①預言者
今そこにある原子が、未来に粒子を手放すことを、
今空にある月が、未来に遠く離れてゆくことを、
科学が予測する。
科学は有能な予言者である。
予言者はこう言う。
「この世の全ては、確率的に示すことができる」
また、予言者は言う。
「この世に、神が存在する可能性は低い」
連休から数週間が経ち、梅雨入りを目前に控えた頃。この時期は中間試験を終え、入学やクラス替えの緊張や不安からもある程度解放された生徒たちに、中学までとは違う高校生らしい解放的な雰囲気が漂っている。
加えてここのところは天気も良く、夏に向けて気温が上がってきているのを朝に夜に感じる。連休以降は徐々に夏服を着用する人が増えてきたが、試験前後からは急速に増えて、今では冬服でいる方が少数派である。
僕はと言えば、皆に少しでも合わせようと数日前から夏服に切り替えている。才氣はもっと早いうちから夏服を着ていたが、物化は未だに冬服を着用していた。
そして未だに、僕はこの二人以外の生徒から避けられ続けていた。
「ん?」
上履きを靴箱から引き出すと、同時にはらりと紙のようなものが落ちた。
手紙――だろうか?
僕は屈んでその二つ折りになった紙を手に取り、開く。
『今日の放課後に、東校舎のテラスに来てください』
どうやら呼び出しの手紙のようだ。紙は下部にキャラクターの付いた可愛らしいメモ用紙で、文字も女子中学生が好んで書きそうな丸文字だ。
「へぇー! それ、女子からの呼び出しじゃん。まさか…愛の告白か?」
かといって、僕はそうも純粋に考えることはできなかった。
「どう考えても怪しいだろう。才氣はもう少し、自分の考えを疑ってみた方が良いと思うよ」
「えぇ~?」
いつの間にか後ろに来ていた才氣が、また大げさにリアクションをとった。
僕は上履きを履いて三階にある教室に向かう。ゆっくり歩いていると才氣がすぐ小走りで追いつく。
「愛の告白じゃなかったら何だって言うんだよ。そんな紙を使ってる女の子から、決闘の申込状でも届くってのか?」
「手紙の主が女の子だと決まったわけじゃないし、複数犯である可能性もある。ひょっとすると前に才氣が懲らしめた三年生が、僕に恨みを持って罠にかけようとしているかもしれない」
「おー、なるほどなー」
「感心しているのはいいけど、それなら才氣にも責任があるんだからな」
「責任って、助けてやったのに酷いな! それも二回も!」
「二回目は強力な台風のお陰じゃなかったっけ?」
「五月にそんな台風が来るか!」
そうこうしているうちに教室に到着した。
その日の授業が済み、放課後、僕は一人で東校舎4階のテラスに向かっていた。
もしもの場合には手助けしてもらおうと才氣にも来てくれるように頼んだのだが、今日に限って外せない仕事の話し合いがあるそうで、珍しく断られた。
危険があるとすれば物化や澄奈央さんを誘うわけにはいかず、他に頼れる人もいないので結局一人で行くしかなかった。
だが完全に無策というわけではない。何かの罠だった場合にすぐに逃げ出せるよう、あらかじめ上履きは靴箱に戻し、下足は東校舎の入り口脇の目立たないところに置いてある。これで帰る時にはいちいち北校舎の昇降口まで戻らなくて済む。
テラスは東校舎からの入り口と、渡り廊下に直接降りる階段の二か所から出入りすることができる。渡り廊下の様子はテラスから一望でき、不審な動きがあればすぐに察知できるので、挟み撃ちにされる心配は少ない。
到着すると、テラスにはまだ誰も来ていなかった。放課後ここでは読書などの場として普段はそこそこの人数の生徒が訪れているはずなのだが――、
そうか。今日は図書館が臨時の休館日だと、朝会でアナウンスされていたのを思い出した。確か、朝からガス警報器が誤作動を起こしたとかなんとかで、点検をかねて今日一日は立ち入り禁止らしい。
「あ、もう来てたんだ」
声がして、校舎側から一人の女子生徒が現れた。
背は恐らく物化よりも高いが、髪を高めの位置で二つに束ねており、印象としてはとても幼い。
「あなたが平良和義くん、だよね?」
「そうだけど」僕が答えると、
「うん、そうだよね」
女子生徒は奇妙な納得の仕方をする。
「この手紙は君が出したものかい?」
僕は相手のペースに乗せられないよう、先に切り出す。
「そうだよ?」
「名前は?」
「あー、名前書くの忘れちゃったんだっけ? 私は神代御言」
「じゃあ神代さん――」
「『御言』って呼んでいいよ」
「えっと――御言ちゃん…? 僕を呼び出した理由を話してもらえないかな?」
「え! 呼び出した理由?」
なぜ驚く?
「えぇー……うーんと、……そう!」
ポンと手を叩く。
「私は、あなたに素敵な運命をお届けに来ました」
……は?
「違うかな? えーっと…とにかく私と一緒にいた方が良いことがあるよ」
怖い。なんだか怖いぞ、この子。
僕は渡り廊下と、校舎側の入り口を見た。
今のところは誰もいない。逃走経路は確保できている。
「大丈夫。今日ここには誰にも来ないんだよ」
「…どういうことだ?」
僕には発言の意図が分からない。
「そう神様が告げているの」
だが、分からなくても良い気がしてくる。
「そして今日あなたには、私の話を二人きりで聞いてほしくて――」
「ごめん。今日は帰るよ」
僕は逃げ出した。
これは……これは宗教勧誘の類だ!
ひとまず相手から離れるために、僕は南校舎に走る。
後ろを追ってくる人間はいない。となればどこかに待ち伏せされているのか。
しかし、まさか渡り廊下で東校舎から出て行った僕が、また東校舎に戻ってくるとは思いもしないだろう。待ち伏せるとしたら北校舎の昇降口か、あとは東西南に三カ所ある校門のどれかだろう。もし全箇所で待ち伏せられていれば、部活の終了時刻まで校内で逃げ延びて、部活動帰りの生徒に紛れて何とかするしかない。
とりあえす南校舎の階段で一階まで下りて、自分の靴を回収し―――
「な…なんで…――?」僕は目を疑った。
東校舎の入り口付近、僕の靴が隠してあるところに神代御言が立っていた。
「あ! いたいた!」
まずい見つかった。僕は思わず引き返して、南校舎の階段を上がった。
いったいどこでバレたのか? 靴を隠すときに見られてのだろうか。あるいは僕が待っている間に見つけられていたのだろうか。
くそう。こんなことなら初めから靴を持っていけばよかった。屋内で下足を持ち歩くことを躊躇ったのは失敗だった。
三階まで登って渡り廊下に出て、追手が来ないことを確認する。
渡り廊下の三階からは、各校舎と中庭、教員用駐車場などが見渡せる。僕は上から、気づかれないように東校舎の一階を見た。
東校舎の入り口には御言がうろうろ歩いているのが見える。
本当に一人なのか? いや、油断は大敵だ。
僕は周りに警戒しつつ、ひとまず待つことにした。
約十分後。
見てみると、御言はまだ待ちぼうけていた。
さらに十分後。
立っているのに疲れたのか、その場に座り込んでいた。通りがかる生徒が不審がっている。先生にも声をかけられているが、立ち上がる気配はなさそうだった。
さらに二十分ほど経過した頃。
テラスで飲み物を買って戻ってくると、座り込んでいる御言の前に保健室の先生がしゃがみこん声をかけでおり、心配している様子だった。
そこからさらに二十分ほど張り込んでいると、保健室の先生が再び現れ、御言に立ち上がるよう手を貸す。そして手を引いて東校舎一階の保健室に入るように勧めるが、御言は「や~だ~! ここにいれば会えるって言ってるんだから~!」などと、子供がおもちゃ屋で駄々をこねるように反発している。
確かに、あんなところで何もせず1時間も座り込んでいるのを見たら、養護教諭が心配に思うのも無理はない。
それにしても……、本当にずっと、ただ待ち続けるつもりなのだろうか。
考え無しというかなんというか、これではあれこれ裏を考えていた僕の方がかえって悪い奴みたいじゃないか。
もちろん僕は、宗教だから悪いなどと思ったりはしないけど。
なんだかひどく悪いことをしている気分になって、僕は階段を下りて東校舎に向かった。
「やっと戻ってきてくれたぁ!」
僕が姿を見せると御言はぱっと顔をあげて、ぱたぱたと小走りで傍まで来る。
先生は一度こちらを見るが、そのまま何も言わずに戻っていった。
「どうしてこの場所が分かったんだ?」
僕が尋ねると、御言は再び言う。
「だって、そう神様が告げてくれたから」
「ここに何があるのか、知ってて待っていたんじゃないのか」
「え? ここに何かあるの?」
「……そうか」僕は少し、彼女の話を聞いてみることにした。
戻ってくると、相変わらずテラスには他に誰もいない。
「オレンジジュースでいい?」
「ああうん、ありがとう」
僕はお詫びに自動販売機で飲み物を買って、御言に渡す。
「それで、その『神様が告げてくれる』っていうのは、どういう意味?」
「あのね、こう…ふわっと、言葉やイメージが思い浮かぶの。どうしてなのか分かんないけど、よくそれが本当のことになるんだよね」
未来予知――いや、預言というやつなのか。
「今日は『この時間ならテラスには誰も来ない』って思い浮かんで、それから『一階の渡り廊下の東校舎近くで待ってれば、必ず和義君に会える』って――、」
「そんなにハッキリと聞こえるものなのか」
「ハッキリだったり、ぼやけてたり、よく分かんなかったり――色々かな?」
「それが『お告げ』? 失礼かもしれないけど、それじゃあただの個人的な妄想か何かのように聞こえるな」
「うん」御言は肯定した。「えっと確か……みんなの妄想は神様がくれたもので、……現実は妄想で、私の妄想が現実で――、……あれ? これで合ってたっけ?」
「さあ…?」こっちに聞かれても困る。
「えっと、あと――神様っていうのは、人が現実に無いものを考える元を作っているっていう……その…仮定の? 存在で? よく分からないんだけど……」
確かに。全く分からない。
「ちょっと、僕も飲み物を買うよ」
真面目に聞いていると頭が痛くなってきそうなので一度席から離れる。
「あ、」すると御言が声を発した。
「その自販機、当たりが出るよ」
僕はちょうど硬貨を入れボタンを押したところだった。
「……本当にそんなことが――」
起こった。ディスプレイに7が四つ揃い、再びボタンが点灯した。
それを見て、僕はただ言葉を失った。