長靴は履いていない黒猫の対決
「だまされた」
誰も聞く相手がいないのに、思わずそう呟いてしまった。自称ドワーフの爺さんがベッドにおいておいてくれた地図を辿りながら、暗い森の中をどうにかこうにか抜けたと思ったらそこはスタートライン。もといた城に逆戻り。地上から行ったならまだ、近づく際に気づいて回避も出来たのだろうけれど、まさか洞窟が城の内部の庭に通じているとは思わないじゃない?
しかもご丁寧な事に、洞窟の出口となっている城の銅像は、一度出たら自動で閉まってもう開かないし。……というか、この像は例の、私が捕まりそうになった時に正にその場所にいた銅像だ。本当の本当に、振り出しに戻った。
幸いな事に、今この場所には見張りはいないし、ここは庭の奥まったところで木々も茂って身を隠す場所はたくさんあるからとりあえず誰にも見つからずにすんでいるのだけれど。
繰り返し何度も言うけれど、私はこの城の中を非常に良く知っている。隠れる場所も、抜け道も。それを踏まえた上で言わせて貰うけれど、この城の中から逃げるのは至難の業、だ。正面の入口には衛兵がしっかりと見張っているし、裏門にしたってそれは同じ。そして、その二つ以外に出口はない。そしてどちらを通るには通行証が必要なのだ。それにもしそれを手に入れられたとして、もしかしたら私は城では指名手配されているかもしれない。事態はあまり芳しくない。
とりあえず、この格好……きらびやかすぎる夜会服は目立ちすぎて見つかる可能性が更に増えるので、私は大きく裾をまくって動きやすい格好になってから、記憶を辿った抜け道でランドリールームに行くことにした。メイドや洗濯婦、コックといった場内で働く人間たちの制服が、あそこにはたくさんあるのを知っていたから。
果たして、私は数分後には調理場下働きの格好をしていた。本当は可愛らしさからいってメイドが良かったんだけどしょうがない。丁度行った時にそれしかなかったんだから。メイドなんて可愛い服着ていたら城内の人間に気づかれちゃうかもしれないし、むしろこれでオーケーオーケーと自分を慰めて、ドレスを小さくまとめて草むらの陰に隠して、髪を非常に野暮ったく肩の辺りで一つにまとめる。なるべく俯き気味に歩いて調理場に行くと、すぐにそこら辺を歩いていた人に捕まって、皮剥きを命じられた。すごい。一瞬の間もなく馴染んじゃった。これ、このまま皆さんが帰宅時間になったて、一緒に外まで出たら通行証なくてもバレなくない? そんな事を考えながら調理場の裏口を出て、外に続いている石段に座り込む。皮むき要員はここ、と相場がきまっているのだ。……って、なんで私、こんな小慣れてるんだろう? どうして皮を剥けと言われてすぐにカゴを持ってここに来たんだろう? すごく当然のように。
石段は5段ほどしかないもので、正面は壁で眺めが良いわけでもない正にただの裏口。でも、ここには覚えがある。確かに。私は、ここが好きだった気がする。壁の手前にぱらぱらと咲いているいくつかの花。人口の花。あれ、もしかしたら私たちが蒔いた種じゃないだろうか。
……私たち? 私、誰かとここにいたのかな? どうにもこうにも記憶が混濁している。一緒にいたのは王子だろうか。王子だろうな。本当に王子だけ? だれかもう一人、いなかった?
石段に座っていると風が吹いて、密かに私の髪や服を揺らして行く。その音が、運んできた薫りが、胸の奥をざわりと締め付けた。懐かしい、と思う。どうしてか、思い出せないけれど、懐かしい。
ふと、耳に騒々しい物音が聞こえてきて私は条件反射で立ち上がる。同時に、数人の衛兵が茂みを抜けて私の方に駆けて来るのが見えた。
見つかった!
私は野菜のカゴが足元から転がり落ちて、石段を跳ねて落ちるのも構わず、踵を返して調理場に逃げ込む。何事かと驚く料理人の中で何人かが私を捕まえようとしてくるから、つまり、そういうことなんだろう。私の変装なんてバレバレだったって事よね。やっぱり。
火器、刃物の豊富な危険な調理場の中、私は周囲を気にせず逃げ回る。幼い頃に調理場で遊んで怒られた事だってもちろんあるけれど、体が大きい分、動き回りにくい。でもそれは衛兵もお互い様。私がぶちまけた油で足を滑らせたり、大きな鍋が頭の上に落ちてきたりするのは、少し可哀想ではあるけれど……。
調理場を抜けて、階段の下にある「秘密の抜け道」を使う。これももちろん、子供の頃に発見したもの。本来掃除用具等を入れておく倉庫になっている小さなスペースなのだけど、その奥に更に扉があって、東の階段、南の階段までの通路となっている。もっとも、その出口で張られてたら終わりなので、なるべく早足で東の階段の出口へと走る。ドアを開けて一呼吸。大丈夫、人通りはない。宮殿の中であるその階段は、贅沢な絨毯が敷かれていて、調理場下働きの格好ではいささか悪目立ちする。私は全力で駆けて、東館三階にあるメイド用の控え室に飛び込んだ。大きく目を見開いたメイド長の初老の婦人の口を塞いで、スイマセンといいながらメイド控え室で用具が多い事をいいことに、口の中に布を突っ込み、手足を縄でぐるぐる巻き。ほんっとスイマセン!
簀巻きにして部屋の置くに寝かせておいてから、身の丈に合うメイド服を物色した。
やった! 憧れのメイド服。……じゃなくて。着替えを完了したらさっさと逃げなきゃ。メイド長をこんな目に合わせた以上、この姿でも長く続かないだろうし。
廊下を競歩的な早足で歩きながら、なんとか城から出れる方法を考えている時だった。私は見覚えのある姿を見つけてぴたりと足を止めた。
なんで、あの人が城に!? 義母さんが?
思わず隠れてしまう。王子と私の義母。不機嫌な顔で一つの部屋に入っていく。そして、義母の手の中ではすっかり飼い猫のフリをした黒猫。すました顔であの人の腕の中に抱かれてる。無事に逃げられたのは一安心なんだけど、なんかちょっとむっかー。
ぱたん、とドアが閉まって、私はそっとドアに近づく。ドアの隙間に耳を当てると少しだけ会話が聞こえてきた。はたから見られたら確実にアウトだけど、腹を決めよう。だって、気になりすぎる。
『あの娘の記憶が戻ったのかも……』
『そんな馬鹿な。私の魔法は強力だわ』
『伯爵の部屋さえ開いたら』
『それよりもあの娘さえ始末すればもう』
『本当の王子を蘇らされたら、僕は……』
いかにも陰謀的な会話なんですけど。何、本物の王子? ってことはアンタ、偽者なの?
ていうか『あの娘』って私の事?
『ご安心なさってください、王子。あの娘を始末できるのも、時間の問題です』
『なぜなら』
バン、と音がして、突然耳をつけていた扉が内側に開いた。私は体重をかけていたものがそれだったので、そのまま内側に倒れてしまう。そして見落とす冷やかな目たちを見上げて、自分の失態を知る。
硬直した私を呼び戻したのは、義母の手から抜け出した猫が私の顔を踏みつけたから。それは、軽やかに部屋を出て駆け出していく。私は慌てて足をもつれさせながらもそれを追った。
逃げるよ、ってどこに? どうやって?
あの義母から?
そんなこと、できる?
義母はとても酷い人だった。彼女が屋敷に来た日から、常に彼女は私の恐怖の対象だった。冷たい目をして私を見下ろすその瞳には、感情は宿っていないようだった。硬く冷たい石の床に私を叩きつける事をなんとも思わない人だった。叩いた拍子にその長い爪で私の頬が切れて血が出ると、ちょっと嬉しそうに唇をゆがめた。考え無しに屋敷のお金を使いまくり浪費するのだけれど、それが特に楽しそうなわけではなかった。それよりも、私を虐げる時の方が嬉々としていた。
幼い私は彼女の機嫌を損なわないようにと、そればかりを気にしながら生活していた。
彼女の力は圧倒的で、小さい頃からの経験で、私の中には彼女への恐怖が奥底の方までしっかりと根付いている。どんなに本を読んで知識や教養を仕入れて、彼女が恐るるに足りないと、理性で理解しても、私の体や心は理解しない。彼女を見ると体が震えるし、心臓がぎゅうと萎縮して吐き気がする。
黒猫はしなやかに走る。階段の手すりを飛び越え、私の知らないような埃の被った通路を抜け、窓を超えて裏庭へ。
「急げ!」
鋭い声で私を叱咤する黒猫の声に、震えそうになる足を必死で動かす。
でも。
「どこへ、向かっているの?」
裏門でも、表門でもない、中庭に、彼は向かっている気がするのだけど。
「いいから」
黒猫が短く叫んで、それからくるりとこっちを振り返った。
「だめだ。魔女は流石にまけない」
「へ?」
言葉の意味が分からないまま同じ方向を振り返った私は硬直する。
「義母さん」
無表情な義母が、静かに静かにこちらに向かって歩いて来る。
「私の猫が、いつのまにか摩り替わっていたとはね」
義母は冷たい目で黒猫を見下ろしたけれど、黒猫は特に怯みもしない。それが、今の私には心強かった。
「あんな弱っちい遣いを使っているとは魔女も力が衰えたんじゃないかな」
「言うねえ」
「そうだね。言うよ。元々魔女と言っても大したことはできないしね。せいぜい継子を虐めるくらいが関の山。殺そうとすればこの子の父親がかけた守りの呪いが発動して逆にあんたが苦しむんでしょう? だから手を下せずに、ただ記憶を混乱させる呪いを日々側にいてかけ続けるしかなかった」
「私が手を出せないのは、この娘だけなんだよ。お前なんかすぐに消し去れる」
義母が言うのに、黒猫は軽く尻尾をからかうように揺らした。
「僕だって、そう簡単には消せないと思うよ。何せ、僕も魔法使いだからね」
義母の顔が、ぴくりと引きつる。
「何ですって?」
「少し考えてみれば分かるだろ。魔女であるアンタに気づかれないくらい変身が上手いんだぜ。すっかり自分の猫と信じ込んじゃってまあ。そちらさんは、変身とかお得意でないとか?」
「馬鹿にするのもいい加減におし」
「そう。じゃあ、王様になってみてごらんよ」
義母は一瞬癪に障ったように舌打ちすると、次の瞬間、誰もが見た事のあるこの国を代表する男性の姿がそこには立っていた。
「まあ、基本だね。人型は似ているし簡単だもんね。じゃあ、魔人にはなれるかい?」
「あんまり見くびってくれるなよ」
義母だった王が憎憎しげに言うと同時にその姿はもくもくと膨れ上がり、気がつくと目の前に数メートルの巨体が立ちはだかっていた。その体は筋肉が隆々としていて、いかにも強そうで私は側の木に掴まって足が震えるのに耐えなければならなかった。
「実は魔人も結構簡単だよね。結局大きいだけで人型だしね。じゃあ、僕と同じレベルまでついてこれるかな?……ネズミだ」
魔人が鼻で笑うと、側の木々が強風を受けて大きく揺れた。と同時に、巨体がしゅるしゅると縮んで、見る間に木々よりも、私よりも、黒猫よりも小さくなって。
「チュウ」
一声それが鳴いた。
瞬間、目にも留まらぬ速さで黒猫がそれに飛び掛った。またたきしたらそれで終わるような、そんな短い時間に。ネズミはいなくなっていた。黒猫が、ぺ、と何かを吐き出したので見るとネズミの尾っぽだった。
「うえぇ」
私は口を押さえて、次の瞬間中庭の木の根元に嘔吐し始めた。
「君のためにやったのに、酷いなあ」
という黒猫の言葉を背後に聞きながら。