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霧雨のまどろみ  作者: metti
第一章 竜人の里
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17.飛んで火に入る夏の虫




部屋の扉を閉め、店主の少々驚いた視線を睨みつける事で背けさせ、足音高く店を後にして。

大通りから少し離れた路地裏に入り、誰もいないことを再三確認して。


ようやく誰の目もなくなったと知ったキリは、ずるずるとその場に座り込んで奇声を上げた。


「ああああぁぁぁ!何なんだよもう!」


がしがしがし、と髪の毛をかき回して頭を抱える姿は、もはや変人の域だ。

しかし、頭で理解はしていても、感情のほうがどうにも追いついてくれそうにはなかった。


最悪だった。

まさか「キリ・ルーデンス」を知っている人間にこんな所で会うとは思わなかった。

その上、女の格好をしている時に本人だと見破られるだなんて、露とも考えなかった。


そもそも、だ。



「なんだよあれ…。まるで、初めから女だって知ってたみたいな…」



自分ではなく、キリ・ルーデンスを、最初から疑って掛かっていたかのような。

気のせいでは済ませられないほどの、あの執着は、……一体何だったんだ?

王宮時代に何か執拗に絡まれたりしていれば、覚えているはずだが、そんな覚えは全くない。


いいやそれより、とキリはふるふると頭を振った。

今考えるべきなのも、大切なのも、そんなことではない。


あの男は、ルーデンスの末子、と言っていた。

それはつまり、恐らく、というか確実に、クレイズのことだろう。



クレイズ・ルーデンス。

ルーデンス家の本当の長男であり、キリ・ルーデンスの義理の弟でもある。

突然増えた兄(という名目の姉)にも遠慮なく甘える人懐こさ、また妙な感のよさや賢さを併せ持った、将来有望とされている少年だ。


…と、他人事のように言ってはみたが、彼はあの頃のキリにとって唯一の癒しだった。

元々子ども好きだったのに加えて、あの人懐っこさと愛嬌にやられてしまった。

ショタコンの気は断じてない。

だがしかし、クレイズが嫌いかと問われればありえないと断言するくらいには、キリは義弟を可愛がっていた。


恐らく同様に、クレイズもキリを好いてくれていた。

姉しかいなかったところにやってきた同性の兄弟(表向きは、だが)というのも理由の一つだったかもしれないが、二人の仲は頗る良好だった。

置いてきてしまった今でも、それは変わらないとキリは信じている。



だから、正直に言って、このまま見捨てるなんてできそうもなかった。



だけど、それは折角手に入れた平穏な生活を捨てる選択だ。

ああ言った以上あの男は恐らくユルレドの街へとやってくるだろうし、もう一度顔を合わせてしまえば言い逃れはできない。


そもそも、本当にあの男がユルレドへと軍を進める確証も、本当にクレイズがユルレドにいるのかどうかも、キリには確かめる手段がない。

関わらないと決めた以上、ここで首を突っ込むのは自分を危険に晒す事にしかならない。

『死んだ人間』である身としては、彼らに関わっていくのさえ容易ではないはずだ。


けれど。



他の家族の目を盗んで、夜中に二人で屋根に上ったりだとか。

そこで交わした他愛もない日常の話だとか。

次期当主として育てられることへの愚痴だとか。

キリの元の世界の話だとか。


指切りで契った、何ということのない約束、だとか。



『――本当に?約束ですか?』

『ああ、約束するよ。指きりげんまん、な』

『何ですかそれ?』

『約束破ったら小指切った上で一万回殴るって意味』

『え…っ!?兄上のいた世界って、下手したらこっちより危険なんじゃ』

『あっはは、言葉の文だよ。こっちで言う、女性への褒め言葉の常套句みたいなもんだ』

『それにしたって一万ってやりすぎですよね?それ最終的に死にますよね、最初に小指切る意味とかあんまりないですよね』



この世界に来てからというもの、キリの心にぽっかりと空いていた虚ろ。

それを満たしてくれた、そんな他愛のないやりとりも。


向けられる視線も声も、感触を残したまま。

蘇る声も言葉も、鮮明なまま。



蘇る記憶は、確かに、そこにあって。











そして、数十秒の逡巡を経て。

知らず止めていた息を短く吐き出し、キリは目を開けた。


荷物から小さな羊皮紙の切れ端とインクを取り出して、適当な棒切れで一言走り書き、くるりと丸めて封をする。


「悪い、ヴィー。急ぎでこいつ届けてくれないか」


声を潜めて呼びかけると、もそもそと出てきたヴィーが何やら不満げに鳴いた。

何だよお前鳴かないんじゃなかったのか、と苦笑してやると黙ったが、それでも手紙を受け取ろうとはしなかった。


どうやらヴィーは、断固として手紙を届ける気がないらしい。

しかし、そうしなければフォミュラを待ち惚けさせることになってしまうし、最悪巻き込むことにさえなりかねない。

どうしてくれようと数秒考え、どうにか説得を試みる。


「…お前が利口なのは知ってるよ。さっきは助かったし、今だって罠だって気付いてるから止めてくれてるんだろ?」


けどな、と言葉を続ける。


「例え罠だって解っていても、行かなきゃなんない時はあるんだよ。私にとっては今がその時なんだ」


その決断を変えるつもりはない。

縦長の瞳孔を見つめながら、キリは続ける。



「だから、行かせてくれ。無茶はしない、無理そうだって思ったらすぐ逃げるから」



ヴィーは、何を考えているのか読めない目で、キリを見上げていた。

微動だにせず、鳴きもせず、じっと。



やがて、にらめっこが続いた後。

ヴィーは、やれやれとでも言いたげに身を震わせ、キリの手にある手紙を咥える。

ほっとして頬を緩めたキリだったが、次の瞬間ぺしっと尻尾で頬を叩かれて半眼になった。

どうやら完全に許してくれたわけではないようだ。


それでも頼みを聞いてはくれるのか、と再び小さく笑って、キリは小さな頭を指先でぐりぐりと撫でてやる。



「ありがと」



返事は、ぺしっと叩かれた掌。

さっきよりもずっと軽いそれを残して、ヴィーは擬態で隠していた翼をばさりと広げた。


ぐっとキリの肩を蹴って、真っ青な空に飛び上がる。



「…頼んだからな」



飛び立っていく真っ赤な翼を見送って、呟く。

僅かに目を伏せて、息を吐き。


再び視線を上げた時、キリの瞳から躊躇は消えていた。



行くならばできるだけ早い方がいい。


あいつが行動を起こす前に、さっさと行って事実を確認する。

事実ならできる範囲でどうにかするし、事実でないなら鉢合わせる前にさっさと帰る。

それが一番リスクのない選択だ。

のんびり迷っていて鉢合わせるのだけは、どうにかして回避しないといけない。


そうと決まれば早く出よう、とキリは検問に向けて歩き始めた。

同じ街の中にあいつがいる事を思えば、出くわす前にさっさと後にしたい。



さっきも見かけた門番にちょっぴり怪訝そうな目で見られたが、ついさっき検問を通り抜けたばかりの人間に問題があるはずがない。

荷物確認もそこそこに、キリは検問を通ってティンドラ国内へと戻る。


ユルレドへと向かう道程を頭の中で確認しつつ、キリはぐるぐると思考を巡らせていた。



グラジアの王族がティンドラの貴族の所在を知っていたということは、十中八九スパイがいる。

戦争を起こそうというのだから当然だが、それがルーデンスにまで及んだとなれば、これは危険な兆候だった。


王女がキリをルーデンスの養子に入れたのは、ルーデンスが比較的王族と縁の深い一族であるからだ。

名前だけで有象無象を黙らせられると同時に、身分的にも、また情報的にも安全な、守られた一族。

例え婚約者の真実がばれたとしても、発覚が早まる事だけはないと判断し、選ばれた一族。


……だというのに、こんなにも簡単に情報が漏れている。

自分の情報もスパイが関係していたのか、と一瞬ちらりと考えたが、それはもうどうでもいい。

知られているということが解った、それだけで十分だ。


今更どうしようもないことは考えても仕方ない。

これからどうするべきかを考えるのが先決だ。



『死んだ人間』であるキリは、表立って彼らに関与する事ができない。

今回は名前も何も出さずに接触するつもりでいるが、スパイまでどうにかする事は不可能だろう。


ならば、キリにできることは警告までだ。

身の程はわきまえて、迅速に、確実に、危機を伝える。



一つ深呼吸。

軽く吐き出した息を置き去りにして、キリは大きく足を踏み出した。




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