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霧雨のまどろみ  作者: metti
第二章 王都ティンドラ
31/92

7.黒き侵略者の脅威





さて、それから数日も経たぬうち。

キリは、王女の部屋へと繋がる大きな扉の前で、難しい顔をしていた。



何をしているかというと、別に諜報活動や任務というわけではない。

王女と一対一で、帰還の報告を行うためだ。


正直言って、気は進まない。

あの王女と顔を合わせるのがそもそも気乗りしないし、うまく誤魔化すのも一苦労だ。

それに、王様とお妃様に事情を報告した時に王女もそこにいたので、それで十分だろうと思っていた。


だが、確かに帰ってきてから王女としっかり顔を合わせてはいない。

改めて挨拶に行くのもなあ、と思っていたのだが、世間体的にまずいだろうかと思い至ったのだ。

お互いにそのつもりがなくとも、表向きには一応、王女とキリは婚約者な訳で。

実家へ行った際、母に「王女も心配しておりましたよ」と一言添えられたこともあり、今更ながら無視もできないかと考え直して。


実家から帰ってきて小一時間くらい悩んだあと、キリは渋々と王女への謁見許可を求めに立ち上がったのだった。




申請から許可が下りるまでこれだけ時間がかかるというのだから、全く王宮というのは面倒だ。

城の外の世界を知ってしまったがために、帰ってきてからは殊更そう思う。



そうこうしているうち、王女の準備ができたと侍女が知らせに出てきて、キリはすっと一つ深呼吸。

こんこん、と軽くノックをして、扉を開けた。


中で待っていた侍女頭と侍女たちが頭を垂れる。


中央の卓で椅子に腰掛けてこちらを見つめる彼女は、窓からの逆光で表情が見えなかった。

辛うじて解ったのは、彼女にしては妙に大人しい格好をしているな、ということ。


まあ、自室で寛いでいるところへ押しかけているのだから、格好がどうのこうのということはないけれど。

お気に入りのあのティアラ付けてないなんて珍しいな、と思いつつ、一礼する。


キリが入室するのと同時に、静かな声が耳朶を打つ。



「…お前達は下がりなさい」



小鳥の囀りのような涼やかで可憐な声、と吟遊詩人なら評すだろうか。

背中まで波打つ艶やかな蜂蜜色に、新緑色の大きな瞳。

白磁のように滑らかな頬と、淡く桃色に色づいた小さな唇。


仕立てのいい衣装とか、煌びやかな装飾品とか、そういったものがなくとも、それはまさしく。

『お姫様』と呼ばれる容姿をしている、そんな少女だった。


……キリにしたって、見るだけならいいのだ、見るだけなら。

実際に相対するのが嫌なだけなのだ。



侍女たちを下がらせ、部屋の中には二人きり。

傍から見れば、奇跡の生還を果たした婚約者と数ヶ月ぶりの再会だ。

甘い時間でも過ごすのだろうと邪推する輩も多いのだろうが、



「……何て言ったかしら。東の方に生息する、あの黒くて大きくて羽根が生えている害虫」

「……ゴキブリ?」

「そう。あれのような生命力ね、あんた。本当に悪運の強い」



第一声がこれだ。

ほとほと呆れたような声音で言い放されたそれには、甘さなんて欠片もない。


というか、いるのか。この世界にも奴らが。

東には近づかないようにしよう。



それはともかく、そんな感じの反応は予想できていた。

何を隠そう、このお姫様は外面と内面をがっちりしっかり使い分ける二重人格。

外見を武器にして媚びたかと思えば、裏では「死ねばいいのに」とか普通に言っちゃう人だ。

育ちはいいからか言葉遣いはまだ綺麗だが、言ってることは手酷い。


全く、二度と会うこともないだろうと思っていたのに、運命とは残酷だ。

とりあえず、「実感してますよ」と肩を竦めて、キリは嫌味を返す。


「今度ばかりは死んだかと思いましたけどね。代わりを探す手間が省けて良かったでしょう」

「……そうね。二度同じ手が通用するとは思ってなかったし」

「というか、そろそろ状況が許さないでしょう。戦争始まりましたし」

「……簡単に言ってくれるわね」


…なんだか今日は変にしおらしい。

おかしいな、とは多少思ったが、魔法使いがいないから強く出られないとか、そんなとこだろう。


多少の違和感に首を傾げつつ、キリは少し気になっていた事を聞く。


「で、王は貴女のこれからの身の振り方について何か仰ってたんですか?元々は嫁入りの為にあの馬車に乗ってたんでしょう」

「え?今のところは何も」

「ふうん。てことは、表向きには私もこのまま婚約者の立場のまま、と」


姫を他国の王族に嫁がせたい王にしてみれば、いなくなったと思った邪魔者がまた帰ってきた形だ。

強硬手段に出てもおかしくないと思ったのだが、何も動きを見せていないということは、力ずくだろうか。

例えば、事件を起こして濡れ衣を着せにくるとか。暗殺しにくるとか。

もしくはこの戦争を利用して、前線に出すとか。


最後の可能性が一番高いだろうかと考えつつ、キリは腕を組む。

王女は相変わらず、神妙な――というよりは、恐らく何を話していいか解っていない――態度でキリを見つめていた。



投げやりな敬語含め、こんな態度を他の親衛隊どもが見つけたら卒倒寸前だろうが、キリと王女は身分どうこう以前にまず【共謀相手】だった。

つまり、お互いにお互いの弱みを握っている形なのだ。


王女はキリが持っている秘密を公にされたら困るし、キリは王女に協力しないと元の世界に帰れない。

…まあ、協力したところで、本当に帰してもらえる保証があるわけでもないが。


とはいえ、今となってはそれは過去の話として語られるべきだ。

現在のキリは敵国のスパイで、王女に協力する以外の方法でなんとか元の世界に帰ろうとしている。

そして、恐らくまだ、相手はそれに気付いていない。


だからこそ、


「ま、こうしていられるうちに精々頑張って次の手を考えてください」


利用できるうちは利用させてもらう。

立場も、権力も。


与えたのは誰なのか、使わせたのは何故なのか。

痛い目を見た後で思い至って、後悔するといい。



そんな思いが言葉の端々に滲み出ていただろうとは思うのだが、果たして王女からは――何の反応もなかった。

怪訝そうに首を傾げると、そこで初めて、はっとしたように眦を吊り上げて。



「……そうさせてもらうわ。それで?そんなことを言う為にわざわざ来たの?」

「まあ、似たようなものです。戻ってきてから今まで、結局挨拶もしてなかったなと思って」

「挨拶って……」

「表向き、親衛隊の隊員で婚約者なのに、自分の主に帰還の報告をしないのっておかしいでしょう」


至極真っ当な理由だ。

王女も特に反論すべき部分が見つからなかったのか、曖昧に頷いた。


「まあ……そうね」

「ま、それだけなんですが」

「……」

「何か?」

「……いいえ。それだけならもう用件は済んだわね。私も暇ではないの」


頭を振り、出て行きなさいとばかりに扉を示される。

だというのに、向けられる視線が妙に物言いたげな気がして首を傾げつつ、キリは部屋を出た。



















さて、そうして挨拶を終えて戻ってきたのは、親衛隊の寮だ。


空も赤らみ始めるこの時間帯、親衛隊の面々は丁度訓練を終えて身支度を整えている頃だろう。

貴族が使うだけあって、贅沢にも個室にシャワーがあるので、この時間隊員と鉢合わせする事は少ない。

しっかり入る分には大浴場を使うものも多いが、汗を流すだけなら自室で済ます方が早いからだ。


そんなわけで、訓練を堂々とサボって王女と面会していたキリは、誰に見咎められる事もなく部屋へと戻る。



以前に比べて荷物がずっと少なくなった為か、がらんとした殺風景な自室。

幾らかはルーデンスの家から運んできたが、それでもほとんど私物などない状態だ。

ベッドに机、椅子。サイドテーブル。その程度のもの。


剣帯を外してベッドの脇に立てかけ、窓辺に寄る。


ここの窓からは、王都を一望できる。

夕陽に照らされて大通りを往く人々、夜に向けて閉門の準備を始める城壁。

戦争中だけあって以前ほどの活気はないが、代わりとばかりに傭兵の姿が目立つようになった。




……ここもいつか、戦火に呑まれる日が来るのだろうか。

正直言って、そんな実感は未だにない。


国境沿いで小競り合いが始まっている――と言ったって、キリが目にしてきたのは兵達が哨戒する姿くらい。

実際に魔法の撃ち合いや大勢の戦闘を目にしたわけでもなければ、死者を目にしたわけでもない。


キリにしてみれば、戦争なんてものはまだ、教科書の上の文字と白黒の写真でしかないのだ。


この世界で幾らかの戦闘経験は積んだとはいえ、キリはまだ人を斬ったこともない。

戦闘になったって、大体は鞘から剣を抜くまでもなく、チート臭い腕力でねじ伏せられるからだ。

親衛隊同士の模擬戦だって、あの森の中での戦闘だって、今まではそれですんできた。



この部屋で、初めて真剣を手にした日に感じた恐怖は、まだ色褪せていない。

案外軽いなと思ったその一瞬、それが命の重さだと告げられた時の、恐ろしさ。


…自分が力を持つ、ということを。

自分が命を奪う側に立つことを、その意味を。


忘れてはならないと、剣を手にしてまず、キリはそう思ったのだ。



……けれど。

少なくとも、これから先、人を斬らずにいられる奇跡は起きえないだろう。

実際、生命の危機だって何度かあったのだ。

戦場に立つというのなら、そんな事を言っている暇もなくなるに違いない。


できることならば、全力で拒否したい。

だが、それが自分の死と等価である以上、キリには簡単に剣を捨てることもできなかった。





窓を開けると、夕暮れ時の涼しい風が頬を撫でた。

視線を下げた中庭では、寮の掃除手伝いの女の子が手塩にかけて育てていた花壇の花が満開だ。


よくミスをすることで有名だったけど、いつも一生懸命で可愛い子だった。

手作りなんですって焼き菓子をくれたことがあったけど、多分彼女はお菓子屋さんが天職だ。

帰ってきてからは見かけてないけど、長期休暇でも取ってんのかな――と、益体もない事を考える。



頬杖を突きながら暫く風に当たっていると、中庭に隊員が一人出てきた。

夕涼みか、それとも誰かと夕食の待ち合わせだろうか。

見られていることに気付いたのか、彼もこちらに気付いて顔を上げたが――こちらと視線が合うと同時、ぱっと視線を逸らされた。



帰ってきてからの親衛隊の面々の態度は、皆こんなものだ。

幽霊でも見るかのように接するか、完全な無視か、相変わらず敵意のある視線を向けてくるか。

少なくとも、以前は比較的普通に話せた相手が、近寄ってこなくなった。



――恐らく、だが。

崖から転落した時の真実は、大っぴらになっていないとはいえ、隊員たちも知っているのだろう。

だから、キリがのこのこ帰ってきたことに戸惑いを隠せないし、どう接していいかも解らない。


特にコーネルは、態度がめっきり変わった。

以前は事あるごとに挑発しては絡み、ちくちくと嫌味を言ってきたものだが、今では完全に避けられている。

視線も合わせず、ぶつかっても謝罪せず、訓練で相方になった時でさえまともに会話した記憶がない。

ミストとして彼に再会した時のヘタレ臭なんか、欠片も見当たらなかった。


それでも、以前ならばキリは自分から積極的に距離を詰めていた。

視線は無理やり合わせに行ったし、謝罪がなければ求めたし、訓練になれば会話の糸口を探っていた。

だが、今になってわざわざそれをする必要はない。

一度裏切られておきながら、再びそんな努力をする気にもなれない。



それに、この現状は単独で自由に動けることを意味してもいる。

あんまりボロを出したくないキリにとっては、有利にはなれども邪魔にはならない状況だ。

だから、今のキリの立場としては、歓迎すべきなのかもしれないが。


それでも、ルーデンス家で賑やかな食卓を過ごした後だと、物寂しい感は拭えない。



「…飯食いに行くか」



窓を閉め、踵を返す。


自由時間とはいえ、こんな状況だ。

当然の如く、部屋を尋ねてくるなんて物好きも――



「失礼する」



……いらっしゃった。





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