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フレンドシップス・サイエンスガール  作者: 吉野ムラ
第5章 知覚の怪異
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⑧正体

 溶けかけたアイスを平らげ、僕はエレベーターで五階に上がって澄奈央さんの病室に戻った。

 病室の戸を開くと、ベッドから足をおろして座る澄奈央さんと、それに対面して椅子に座る物化の姿が見えた。

「――え?」

 がたんと椅子が倒れた。唐突に立ち上がった物化は、何も言わず、下を向いたまま早足で部屋から出て行った。

「おかえり和くん」澄奈央さんが屈んで倒れた椅子を戻す。「売店の場所はすぐ分かった? 結構分かりにくいところにあったでしょ」

「降りるときは階段を使ったから、すぐに分かりました」

「そう。ごめんね。せっかくお見舞いに来てくれたのに、早々に使い走らせちゃって」

「いいですよ。ちょうどアイス食べたかったところですし」

 そう言って僕はお茶の入ったペットボトルをサイドテーブルに置いた。

 数秒間、沈黙が流れた。物化のことを聞いても良いのだろうか。僕は躊躇ちゅうちょした。

「あらら、物化ちゃん――」

 澄奈央さんが何かに気づいたように沈黙を破る。

「鞄を忘れて行っちゃったみたい。また戻ってくるかしら?」

「僕が届けますよ。さすがに病院に置き去りにすることは無いでしょうし、たぶん渡せると思います」

「ありがとう。何度も悪いわね」

 僕は「いえいえ」と言って、ベッドに寄りかけてあったグレーのリュックサックを右肩に背負った。教科書などが詰まっているせいか鞄はずっしりと重い。置き勉はしない方なのだろうか。

「じゃあ、僕はこれで――」

「あ、そうそう、和くんにも一応言っておかないとね」

 扉に向かおうとしたところで引き留められた。

「今回のことだけど、これは私があとで上級生の雨妙うみょうさんときちんと話をするから、和くんたちは安心して期末テストに打ち込んで頂戴ね。体育館の鍵の件は雨妙さんの問題だし、私が怪我をしたのは、どう考えたって事故なんだから」

 穏やかな瞳がしっかりと僕の目をとらえている。

 ――どう考えても事故。

 そんなはずが無い。と、それまでの一連の現象とこれまでの経験から僕には分かる。しかし澄奈央さんには分からないだろう。

 ――いや、分かったとしても同じふうに言うかもしれない。

 事故でなかったとすれば、下手に関われば僕たちも怪我をするかもしれないということ。だから余計な手出しをするな、と、きっと澄奈央さんなら言うだろう。

 しかし、何故だかこの時ばかりは、僕は返事をせずに病室を出た。



 自動扉が開くと、生温い泥のような熱気と排ガスが全身に浴びせられて、僕は思わず眉をひそめた。

 物化は出口の横に立っていた。僕の姿に気付くと、目を伏せて視線を避けるようにして歩み寄る。

「……鞄」

 傍に立ってそれだけ言う。建物の影で顔はよく見えない。

「澄奈央さんと、何を話していたんだ?」

 息をのんで、僕は質問した。

「……澄奈央が言っていただろう。二年前にクラスメイトが転校した。それだけだ」

「それじゃあやっぱり、あの時幸福プライムの男に言っていたのは――」

「それは……!」

 物化が顔を上げた。目元が少し赤い。

「あの時のことは……。お前には、悪かったと思っている」

 そう言ってまた顔を伏せた。

「……分かった。お前にも話す」

 声が弱弱しい。責めてしまっているようで気分が悪いが、そのまま聞くことにした。


「ちょうど今から二年前くらいになる」

 物化は柱の方を向き、語り始めた。

「彼女とは、中学に入って以来の仲だった。明るくていつも笑っていて、私にもよく話しかけてくれた。そんな彼女が、ある日を境に変わった。表情が硬くなったというか、愛想笑いのような顔しかしなくなった。原因は、彼女の母親が交通事故に遭って入院したことだった。私は彼女に何と言って良いのか分からなかった。その時は、ただなんとなく励ましていただけだった」

 今日で二度目になるからか、物化は言葉を選びながらもほとんど詰まらせずに話す。

「その直後からだ。彼女は妙なアクセサリーを身につけるようになった。金色の鎖の先に石を繋いだキーホルダーだった。彼女はそれを幸福の護石ごせきと呼んでいた。アクセサリーは日に日に増えていった。はじめはこっそりと首に着けていただけだったのが、次第に手首や足首や、髪や、学校の机やペンや筆入れやあらゆる持ち物に着けるようになった。そして――」

 そこで一旦言葉を切る。僕は何も言わずに続けるのを待つ。

「次の月には、彼女は引っ越した」

 更に顔を伏せ、下を向く。表情はもう髪で隠れて見えない。

「……原因を知ったのは、それから何週間も後のことだった。私は彼女が住んでいた家の付近を訪ね、偶然に主婦らしき人からその『噂話』を聞いた。――彼女は詐欺に遭っていた。そのころ彼女は母親の入院に加え、父親が仕事でトラブルに遭い、家では一人でいることが多かった。そして家の金を使い込んで、高価な霊感アイテムを買わされていた。そのことに気付き、呆れた父親は以前よりも家に戻らなくなり、退院した母親は怪我の養生ようじょうのために娘を連れて実家に帰った――らしい」

 抑揚のない声はところどころで掠れ、消え入るようだった。

「机に残されたアクセサリーを調べて、私は幸福プライムのことを知った。よくある霊感商法だ。さしずめ不運なところにつけ入って『これを放っておけば、もっと悪いことが起きる』だとか、手口はそんなところだろう」

「でもそれは、物化さんが悪いわけじゃ」

「だが、アイツは」物化が遮る。「――アイツは私に何も言ってくれなかった。私が、弱くて小さくて頼りないから、何も相談してくれなかった」

 ぎりりと歯ぎしりをして、柱に手をかけ、爪を立てた。

「私が、無力だから」

 まるで絞り出すかような微かな声。

 僕は幸福プライムでの出来事を思い出し、独り合点がいっていた。

 物化にとっては、自分の無力が、何よりも苦痛だった。

 だから物化はあんな表情をしたんだ。

 そして今も。顔は見えないけど、きっと――。

「物化さんは、それで納得するのか?」

 堪らず僕は尋ねた。

「このまま何もせずに、雨妙千森を放っておいていいのか?」

「え……?」物化は顔を上げてかすかに戸惑う。

「僕は、報復ほうふくしたい」

 自分がどうしてこんなことを言い出したのか、分からなかった。

「リベンジだ。物化さんだって、あんな妙な目に遭わされて、何も言えずに終わっていいのか? 大人しく誰かに任せて、黙認してしまってもいいのか?」

「それは……。けど、澄奈央が」

「そんなこと、どうだっていい!」

 物化が目を見開いて驚いている。僕だって驚いている。言っていることが、もう無茶苦茶だ。

「僕は物化さんが――物化さん自身が納得していないなら、それに協力したい」

 言って、鞄を押しつけるように返す。

「情報は集める。だから何か手が無いかを考えよう。澄奈央さんが学校に戻るまでにあまり時間は無いだろう。決行は明後日だ。もし物化さんが何か思いついたら僕は協力するし、面倒な事でも引き受けるから」

 僕は顔も見ずにそうまくし立てて、回れ右をしてその場を後にした。




 少し歩いて、病院の裏の川に出た。

 流れは静かで、カモやが中洲のそばで群れていた。少し離れたところではサギが立っていて、対岸には散歩の犬と人がいた。川原の土手に降りて立ち止まると、遠くの山林から蝉の鳴く音が小さく聞こえた。

 特にこの場所に用は無い。けれど、駅に向かう方面だと物化に見つかるから、それは避けたかった。

 一度大きく深呼吸をしてから、僕は携帯電話を手に取り、間島さんの番号にかけた。

「――俺だ」2コールで間島さんは出た。「何か、困ったことでも起きたか?」

「実はその、聞きたいことがあるんですけど」

「分かった。今は、もう家か?」

「いいえ、えっと、市民病院の近くです」

「ならば、すぐに君のもとに向かおう。病院の裏に川があるから、その近くに来てくれ」

 言い終えると、電話が切れた。


 十分もたたずに、間島さんが自転車に乗って現れた。

 僕の姿を見つけるとブレーキをかけ、スタンドをおろして階段を下りる。

 服装はカラスのように上から下まで真っ黒で、それに学校にいるときと同様の魔法陣と数珠と銀のブレスレットを身につけている。

「待たせて悪かった。さて、早速さっそくだが話を聞こう」

 階段を降りきる前に間島さんはそう尋ねた。

「あ、はい」

 話したいことは整理していた。必要なのは情報だ。

「雨妙千森についてです。彼女が何者で、どんな能力ちからを使うのか教えてください」

 尋ねられることを予期していたのだろう。「やはり、そうか」と間島さんは手のひらを顔に近づけ、指先で額を触れるようなしぐさをする。

「良いだろう。俺たちにそれを隠す義務は無い」

 手をおろして軽く辺りを見渡し、体を川の方へ向ける。

「彼女は、『妖怪ようかい』だ」

「よ……妖怪……?」身構えていたにもかかわらず聞き返してしまった。

「それって……、あの、ネコマタとか、イッタンモメンとかの……?」

「無関係ではない。それらの迷信は人間の認知に深く関わった要因を持つ。いわゆる『見間違え』は認知に起因する現象であり、それは妖怪の本質でもある」

 僕は早くも混乱しかけていた。だが間島さんは、まるで教科書でも読み上げているようにすらすらとそれを語る。

「彼ら妖怪は『他者の認知を操っている』かのように振る舞う。従って、能力を発揮しているときの彼らの振る舞いは、本人以外にはまるで予測ができない。すなわち妖怪は、『物理法則を無視する』能力を有しているといえる」

「ま、待って下さい。それって精神操作とか、そういうものじゃないんですか? どうしてそれで物理法則を無視するだなんて、そんなことになるんですか?」

「人間は物理現象以外のものをほとんど認知できない。見えるもの触れられるものは物理法則に準じており、そうでないものは見えず触れられず、ほとんどが認知できない。逆をいえば、それゆえこの世界には物理法則というものがあるように見える。

 妖怪は認知を操り、人間の認知を逃れる。それはほとんどの場合で、少なくとも人間にとっては、物理法則を無視することと同義だ。ただし、人間が認知する現象は必ずしも物理法則を守らない。原因は様々だが、それが一般に幻覚と呼ばれるものだ」


 淡々とした低い声は、少しでも気を抜くとお経にしか聞こえなくなってくる。

 脳が思考を放棄しだすのを抑え込むように、僕はこめかみのあたりを押さえた。そうして出口を失った思考回路の中で、千森に会ってからのことがぐるぐると何周もループする。

「続けていいか?」

「……お願いします」

 何とか答えると、間島さんは「そうか」と言い、続ける。

「マグナが保有する情報によれば、妖怪は能力を発揮するほど、あらゆる対象に認知されにくくなる。物理法則を無視するほど、影が薄くなると言い換えても良い。そして並外れた高い身体能力を持っている場合が多い。これは、彼らが意識せずに微弱な能力を発揮しているためだと考えられている」

 確かに――。ファミレスで気配もなく近寄られていたこと、その後誰にも見られずに店内から消えたこと、鬼ごっこで希未と互角にやり合ったこと、高さ4メートルもの跳躍をすること、そしてその瞬間を見逃してしまうこと。――全てが間島さんの語る「妖怪」の特性で説明がつく。

「また幾つかの調査報告では、妖怪の能力を目の当たりにするとき、稀にその人間は、この世のものとは思えぬ幻覚を見るそうだ」

「あっ――」

 その瞬間に、記憶からあの光景が掘り当てられる。真赤い髪と、金色の目の幻覚だ。

「なるほど」間島さんがこちらの様子に気付き、再び対岸を見た。「やはり彼女も、妖怪として君に接触を図ったわけか」

「それは、どういうことですか?」

「君が引っ越してくるまでは、俺は組織から正体を隠すように言われていた。しかし後になって、自分から正体を明かすよう指示された。理由は知らされていない。他の組織がどういった方針なのかも聞かされていない。だが、結果的には良い方へ作用したと俺は考えている」

「どうしてですか?」

「それは……」

 間島さんの言葉が止まった。どうしたのだろうか。

 顔をやや俯けて、右手で左手のブレスレットを触り、長身を周期的にゆらゆらと揺らす。

「……それは、」二十秒くらいの間の後に、ようやく口を開いた。「君には、俺のことをより理解してほしかった……からだ……」

「えっ?」

 語尾が聞き取れず、僕は一歩進み出て表情をうかがおうとした。が、覗きこまれると即座に顔をそむけられた。

「い、いずれにせよ」間島さんは僕に背中を向けて、腕を組む。「君が少し、気を取り戻したようで良かった。直接力になれなかったのは残念だが、君の元気が一番だ」

「はあ……」

 耳元が少し赤くなっているように見える。夕陽のせい――ではなさそうだが。

「ところで、前と比べて僕の元気が無いように見えたのって、いつ頃からですか?」

「二週間前……だな」

「僕と間島さんの初対面も、二週間前ですよね?」

「……そうだな」

 そうだなって……。

「初めて会話をしたのは二週間前だが、君のことは当然、それ以前からよく見ていた」

「そう、だったんですか。それなら、もっと早く会いに来てくれても良かったのに」

「……何も用事が無いのに接近するのは、その、失礼ではないか?」

「失礼って、そんなこと無いと思いますけど。僕の方が後輩ですし」

「……そうか」

 言って、間島さんは目もくれず早足で自転車のある方に戻っていく。

「あ、あの!」

 声をかけると、自転車に手をかけてようやく止まった。

「今日はありがとうございました。それと昨日のアドバイスも。これからも、今回みたいに話聞いてもらって良いですか?」

「無論だ」間島さんはくるりと振り返り、また手のひらを顔に近づけてポーズをとる。「君の頼みとあれば、マグナは可能な限りの支援をするだろう。そして、俺自身も。君のためならば、世界をも敵に回そう!」

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