③鑑賞会にて
翌日、事態はさらに深刻になっていた。
昨日の騒動は校内外のかなりの人数の関心を集めたらしく、伝言ゲームで伝わった情報は学年どころか学校中まで及び、その広がりと共に事実とはどんどん離れていった。
誰が言い出したのか「平良和義に不用意に近づくと学院長を敵に回す」、「手を出そうとすれば人気のないところで始末される」、「前の学校では関わった先生や生徒に脅迫状が届いた」等々、そんな噂が広まっているというのだ。
もちろん心当たりは無い。僕は聞かれれば否定するつもりなのだが、そのことについて尋ねようとする人物はいなかった。
唯一僕に普通に接して、この話を持ってきたのが才氣だ。
「何だか尾ひれ背びれが付いているというか、わざと誰かが悪い方向に捻じ曲げたかのような内容になっていないか? だいたい、人気のないところで上級生を撃退したのは僕じゃなくて才氣じゃないか」
僕は伯母さんの作ってくれた弁当をつつきながら愚痴を言った。
勿論弁当には何一つ文句など無い。伯母さんの弁当には冷凍食品のレトルト食品の類の一切無いであろう真心弁当だ。僕の人生より長い主婦歴は伊達じゃないのだろう。
「俺はごく普通の生徒だからな。ビッグな転校生に注目が集まるのは仕方ないことだぜ」
才氣は購買で買ったパンをかじりながらそう言う。
「ビッグなのは僕じゃない。親たちだ。ただの高校生に大も小もあるものか」
「おー、なんだ、お前の親はそんなに凄かったのか」
「控えめに言っても平凡とは言えないね」
――って、知らなかったのか?
「なるほどな。それでこんなに警戒されているわけだ。結局世間は、個人よりも家族を見てるってことだろ。特にここは半分田舎だし」
「はあ」僕は溜め息を吐いた。
まだ昼休みだというのに、教室はがらんとしている。クラスの皆はどこに行ったのだろう。
休み時間が終わると担任が点呼を取り、歩いて近くの会場まで移動、決められた席に着いてまた点呼を取る。
今年は地元のアマチュアオーケストラが、ビゼーやらブラームスやら演奏するらしい。
開演時間となると会場は暗くなり、緞帳が開く。初めは少し騒がしくしていた生徒も、演奏が始めると流石に空気を読んで大人しくなった。
いや、やはり寝ているだけかもしれない。才氣が僕より前の席に座っているが、開始早々に舟をこぎ出して、今は後ろから見ても分かるほど気持ちよさそうに寝付いている。時々演奏が静かになると寝息が聞こえるほどだ。
才氣は音楽が大の苦手だそうで、中学生のころは合唱が苦痛で仕方なかったと、来る途中に話していた。特に秋に行われる合唱コンクール前になると、熱心な生徒を主導にクラスの一人一人まで手を抜かぬようチェックされ、個人指導までされることがあったそうだ。
興味が持てないことにそこまでやられては、嫌になるのは分からないでもない。
しかし、開始からしばらくすると、どうやら自分にも強烈な眠気が襲いかかってきた。この食後の眠くなりやすい時間に、暗くて快適なところで音楽を聴いているという状況は、恐らく昼寝には最適な環境に違いない。
くっ……欠伸が止まらない……。ただでさえ注目を浴びているのに、こんな所でいびきでも立てていたらまた印象が悪くなる。
僕は少し外の空気を吸ってこようと、曲が終わるタイミングをみて席を立った。
会場の外では見張っていた先生に声をかけられたが、手洗いに行くと言うとそのほかには何も言われなかった。
手洗いで軽く顔を洗って会場に戻る。
と、ありゃ、自分の席はどのあたりだっただろうか。眠かったせいか自分がどこを歩いてきたかあまり覚えていない。確か、入場したときはあの扉から――。
「ん? あれって――」
会場を見回していると、最後列付近に見覚えのある人物を見つける。物化だ。
その周りには生徒は誰もいない。なぜあんなところにいるのだろう。まあ、本人に訊いてみるか。迷って歩き回るのも目立ちそうだし。
そう思って僕はおもむろに近づき、物化の隣の席に着いた。
物化がこちらを見る気配は無い。気づいていないのだろうか。
「こんな所でどうしたんだ?」
僕は聞こえる最低限の音量で尋ねた。
「座っている。見て分からないのか?」
物化はこちらを見ないで答える。席を探していた僕の姿を見かけていたのか、特に驚いた様子は無い。
「他の生徒はいないみたいだけど、ここにいても大丈夫なのか?」
「閉演したあとにもう一度点呼を取るから、その時に戻ればいい」
「なるほど。じゃあ僕もそうしようかな」
物化は何も言わず、腕を組んで前を見ていた。
「物化さんは、音楽にはあまり興味が無いのかい?」
「こんな後ろに来ているのに、私が熱心に聴いているように見えるのか?」
五月蝿くしているわけでも、寝ているわけでもないが、確かに演奏に聞き入っているという様子ではない。
「まあ僕もあまり音楽は分からないな。母さんは音楽が好きで僕も小さい頃よく聴かされたけど、その割に縦笛は得意ではなかったしなあ」
「聴くのと演奏するのは違うだろう。あと貴様の身の上話に興味は無い」
……どうせ演奏を聴いていないならもう少し会話に付き合ってくれても良いだろうに。
「ああでも、そういえばこういう会場はあまり前にある席よりも、少し離れていた方が良いんじゃなかったっけ? 後ろの席の方が一体感のある演奏が聴けるとかなんとか。気のせいかもしれないけどさ」
思いつきでそんなことを言ってみたが、それを聞くと、物化は少し首を動かし辺りを見渡した。
それから顎に手を当てて考える素振りをとり、答える。
「それは、恐らく反響音、残響の影響だろう」
「反響音――会場に響いている音が、音の聞こえ方に関係あるのか?」
「録音スタジオやカラオケルーム、あるいは浴室等で音が他よりも良く聞こえるのは、外からの雑音が無いことと反響した音が耳に入ってくることが理由だそうだ。こういったホールでは、後ろまで音声が聞こえるために音が響くように設計されている。後ろの席の方が、直接音が聞こえにくい代わりに残響がよく聞こえるのではないか?」
「なるほど、人が風呂場で歌を歌いだすのはそういう訳だったのか」
「そう……かもしれない。断定はできないが」
なんだろう。先程と打って変わって妙に丁寧な対応だ。
「天井が水平でないことや左右の壁が平行でないのは、音を響かせるためだろう。広さだけを考えるなら部屋は直方体になるようにすれば良いのだからな」
物化は壁や天井を指差す。その様子はやや楽しそうである。
「物化さんはこの会場には詳しいの?」
「違う。だが何事にも『規則性』というものがある――と仮定することが大事なのだ。規則性があるということは、別々の場所や時間であっても、同じ条件ならば同様に成立するということ。もちろんそれは仮定に過ぎない訳だが、仮定が否定されない限りはそれに従って推論を立てることができる」
「えっと……つまり、今のはただの推論だ、と」
これは丁寧というべきか、回りくどいと言うべきなのか。
「あとは、そうだな、それぞれの楽器から聴く人間までの距離の差が縮まるからだろうな」
「距離の差?」
「音は空気を秒速約340メートルで伝わる。演奏者は指揮に合わせて一斉に音を出すわけだから、例えば34メートルの距離差があれば、遠くにある楽器の音が聞こえるのは、近い方の楽器が聞こえた0.1秒後になる。まあ、オーケストラがそんなに無駄に広がることは無いかもしれないが、人間の聴覚は時間的分解能に優れるから0.1秒未満でも音のバラつきを聞き取ることはできるだろう。そうだな――、電気機器の60ヘルツの雑音はかなり濁って聞こえるから―――」
やはり楽しそうだ。話をしている物化は表情豊かで饒舌だった。
普段は無愛想だけど、話をするのは好きなのだろう。それにしては昨日のあの不機嫌さは何だったのだろう。まるで何かに恨みでもあるような――。
「聞いているか?」
「ああ、よく分かったよ」
「ふふん。そうかそうか」
物化は得意げに鼻を鳴らした。
「そういう話は澄奈央さんにもするのかい?」
「それは――……、ふん! 貴様には関係の無いことだ」
かと思えば機嫌を損ねたようだ。
「さっさと席に戻れ。邪魔だ」
「音楽には興味が無いんじゃなかった?」
「私は静かな場所が良いんだ。また貴様が目当ての人間が押し寄せたらどうするんだ」
昨日の昼のことを言っているのだろう。
「それだったら心配はいらないよ。昨日の自習の時間から、どうやら僕はみんなに避けられているみたいだし……」
遠巻きに指を差されている気はするが、今朝から僕が言葉を交わしたのは先生の他には才氣と物化だけだ。
「それに、皆の目当ては僕じゃない。皆が見ているのは僕の父さんやお祖父さんだ」
昨日の時点で、僕がしたのは簡単な挨拶だけだった。普通ならたったそれだけの情報で皆はどれだけ興味を示せるだろうか。きっと、少し遅めの新入生程度にしか認知されなかっただろう。だけど僕の場合はそうではなかった。
自慢でも自虐でもなく、これはただ僕に課せられた宿命だ。
「あの男――才氣とかいう奴も、それで貴様に近づいたのだな」
「それは…そうなのかな……?」
本人は僕の家族のことを知らないと言っていたが、かといって他に理由が無い。
別にそれが嫌だってわけじゃない。親がどうであろうと、僕は僕で目の前の人間とコミュニケーションを取るだけなのだから。最後に選ぶのは自分だ。それでも苦手だった。
「人が誰かに近づくのに下心は付き物だ。貴様が言うのは、親と比較されたくないというただのワガママだろう」
比較されるのが嫌ってわけでも――いや、本心では嫌なのかもしれないな。
「しかし、だからといって相手を騙して良いという訳ではない」
「うん? それはそうだろうけど…?」
これはどういう話題の転換だ?
「だから貴様も協力しろ」
「いいけど、協力? 何を?」
「私がインチキ超能力者の嘘を暴く」
ああ。昨日の放課後にもそんなことを言っていたと思い出した。
才氣が吐いた「嘘」とは超能力の原理についてだろうか。だがそれは、物質と魂が繋がっているとか、魂が自由に操作できるとか、そんな非常識的な話だった。
ならば「非常識だ」と切って捨ててしまえばそれまでだが、僕等はそんな非常識的な出来事を目の前で見せられてしまった。これは暴きようがあるのか?
「……一体、どうやって暴くんだ?」
「まだ分からない」
物化は即答した。なんだってー。座りながら転びそうになった。
「え? じゃあ、才氣の説明に何か問題があったわけではないのか?」
「何を言う! 決定的な問題がある! 力やエネルギーの伝達の問題だ!」
「いや……でもそれは――」
その説明は才氣も出来ないと言う。唯一超能力の事を知る本人が出来ないというならば、僕等にはどうしようもない。
「それでは話にならないことは分かっている! だから今考えているんだろうが!」
つまり、この席にいたのは一人で黙々と考えるためなのか。
だがあと一日でそう簡単にアイデアが浮かぶものだろうか。いや、物化の主張は昨日と全く同じだ。一人では限界なのではないだろうかと思うが――
ああ、そうだった。
生地物化には友達がいないのだ。
「とにかく、だ。私が絶対に証拠をつかんでやる。だから奴に関して貴様の知っていることを話せ。私も出来る限りで調べて、考えているところなんだ!」
物化はだんだん声を潜めるのを忘れているようだった。
「知っていることって言ってもまだ昨日知り合ったばかりだし……、ああそうだ、才氣も音楽には興味が無いそうだよ。それどころか苦い思い出があるみたいで、音楽鑑賞どころか音楽ホールに入るのも嫌なくらい大嫌いだって、来るときに言っていたよ」
こんな情報が役に立つわけがない。僕は軽い冗談のつもりで言っていたが、
「音楽が嫌い、か……」
意外にも物化は真剣に話を聞き、また考え込んでいた。
なんだか少し申し訳ない気分になる。協力すると言っておいて、これだけではあまりに不誠実だろう。
「えっと…他に何か、手伝えることは無いか?」
「……それなら、学校のピアノのメーカーと品番と、できれば重さを調べてくれ」
「え? ああ、分かった」
よく分からないまま生返事をした。
ピアノのメーカー? そんなものを知ってどうしようというのだろう。音楽が嫌いな才氣にピアノを投げてぶつけてやろうとか? 高級品だから止めた方が良いと思うが――、そんな訳ないか。
「物化さんは?」
「私は、今日はこれからカーショップに行く」
「……え? カーショップ?」
分からん……ああ、ぶつけるのは車か。確かにそっちの方が痛そうだけど。