⑥C3H5N3O9
「そこのお前は、俺が逃げるまで一切動くなよ。少しでも動けば、コイツの命は無いと思え」
男は間島さんを特に警戒しているようだった。魔術について知っているのかどうかは分からない、偶然なのかもしれないが、その判断は正しい。
間島さんは恐らく、僕を傷つけることは何としても避けようと考えるだろう。
魔術は手を使わなければ正確に狙いを定められないと言っていた。だからこのまま、男が僕と接近しているこの状況では間島さんは魔術を使えない。
「そこの女」男は次に物化の方を向く。
「お前はすぐに車を用意しろ。近くの民家でもなんでもいい。頼み込んで持ってこさせろ。10分以内に用意できなければコイツは殺す」
言われた物化は膝をつき、男を睨み上げる。しかし男は動じない。間島さんへの厳しい態度に対して、物化のことは随分と甘く見ているのだろう。
だが確かに、いくら油断していたとしても、今の物化にできることは無い。
ナイフの刃渡りは10センチ程度だが、それでも刃物の殺傷力は決して侮れない。そうでなくとも体格差があるのに。何か強力な武器でもない限り、この絶望的なディスアドバンテージは決して覆されない。
「逆らっては……駄目だ。ここは大人しく言うことを聞いてくれ」
僕はそう顎を上げたまま言う。
くそう。僕が注意を欠いていたばっかりに、沢山の人に迷惑をかけてしまう。
せめて、今ここにいる二人だけでも無傷で済ませないと……。
「オイ、早くしろよ」
男はそう言って急かす。
物化は、その場でゆっくりと立ち上がり、
「…………しろ」
間島さんに向かって何かを言った。
「何グダグダしてんだ! 早く行って来い!」
男がしびれを切らすが、物化は答えずこちらに一歩踏み出した。
その手には、僕がデスクに置いていたはずの、水入りのペットボトルが握られている。
「C3H5N3O9」
唐突に物化がそう言う。
「はぁ? いきなり何言って――」
「通称ニトログリセリン。常温では無色透明の液体である有機化合物だ」
男の威嚇に微動だにせず物化は続ける。
「これはダイナマイトの原料として知られる非常に強力な爆発性物質だ。ニトログリセリンは化学反応をする際、元と比べて膨大な体積の気体を非常に短い時間で発生させることができ、それによって強烈な爆風や衝撃波を生じさせることができる。
爆破の威力は同質量のTNT火薬のおよそ1.5倍。ほんの数滴でガラス製のビーカーを粉々にでき、試験管に溜めるほどの量があれば持っている人間の腕ごと吹き飛ばすこともできる」
言うと、物化は、ゆっくり、ペットボトルをこちらに見せた。中には水が3分の2ほど入っているが……、まさか――
「まさか、それがそのニトログリセリンだとか言うんじゃねえだろうな?」
男が嘲笑気味に言う。物化は答えない。
「おいおい、流石に馬鹿にしすぎだろ。そんなもん、どう見たって――」
「ニトログリセリンには!」
男が言うのに被せるように物化は声を張る。
「――熱や衝撃に非常に敏感という性質がある。緩衝剤を用いていないニトログリセリンは、ほんのわずかな熱や衝撃、摩擦などにより反応を開始し、たちどころに爆発する。そう、例えば――」
物化は静かにペットボトルのフタに手をかけて、開ける。そして水面を水平に保ったまま、ゆっくりと傾けていく。
「たった数滴、この高さから落としただけでも、その爆発は容易に起こる」
そして傾けられたボトルの口から、床材の剥がれたコンクリートの上に、吸い寄せられるように落ち、
液体は、音を立てて弾けた!
「なにぃ!?」
信じられないといった様子で男は驚愕する。
それは僕も同じだ。ペットボトルの中身は確かに水のはずだ。
なのに、落ちた液体は確かに弾けて煙を上げた。そしてどこかから微かに焦げたような臭いが漂ってきている。
一体何がどうなって――?
「な……何を――?」
物化はペットボトルをさらに頭の上まで持ち上げる。
そして、
「――いくぞ」
おもむろに、静かに、ボトルをこちらに向けて投げた。
ボトルはわずかに回転しながら、緩やかなカーブを描いて真っ直ぐこちらへ――。
「うわあぁぁ!!」
男が身をよじる。
ナイフが首元から離れた。
「今だ!」物化が叫んだ。
そうか! これは、男に隙を作らせるために!
「分かった!」
僕はそう返し、ナイフを持った男の右腕を自分の右脇に抱え込み、両足を屈伸させて思い切り後ろへ跳ぶ。バランスを崩していた男は僕の背中に押されて壁に叩きつけられる。
その衝撃で男の手が緩むので、すかさず両手で男の手をこじ開けてナイフを奪う。
ナイフは折り畳み式のものだが、柄にはしっかりと重量がある。これなら十分に打撃を与えられる。僕は一歩前に出て振り返り、右手にナイフを持ち、その柄頭で男の頭を殴打する。
「あぎぃ!」
男が悲鳴を上げて怯む。もうナイフはいい。
僕はナイフを床に投げ捨て、右手で男の左の襟を、左手で男の右肩を掴み、後退して引き寄せる。
そして左足を後ろに、重心を下げ――、
男の体重を腰に乗せて一呼吸で投げる。
「がはぁっ!」
男は背中から床に叩きつけられ、肺から息を押し出す。
このまま、あとはうつ伏せにして制圧できれば――と、その時、
「――あぁ! 熱い! 熱い! あぁあぁぁ!」
「な……なんだ?」
男がバタバタと身をよじらせ、背中を反らせる。僕は手を離さないようそのまま捕まえていると、男は数十秒もしないうちにがっくりと気を失った。
それから間島さんは延長コードで男の手足を縛り、さらに柱に縛りつけた。
「すぐにマグナの人間が駆けつける」
そう言うので、男を残して僕たちは建物を出た。
自由時間は残り30分を切っていたが、走らなくても早足で戻れば集合には十分に間に合った。
「今日は、君を危険な目に遭わせて本当に申し訳なかった」
帰りも一年生と二年生は集合場所が違う。その別れ際に、間島さんはそう謝罪の言葉を口にし、頭を下げた。
「いえ、今回のことは僕の責任でもありますから」
「……そう、言ってくれるのは有難いが……」
間島さんは申し訳なさそうに顔を上げる。
「それより、あの水は、一体どうやったんですか?」
「あれは彼女――生地物化に頼まれて、コンクリートの露出した部分に熱エネルギーを与えて高温にしたのだ」
「コンクリートを高温に? というのはつまり――、」
「そう。水を爆薬と思い込ませるために、熱の伝わりやすいコンクリートの上で瞬時に蒸発させて見せたのだ。あの状況で、よくもあれだけのことが思いつけるものだ」
――そういうことだったのか。
つまり、煙に見えたのはただの湯気で、焦げ臭さは周りの床材が実際に焦げている臭いだったと。そして、男が背中を浮かせようとして悶絶したのは――。
「何にしても、今回のことはいつかきちんとした形で礼をしよう」
「いいですよそんなの。結果的には全員無事、無傷で帰って来られたわけですし」
「……ありがとう」
言って、間島さんは再び礼をした。
「それにしても、見事な背負い投げであった。君には何か武道の心得があるのか?」
「ええまあ、軽い護身術程度ですが」
「そうか。だが、生地物化は君に男から離れるよう指示していた。俺もその方が安全だと考えていた。君自身、これから色々なことがあるかもしれないが、無茶な行動はできる限り控えるようにしてほしい」
「……はい、気を付けます」
そう。僕が男を取り押さえようとしているとき、間島さんや物化が「何をしている!」や「早く(逃げろ)!」と言っていたようなのだが、僕はそれを「早くやっつけろ!」と言っているのだと勘違いしていて、そのまま男への攻撃を続けてしまったのだ。
とっさの行動とはいえ、周りが見えなくなっていたのは良くなかった。もし男に仲間がいたら、二対一では流石に勝てないだろうから、また捕まって迷惑をかけていたかもしれない。今後これは反省しなければいけないだろう。
もっとも、今後はこんな機会に巻き込まれないようにすることが、何よりの課題であるのは間違いないだろうが。
「では、またの学院で」
そう言って、間島さんは二年生の集合場所へ去って行った。
僕と物化も、すぐに集合場所に到着した。バスはクラスごとに分かれるので、ここから物化ともお別れだ。
「――あの……」
立ち止まったところで、物化は下を向いたまま消え入りそうな声で言う。
「……済まなかった、謝る。……ごめん……なさい…………」
その様子に、いつものような覇気はまるで無い。
「どうしてそんな……? 物化さんは僕を助けてくれたじゃないか。今回、物化さんがいてくれなかったら、僕は誘拐されていたかもしれないわけだし」
「そんなことはない! そんなこと……」
そして、そのままこちらも見ることなく、歩いて自分のクラスの方へ向かって行った。
夏至を迎えた空はまだまだ明るい。
それを恨めしく思いながら、僕も帰りのバスに乗り込んだ。
【小解説】
TNT火薬:2,4,6トリニトロトルエンを用いた火薬。強力かつ扱いやすい性質から爆薬として広く用いられる。またTNT換算グラム=1000カロリーとして爆弾の放出エネルギーの換算量としても用いられる。
ダイナマイト:ノーベル賞のアルフレッド・ノーベルが発明した爆弾。最大の功績はニトログリセリンという危険物質の安定化や安全な起爆方法など、主に取扱いに関すること。




