⑤落下
ドンと後方で音がして、床がわずかに振動した。
反射的に振り返ると、千森は反対側のコートに立っていた。
――今のは、着地の音……?
「……あり得ません……。4メートル――いえ4.2メートルも跳ぶなんて……」
希未が珍しく驚いている。対して僕は、転んだ痛みのせいか妙に冷静だった。
「4メートル……ああ、でも幅跳びなら助走があればそのくらい――」
「何を言っているんですか、和義さん、」
あれ? まあ、確かに普通なら助走無しでそんなに跳べるはずはないと思うけど――、
「高さ4メートルです。彼女が跳ぶところを、和義さんも見たでしょう」
「…………そうなのか」
――やっぱり、千森は僕や物化や希未を飛び越えて、反対側のコートまで行ったということか。
「高さ4メートルまで到達するためには、時速40キロほどの初速度が必要になります。そんな跳躍は、人間には不可能です」
「ええっと――、つまり、あの子は人間じゃない?」
「いいえ。落ち着いてください」
希未は諌めるように言う。
「この地球上にいる人間は、皆似通った体組織を持った人だけです。彼女の体重は恐らく30キロ程度ですが、人の筋繊維に、30キロもの物体をあれほど瞬時に時速40キロまで加速をさせる能力はありません。それは私が保証します」
そりゃあ、この学校に人間そっくりの宇宙人がいるとは思わないけど。
「だけど、実際には跳んだじゃないか」
「はい。ですから、何か仕掛けがあることは間違いありません。それが分かれば――」
「おい、」
物化が息を整えながら言う。
「お前は、確か、目分量が得意だとか言っていたな」
突然の問いに、希未は「はい」と即答する。
「なら、ジャンプの初速の大きさと角度は瞬時に把握できるか?」
「――ああ、なるほど。流石は物化さんです」
そして納得したように腰に手をやる。
「任せてください。およその空気抵抗も加味できますから、人間程度の大きさならば十分な精度で算出して見せましょう」
な……何を言っているんだ……?
「落下位置ですよ。それを私が予測するので、お二人にはその位置まで移動して彼女が落ちてくるところを捕らえてください」
「それは、あの子が着地する位置が分かるってこと?」
「はい。初速の大きさと方向さえ分かれば、地面を離れた時点でおよそ落下位置は計算で導き出せます」
「そんなことが……」
……出来るかもしれない。
以前に希未は、床の沈み込み量と加速度から僕の体重を割り出している。それもかなりの精度で。だけど……
「――和義さん? もしかして、彼女について何か知っているんですか?」
「い……いや、全然……」
何も知らないし、分からない。
「そうですか。まあ、彼女がどんな技を使うのかは未知数ですが、この世界にいる限りは、彼女にもまた物理法則に従ってもらわないと困ります。反重力なんて幻想ですから」
「そう、なのか……?」
だが希未の言葉に、僕はいっそう不安を覚えた。
――「この世界」。
それは一体、どの「世界」?
「おーい、もうおしまいかー?」
千森が手を首の後ろに組み、待ちくたびれた様子で尋ねる。
希未と物化が視線でそれに応え、またこちらを見る。
「おそらく相手は反対側のコートまで飛びます。滞空時間が一秒以上はあるので、距離をとらなければかえって不利ですから。落下位置は反対側のコートを9つに分けて、ネットに近い方から1・2・3、ネットに向かって左からA・B・Cの座標で知らせます」
片面が9メートル四方だから、範囲は3メートル四方まで絞られるわけか。確かにこれなら二人で両手を伸ばせばカバーできる。
「奴を追い詰めるのは?」
「それも私が一人でやります。ですから、捕まえる方はよろしく頼みますよ」
言って、希未は再び千森を追う。
その動きはより速く俊敏だが、千森は避け続けている。それでも、先ほどまでよりも余裕が無いように見える。身体能力で言えば互角と言ったところなのだろうか。
とはいえ二人の体格には大きな差がある。身体能力が同程度なら、短期戦ならば手足の長い希未が有利だろう。
「そこの二人はもう諦めたのか?」
「あなたを捕らえるくらいなら、私一人で十分です!」
僕たちが遠巻きに構えていたところへ千森が接近するが、すぐに希未に追いやられる。
というか、二人とも体力は無尽蔵なのかよ……。
以前にここで競争をしたときには、希未も最後の方は疲労しているように見えたが、ひょっとしてあれも演技だったのだろうか。走っている途中に僕が三十問目を解けないと見抜いて、あえて勝たせて僕にも勝機があるように思わせ、最終問題の勝負に乗ってくるよう仕向けたのではないだろうか。
……やりかねない。きっと希未は恍けるだろうから、今となっては確かめようも無いけど。
「おっと、」
千森はフェイントをかけてまた避ける。
しかし希未はそれを先読みしていたように逆方向へ転回し、角の近くのライン際に追い詰める。
跳んだ!
千森の姿が消え、希未は後退しながら天井を仰ぐ。
「『1B』!」
透る声でそう叫んだ。
場所は最前列の真ん中。既に僕が立っている位置だ。
すぐに物化も走ってきている。
上に、落ちてくる千森の姿が見――
――よく見えない。いやにおぼろげだ。
今にも見失いそうだ。
目が合う。
金色の目が。
燃えるような紅い髪が。
この世のものとは思えない。
「くくっ」
笑ったように感じた。
視線の先の、誰も居ない空間が。
コートの端の、出入り口から一番近い場所。
希未が立っているのとは対角の位置。座標は『3A』。
「いやー、危ない危ない。まさかそんな作戦だったとは」
そこには千森が先ほどと何ら変わりない様子で立っていた。
「貴様、今っ――」
物化は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
――「消えた」と、言うつもりだったのだろうか。やはり物化にもそう見えたのか。
「もう一度、試してみますか?」
「それは……、勝算があるのか?」
僕がそう訊きかえすと、希未がやや険しい表情をする。
「どうでしょう。いかにして彼女を見失うのか、時間があればもう少し分析が出来るかもしれませんが、残念ながらもうあまり残されていないでしょう」
「時間が?」
昼休みだったらまだ半分以上は残っているはずだが。
と、そう思った矢先だった。
「そこで何をしているの?」
澄奈央さんは少し強い口調でそう言って、上履きを脱いで館内に上がる。
「鍵が忽然と無くなって、職員室ではちょっとした騒ぎになっているの。あなたたち四人は、何があったか説明できるかしら」
「違う!」
真っ先に物化が否定する。そして千森を指さす。
「そいつが一番に体育館に来ていた。私が来た時には、鍵は既に開いていた」
澄奈央さんはその様子を見て、何も言わずに千森に歩み寄る。
「あなたは、授業で会ったことがないから、上級生よね?」
「二年の雨妙千森だ」
「雨妙さんは、鍵がどうしてここにあるのか知っているの?」
「そりゃあ、私が職員室から持ってきたからな」
悪びれずに答える。対して澄奈央さんも動じない。
「なら、どうしてこんなことを?」
「どうしてって……うぅん、そう言われてもなぁ……」
千森は頭を掻いて口ごもる。
その時、
「構えてください」
後ろから声がして、希未がすぐ横を風のように駆けた。
真っ直ぐ千森の立つ位置まで。
瞬間遅れて千森が気付く。
そして、澄奈央さんの腕を掴んだ――?
もう手は届く。だが駄目なのか。希未が身をよじって急転回をする。
「――えっ?」
その一瞬、まるで硬直したように見えた。
希未は驚愕している。
見開かれた瞳の仰ぎ見る、その先には、宙に舞う大人の女性の姿がある。
「澄奈央さん!」
足が咄嗟に動かなかった。
身をよじって、何とか目に捉えた。
そして重力に引かれるままに、澄奈央さんは落下した。




