②この世の体積
そうしているうちに、店員の一人がこちらに歩いてくるのが見えた。
「失礼します。こちらが南国アップルマンゴーパフェになります」
言って、歳の近そうなウエイトレス姿の女性が、トレイから背の高いグラスを女の子の前に置いた。そして伝票をアクリルの筒に差し込んで、軽く会釈をして戻って行く。
「――これは?」
「さっきレジのところで注文した。散々迷ってしまったな。あの『三種のベリーパフェ』とかいうのが捨てがたかった」
そう言って女の子は、背後の壁にあるポスターを指さした。そこには毒々しいまでに赤々としたパフェの写真が張られ、その下には「クランベリー・ラズベリー・ストロベリーで彩る夏のスペシャルメニュー」とある。
「あー……、やっぱりあっちのにすれば良かったなー。これはどうにも甘いだけだ」
柄の長いスプーンですくい出し、いくらか頬張ってから女の子はそう言った。……結局、この子はただパフェを食べに来ただけなのか?
「――しかしなぁ」
スプーンを口から抜いて机に肘をついた。
「まったく、最近のお前はとんと面白くないじゃないか」
そしてクリームのついたスプーンでこちらを指し、不満そうに言う。なんて態度のデカいストーカーだ。
「どうした? 何か悩みでもあるのか? それとも単に欲求不満か?」
「あの――残念ながらね、僕は君みたいに、素性も分からない子供に明かすような悩みは持ち合わせていないよ」
素性どころか年齢もよく分からない。黒目がちの目に低い鼻、柔らかそうな頬。顔立ちと背格好はどう見ても小学生だが、態度や口ぶりは――その内容はさておき、かなりしっかりとしている。
「おっと、調査の途中だったのか。これは悪かった」
しかし、相手がこんな態度なんだ。近年は小学生への接触に対して、社会からの監視の目が一層厳しくなっているとのことだが、この際臆せず訊いてみるべきか。
「それじゃあ、名前は?」
「なんだ? そんなことで良いのか?」
女の子は意外そうに言う。いや、普通初めに訊くだろう。
「まあいい。私の名前は雨妙千森だ」
「千森ちゃんか。――歳は?」僕は続けて問う。
「ふむ……、10歳以上ではあるな」
どうして曖昧なんだ……。
「学校には通っているんだろう? 学年は?」
「高校二年だ」
「……は?」
思わず聞き返した。
今、何と言った? 高校二年?
「真面目に答える気は?」
「疑ってるのか? 確かに私は日本の普通教育を受けてないが」
「普通教育を――って、なに?」
日本の義務教育を受けていない? というと、アレなのか? 漫画やアニメでよくある、海外で飛び級して来た天才少女的な。この女の子――千森が、そのエリート帰国子女だということなのか。
……どうりで日本語が通じないわけだ。というのは冗談としても。
「どうした? 何をそんなに驚くことがあるか?」
「――ああ、えっと……世界は広いな。って、思って……」
僕はそう、自分を落ち着かせようと月並みなことを言った。しかし少女はまだはるかに想定外で、規格外であった。
「世界が広い? 何を言ってるんだか」
千森は笑う。
「だって、世界なんて狭いに決まってるだろう」
気づけば大分陽が傾いて、窓際のテーブルが淡い山吹に照らされている。
「せいぜい2リットルかそこら、どれだけ多く見積もっても60リットルか、その程度だろう?」
クリームを口元に付けながら千森は言う。
「……何が?」
「世界が」
「世界が? それなら、そんな世界はうちの湯船にも簡単に収まってしまうな」
「そりゃあ、そうじゃなきゃ風呂にはゆったり入れないし」
世界が風呂に入るのかよ。銭湯で会えば裸の語り合いが出きるのか?
真面目に答える気が無いのかと、再度尋ねる気にもならない。
「あー、確かに、君みたいな国際人にとっては世界が狭いと感じられるのかもしれないけど、」
「私は関係ないだろう。お前のことだ」
「僕のことって、それはどういう意味なんだ?」
「簡単なことだ」
問いに対し、千森はパフェをつつきながら答える。
「お前が見る世界、認識する世界は、ほとんどがお前のその2リットルに満たない脳が勝手に作り上げている。でも脳に刺激を与える神経は全身に張り巡らされてるから、全身の神経が世界を作っているとも言える」
今度は何の話だ? 脳の体積?
「お前の体重は、70キロも80キロも無いように見えたが、ひょっとして着やせするタイプなのか?」
「いや、そんなことはないけど……」
体重――つまり、60リットルというのは、僕の身体の体積のことなのか?
「だからって、『世界』が60リットルなわけがないだろう。僕が見ているものは、僕の外にあるから見えるわけで、」
「それは違うぞ」
千森が遮るように言う。
「お前は物を見ているのでなく、ある刺激を受け取った脳が、そこに物があると思い込んでるだけだ。世界だって同じだ。全て、ただの刺激があるだけだ」
「はぁ?」
「刺激を生み出すのは何でもいい。お前の言う『世界』なんか無くてもいい。だからお前の世界は、お前の神経の中だけで全て完結している『思い込み』だ。お前の認識はお前だけのものであって、お前以外の何の証明にもならないわけだ」
「い……いやいや、そんな馬鹿な。みんな僕と同じものを見て、同じ地面に立っているだろう? それは世界があるからだ」
「ほー、面白いことを言うな。じゃあ、それはどうやって証明しようか。証言じゃあアテにならないから、誰かと目玉を交換するか? ああ、それなら視神経と視覚を作ってる部分の大脳も入れ替えなきゃいけないな。こりゃあ大変だ。顔面ツギハギの医者が何人必要になるかな」
そしてまた千森は笑った。
僕は足元がぐらつくような気がして、無意識に机のふちを掴んでいた。
何が何だか分からない。ひょっとして馬鹿にされているだけなのだろうか。そう思うと、物化みたいにキレたりはしないが、いささか腹が立つ。
――というか、帰ってくるのが遅くないか?
「連れの女が心配なのか?」
「なに?」
「うん? 私の見間違いでなければ、ここにはもう一人誰かがいたはずだが」
「……いたけど、どうしてそんなことを訊くんだ?」
「ま、トイレの故障か何かじゃないか? 配管が詰まったとか」
考えてみれば――僕は急に不安になった。
目的は分からないが、席にいた物化の姿を見ていて、わざわざいないタイミングを見計らってこの席に来た。ということは、物化に知られることが何か不都合なのだろう。
となれば物化が遅い理由は、どこかで足止めされているか、あるいは拘束されて――
「おいどこへ行く?」
居ても居られず千森の声を無視して席を立った。
トイレはレジ前を通ってこの席の対極の位置にある。レジは店の唯一の出入り口の前にあり、必ず誰か立っているから不審者がいれば目撃情報もあるだろう。
僕は千森を警戒しながら席を離れ、動きが無いのを見てトイレの方へ急いだ。
「物化さん!」
「――っ、な……なんだ?」
そしてレジの前で、ハンカチで手を拭いている物化に鉢合わせた。
「何も……されなかった?」
「はぁ? お前は一体何を……?」
物化はそう言って眉をひそめた。
この反応は――、僕の思い過ごしだったのだろうか。
「いや……その、さっき席に変な女の子が来て……」
「女の子?」
物化がレジの前を通って、席の方を見た。
「――席には誰もいないぞ」
「え?」僕もすぐに振り返った。
席にはつい今まで千森が座っていた。
出入り口はこのレジの前にしかない。
目を疑う。目を擦って、今一度見る。
女の子も、パフェのグラスも、そこには存在しなかった。
「そんな――」
馬鹿な! それなら、あの女の子は? 白昼夢か何かだって言うのか!
テーブルに駆け寄り、アクリルの筒から紙を抜き取る。
僕はほっとして、また大きな疑問がわいた。
「――夢じゃ……無いのか……?」
残された伝票には、「南国アップルマンゴー」の文字が確かに印刷されていた。
伝票以外にも千森がいた痕跡は残っていた。
パフェを運んだ店員は千森のことを覚えていて、レジにいた店員も驚いていた。しかし状況を店員に正直に伝え、僕たちがグラスを隠し持っていないことを説明すると、グラスが消えたことについては特に請求されなかった。
また、どういうわけか机からは物化のノートも無くなっていた。
あとから店長を名乗る四十代くらいの男性が出てきて、僕はまた同じ説明を繰り返したが「不思議なこともあるものですね」と、あまり納得したふうには見えなかった。しかし見たままを正直に話しているのだから仕方がない。そうこうしているうちに陽も傾いて、僕たちは混雑する前に店を出た。
駅まで歩いて行く間も会話は無く、この日は結局別れの挨拶くらいしか出来なかった。




