で頷くイージスだったが、正直キリは信じられなかった。
怪訝そうな視線に気付いたのか、イージスは心外そうに念を押す。
「本当だ。何だかんだ仲も良かっただろう」
「仲がいいというか、あれは一方的に突っかかられていただけのような…」
「喧嘩するほど、というではないか。……お前はコーネルとは正反対のタイプだ」
天才肌で素直じゃなくて信頼も薄いってか。
多少自虐的なことを考えて半眼になるキリを前に、イージスが真顔で続ける。
「どんな時でも客観性を失わない、冷静な判断ができる人間だ。加えてコーネルの扱いも心得ているだろう?暴走しがちなあいつを補佐できるとすれば、お前しかいないと思った」
「……」
「まあ、お前がどうしても嫌だと言うのなら、別の隊員に頼むが」
「い、いえ…それは別に、構わないんですが」
それより何より、そんな所までしっかり見られていたとは思わなかったので動揺中だ。
隊長といえば訓練の時に顔を合わせるくらいで、個人的に話をすることだってなかった。
訓練中のやりとりだけでここまで判断したとするなら、ちょっと確かに、只者ではない。
密かに隊長を見直すキリを尻目に、隊長はキリの返事に「そうか、助かる」と頷いていた。
「親衛隊は立場上、似たような境遇の者ばかりが集まるからな。お前がいるだけでも随分違うんだが」
「そういうものですか?」
「ああ。現に、お前がいるといないとでは隊の空気が大違いだ」
「いや、それは悪い方にでは…」
「例えば、競争意識」
否定しようとしたキリの先手を取る形で、イージスが言葉を紡いだ。
相変わらずその目は真剣にキリを見据えている。
「細い割に、お前は力も速さもある。婚約者という立場的にやっかみもあっただろう」
「いや、それは……まあ、なかったとは言いませんが」
「そのせいだろうな。お前がいると弛んでいた空気が引き締まるんだ。こいつにだけは負けない、と」
コーネルさん噂されてますよ。
「コーネルだけではないぞ。他の隊員もだ」
「そうなんですか?」
「お前がいなくなってからの弛みようが目に見えて解った程にはな」
優雅に紅茶のカップを傾けながらの言葉には、多少の疲労も見え隠れしているように見えた。
……まあ、いない間の事はよく解らないが、こうまで言われるならば恐らく事実なのだろう。
お疲れ様ですと心の中で労いつつ、カップに口をつける。
「買いかぶりのような気もしますが……お役に立てていたのなら、それはそれで」
「後は技さえあれば、連中も文句の付けようがなかっただろうがな」
「は、ははは……」
技なんてあったもんじゃないキリの剣は、完璧に腕力と早さに物を言わせて圧倒するタイプのものだ。
力量差があれば圧倒できるが、似たような力と速さの持ち主が相手だと、途端に弱くなる。
付け焼刃なのだから仕方ないといえば仕方ないが、隊長は少々ご不満らしい。
「このような時勢でなければ、じっくり育ててやりたくもあったがな。その暇はなさそうだ」
「……やはり、すぐ発たれるんですか」
「ああは言ったが、長い間離れていられるものでもない。数日中には戻る予定だ」
報告も済んだことだしな、と続ける隊長の声音は、どこか残念そうだ。
そりゃ戦場なんて戻りたくないよなあ、とキリは知らず目を伏せる。
「留守の間が不安だったが、お前がいるなら奴らの腕も鈍らず済むだろう。頼むぞ」
「できる限りの努力はします」
「うむ。――ああ、それと」
まだ何かあるのか。
顔を上げ、彼女に恐る恐る視線を向けて、キリは目を瞠る。
常に引き締まった無表情、眼光鋭い女隊長と名高い、イージスの表情は。
近くにいてさえ解るかどうか。
けれど、それは今、確かに――僅かに緩められて。
「今更だが、言い忘れていたな。お帰り、キリ」
…上手く笑えたかどうかは、正直自信がなかった。
===
キリの胸囲については、平時より男装ができる時点でお察し頂きたい所存。




