⑥敗走
僕たちはすぐに澄奈央さんに駆け寄った。
足から着地したものの、勢いのまま肩から前のめりに倒れ込んで、すぐには起き上がれない様子だった。
物化が顔を青くして何度か呼びかけると、澄奈央さんはようやく少しだけ体を起こし、右手で左肩を抑えて引きつった笑顔を見せた。
千森は、もう体育館にはいなかった。
青くなっていた物化は下を向き、今度は赤くなって勢いよく立ち上がり、澄奈央さんの制止を振り切って体育館の外に走っていった。
僕はなんとか自分を落ち着かせて、立てるかどうかを尋ねると、澄奈央さんは考えるように唸って自分の右足首を見た。
「ちょっと、無理かも」
そう言ってまた笑顔を作って見せた。痛みを我慢しているのか、それとも落下のショックなのか、声がかすかに震えている。
「私は一人でも大丈夫だから。和くんは、保健室のサトミ先生を呼んできてくれる?」
「……分かった」
返事をして立ち上がると、希未が見当たらないことに気づく。
一体こんな時にどこに行ったんだ。澄奈央さんがこんな目に遭ったのは、希未にも原因があるっていうのに……。
ぶつくさ言いながら急いで体育館から出ようとすると、
「待ってください」
倉庫の方から声がした。見ると、希未は手に細長い鞄のようなものを持っている。
目立つオレンジ色の袋には、手書きで大きく「担架」と書かれていた。非常用の折り畳み式担架だ。
「ここから東校舎の保健室までは距離があります。真白先生を担架で運びますので、手を貸してもらえますか?」
「あ……分かった」
僕が答えると、すぐに袋を開いて担架を組み立て始める。
「希未さん」
「はい?」希未は手を止めずに答える。
「ごめん――じゃなくて、ありがとう」
希未はこちらを見ない。
「……いいえ、謝らなければいけないのは私の方です。私が彼女を追い詰めなければ、あるいは初めから彼女の申し出に乗らなければ、真白先生が怪我をすることもありませんでした」
「そんなことない」
そう言うと、希未は動きを止め、振り向いた。
「ありがとうございます。和義さんがそう言ってくれるのなら心強いです」
そして微笑んだ。
「さあ、早く先生を運びましょう」
澄奈央さんを保健室まで運び届けると、時間はちょうど昼休みが終わるころだった。
あとは体育館の鍵を職員室へ返し、僕たちは教室に戻った。
途中に1年4組の教室を見てみたが、物化はまだ戻っていないようだった。
そして、物化は午後の授業に現れなかったそうだ。
才氣たちの話によると、昼休みが終わってから二年生の教室の近くを歩いていたのを、先生に見つけられて注意されていたとか。
授業を終えて再び保健室に行くと、既に澄奈央さんはタクシーで駆けつけた伯母さんによって病院に運ばれたことを知らされた。そして、授業時間中に訪れた物化にもそれを伝えたところ、物化はそのまま走って出て行ったという。
結局、それから一度も教室に戻らず、物化は荷物を残したまま姿を消した。
僕は才氣と御言と希未と手分けをして校内を探したが、物化はどこにもおらず、携帯電話にも出なかった。自宅の電話でも連絡が取れないようで、数名の教員が学校に残った生徒に対して聞き込みをしていた。
結局のところは、物化は自宅に帰っていた。居留守をしていたのだ。下校時刻ギリギリになって、物化の家族から学校に連絡があったらしい。
「まったく人騒がせな奴だな」
下校時刻の鐘に追い出され、西門を出たところで才氣が言った。
「けど家に帰ったっても、アイツ無鉄砲そうだからな。またすぐその二年生を探しに飛び出したりするんじゃないか?」
「どうでしょうか。物化さんはあれで生真面目な方です。今回は多少カッとなっていましたが、そうそう無計画に夜歩きや不登校のような真似をするとは思えません」
希未がそう言う。確かに、普段の物化は優等生ではないが決して不良というわけではなく、むしろ生真面目と言っていいタイプだ。
「頭を冷やしさえすれば、きっと何かしら報復の策を立ててきますよ。やられっぱなしで終わらせるような物化さんではないでしょう」
「そうだよ。だって、物化ちゃん凄いんだよ。前に現社でテストの答案返されるとき、先生に『そんな数字で恥ずかしくないのかー?』って言われたらしいんだけど――」
続いて御言が似てないモノマネを交えながら話す。
「そしたら物化ちゃん、『何を言うか! 28は完全数で調和数で、原子核のマジックナンバーなんだぞー!』みたいなこと言って反論してたんだよ」
「いやいやいや、それは全然褒めてないだろ」
そして才氣がそうツッコミを入れた。
「三人は、ちゃんと物化さんのことを見ていたんだな」
「え?」御言が驚いて僕を見た。
唐突だったか。変なことを訊いてしまっただろうか。
「それは、だってクラスが一緒だし」
すぐに御言は笑って言った。
「まあ、普段お前と一緒にいれば見る機会も多くなるさ」
「そうですよ。もちろん、私は和義さんのことならもっとよく見ていますけど」
「なんだよ! 俺だってそうだぜ。お前だけポイント稼ごうとしてんじゃねー」
そんなやり取りを見て、僕はどんな表情をしていただろうか。
穏やかではなかっただろう。
「――そうだね」
物化にはもう友達がいる。だから僕が物化を気遣う筋合いなど、既にもう無いのだ。
家に澄奈央さんは戻っていなかった。
伯母さんが言うには、澄奈央さんの怪我は足首の捻挫と数カ所の打撲程度だったそうだが、伯父さんがどうしてもと言って近くの市民病院に入院させたらしい。伯父さんの過保護っぷりは話では聞いていたが、それでも捻挫で入院というのは流石に驚いた。
夜になって部屋に戻ると、部屋の明かりがいつもより暗く感じて、ベッドでぼんやりと天井を眺めていた。
そのとき、机に置いてあった携帯電話が騒がしく鳴った。
こんな時間に誰だろう。見ると、画面には間島さんの名前が表示されていた。
「もしもし、」
キーを押して通話に出る。
「俺だ。――間島豊仁だ。今は大丈夫だろうか」
僕は「はい」と返事をした。特に断る理由が無い。
「何か用事ですか?」
「二点ある。まず、昼間の件だ。どうやら真白先生が怪我をして入院したそうだが、君は無事だったのか?」
「僕ですか? 僕は全然、何ともありません。ただ物化さんが……」
「生地物化か。彼女はその後に早退したそうだったな。報告は無かったが、まさか彼女も怪我を負ったのか?」
「いえいえ、そうじゃないんですけど」
慌ててそう答えると、間島さんは「そうか」と言って安堵した。
「彼女は本来、例の件とは無関係の人間だ。君が自由な交友関係を持つことに何も問題は無いが、それとは別に、一般人はこの件に深入りさせるべきではない。というのがマグナの見解だ」
「無関係……。完全に――ですか?」
「そうだ。彼女自身もその親類も、関係組織や団体には一切関わっていない」
「そう、ですか」
当たり前か。僕は何を聞いているんだか。
「もう一点だが、」
間島さんは一息おいて続ける。
「君の悩みを聞きたい」
「はい?」思わず聞き返した。
「最近、君は以前よりも元気が無いように見える。昼休みに教室外を出歩いていないし、今月に入って三回も普段とは違う電車に乗っている」
「……え? そうなんですか?」
自分でもそんなことは覚えていなかった。というか、どこからそんな情報が……。
「君に課された使命は重大かつ、非常識だ。だが、マグス・マグナほどその『非常識』に長けた組織は無い。マグナの蓄積してきた情報は、きっと君の疑問を解消する手助けになるだろう。相談なら、何でも遠慮なく言ってくれ」
プライバシーの侵害は確かに非常識だが。
「――それじゃあ、一つ良いですか?」
「ああ」
「物化さんと話をするために、僕はどうするべきですか?」
「……。彼女と、話を……」
間島さんの言葉が止まった。
「それは……その、争奪戦に関わる重大なことなのだろうか?」
「え? いや違います。だって、無関係なんですよね?」
「そうか。そうだな…………」
そう言い、再び数秒沈黙する。
「話――ならば、まずは相手を話し合いのテーブルに着かせることだ」
「ええと、そうですかね……?」
「差支えが無いのなら、円滑な進行とトラブル防止のために、間に信頼できる第三者を挟むと良いだろう。そして話をする前には、あらかじめ双方がその第三者に判断を任せると約束しておくことも重要だ」
「あの、僕はその、話と言っても日常会話みたいな感じの……」
「そうか……」
残念そうに声のトーンが下がった。なんだか分からないが申し訳ない気分だ。
「どうやら力にはなれないようだ。大口を叩いて済まなかった」
「い……いえいえ、そんなことないですよ!」
そうだ。間島さんの言うことが正しいかもしれない。
二人で話ができないのなら、誰かにそれを仕切ってもらえばいいだろう。今のところ、その第三者に適しているのは一人しか思い浮かばない。
「心配してくれてありがとうございます」
言うと、間島さんは少し間をおいてから、「遅い時間に済まなかった」と言って電話を切った。
物化を席に着かせ、話を聞かせる第三者。それなら澄奈央さんが適任に違いない。
ならば、僕のするべきことは明らかだ。明日の放課後に物化を澄奈央さんのお見舞いに誘えばいい。
僕は物化にメールをして、それから伯母さんに澄奈央さんの病室などを聞いた。
三十分ほどして物化からの返信が来た。
件名はそのまま『Re:澄奈央さんのお見舞い』、本文は『行く』という二文字だけだった。
愛想が無いのは普段通りというべきか。とにかく、実に半月ぶりの物化からのメールに、僕は少し喜んでしまった。それがたとえ澄奈央さんに会うために仕方なく送られたものだとしても。




