⑤クイズマッチ(後編)
「これは、お手付き――だよな?」
才氣が自信なく言う。恐らく僕に向けて。
「そうですね。では、ペナルティを考えましょう」
しかし先に希未が答えた。
「難問クイズですから、分からない問題が多くても当然です。しかし、それを理由に走らないのでは運動になりません。ですからここは『お手付きをした場合、ペナルティとしてスタート地点を後退させる』というのはいかがでしょうか?」
「どれだけだ?」才氣が尋ねる。
「お手付き一問につき、この床板1枚分でどうでしょうか」
希未は床を指さした。床は細長い床板が組み合わさっている。見たところ、一枚の幅は10――いや、12センチほどだろうか。
――これならば僕にも勝機があるかもしれない。
たぶん希未は、差が広がる前には自分の解ける問題が来ると読んでいるのだろう。
だが残念ながらこの問題はそう簡単には解けない。なにせあの物化が知らなかった単語だ。
だから最大、29問で3.5メートルほどの差がつく。
「それで行こう」
言うと、才氣は「よし分かった」と言って足元のボールを拾う。
「じゃあ二問目! リチウム電池の電解液などに使われる有機系の液体で――」
クイズ対決と見せかけた短距離競走は、授業の時間が終わっても決着がつかなかった。
だいたい20問くらいまで、僕は希未を油断させず、かつ体力を温存するため、スタートダッシュだけを本気で走って、あとは適当に流していた。
それに気づいた希未は途中からボールを蹴らず、走りながら拾い上げて才氣に手渡していた。それを見て僕は次には全力で走ってみるが、やはり届かず先を越される。
それでも流石は物化と言ったところか、希未は問題を一度も答えられず、差は徐々に縮まってきていた。
「はーい! それじゃ井炭寺さん!」
才氣は初めよりもノリノリで、まるでバラエティ番組の司会のように進行させる。
「分かりません」
希未は変わらず答える。
問題はとうとう29問目を終え、その差は僅差に迫っていた。
「それじゃあ第30問! アルケンの水素化還元を行う…均一系触媒として一般的な、クロロ……トリホス……フィン、ロジウムの、慣例的な名前――とは!」
30問目の答えは、ええと……何だったか……
くっ……最後の最後で度忘れか。
ええい、とにかく、今度こそ回答権を取るんだ。
才氣が手を放すと同時に駆けだす。
よし、まだ並ばれていない。
まだ――まだ大丈夫だ。
ボールはもう目の前で、足が――届いた!
やった! 蹴ったぞ。と、転びそうになりながらも態勢を整える。
「よし!」才氣が声を上げる。
「じゃあ和義、答えは?」
「えー、っと――……」
答え……そうだ、確か、どこかで見たことのある単語が入っていた。スーパーマーケットかコンビニか、酒屋だったか。
「……カナダドライ?」
「ええ!?」才氣が驚く。
「結果はどうですか?」
希未が鋭く促した。
「ふ……不正解だ。答えは『ウィルキンソン触媒』」
あー……。
言われて同時に思い出した。やっぱりアサヒの方だったか。
用意した問題は全て終えた。結果は0対0。
これは、一応「必ず勝てる」というのを覆しているのだろうか。
ならば正直これで終わりにしてほしい。さっき蹴る時に思い切り脚を伸ばしたせいか、脚の付け根の関節が少し痛い。何より疲れた。
「あの、井炭寺さん? もう随分と走ったんじゃないか? この距離とはいえ、30回もダッシュしたんだから――」
「元のスタート地点からの距離は平均しておよそ15.2メートル。バレーボールを置く位置のズレはプラスマイナス10センチ以内です。これまでのあなたは走った距離は、約455.6メートル。私は507.5メートルほどになりますね」
455メートルか。思ったより長距離ではないが、こんなに疲れたのは発進と停止が多いからだろうな。――って、そうじゃない。
「どうしてそんなことが分かるんだ?」
「私、目分量は得意なので」
目分量とかそういうレベルの話なのか。
「確かによく走ったと思います。しかし、これだけ走って引き分けというのも釈然としないでしょう?」
そりゃ釈然としないよ。僕はデマを広められたままだからね。
「ですから、最後の問題は、出題者である伊能才氣さんに出してもらうというのはどうでしょうか」
「えっ? 俺が?」突然の指名に才氣は驚く。
「はい」希未は答える。「あなたに正解が分かるものであれば何でも構いませんよ」
才氣は「分かった。今考える」と言って腕を組み、希未は「お願いします」言う。
やはりまだ止める気が無さそうだ。そこまでして僕とは関わりたくないのか……。あるいは、チーム新人類のためか。
「組織に誠意を尽くす気は無いと言っていた割には、随分と頑張っているじゃないか。単に利害関係と言うのなら、僕と井炭寺さんの契約だって同じだろう?」
僕は既に汗だくだが、館内が蒸し暑いこともあって希未も見ため暑そうだ。
「ええ。チームの皆さんには、一応の恩義がありますから」
「生活を保障してくれていること?」
「いいえ。私は週に何度も、世界唯一の進化した人類のデータを提供しているのですから、私の生活の保障は言うなれば彼らの実験の一環です。それに私ならば研究室からの補助が無くとも、一人で働いて生活することくらいは容易いものです」
本当に能力があるとするなら仕事を見つけるのには苦労しなさそうだが、そこまで言うか。
「ですが、面倒を請け負ってもらっているのは事実です。この学校に入学するときにも、様々な契約や手続きはチームの皆さんが分担して受け持っていました」
「それは実験に必要なことだから?」
「はい、もちろん。ですから恩義と言うのは、私が勝手にそう思っているだけのことで、関係としてはやはり利害によるものとしか言えないでしょう」
互いの利益のためだから、それ以上の関係ではないのか。
そう――じゃないだろう。
「それなら、チームは井炭寺さんの家族のようなものじゃないか」
「はい?」
希未は怪訝な顔を見せるが、構わず続ける。
「だってそうだろう。小さいころから自分のことを見ていて、週に何度も顔を合わせていて、保護者みたいな扱いも受けているんだ。研究がどうとか、僕は知らないけど、それはもう育ての親みたいなものなんじゃないのか?」
「……それは、本気で言っているんですか?」
「もちろんだ」時間稼ぎではあっても、冗談のつもりでは無い。
「血が繋がっていなくて、利害関係があったって別に良いじゃないか。損得で考えられる部分があるからって、それで『家族と思ってはいけない』なんて決まりはどこにも無いだろう」
「別に……私は、家族になんてして貰えなくて結構です」
「家族『なんて』? そんなふうに言うもんじゃない。井炭寺さんだって、家族は良いものだと思っているから、自分を捨てた親を家族と思いたくなかったんじゃないのか?」
「関係ありません。私は実験に協力しているだけ、向こうはそれに見合う対価を支払っているだけです」
希未は語気を強くして言う。
「けど、井炭寺さんはそれに恩義を感じている。だったら、あとはそれを形にすればいい。 新人類は進化した人類なんだろう。身近な人間に家族として見てもらえるようにするくらい、簡単にできないのか?」
対して僕自身も、過熱して声が大きくなっていることだろう。
「何なんですかそれは? 私が違うと言っているんです。チームの皆さんにとって、私は単なる観察対象です」
「そんなの知った気になっているだけだ。相手がどう思っているかなんて、こっちから動いてみなきゃ分からない」
「私に何かさせようって言うんですか?」
「ああそうだ。それとも一人では出来ないのか? だったら、僕がこの勝負に勝ったら井炭寺さんには、土曜日の買い物に付き合ってもらう」
「か……買い物……?」
希未は眉間にしわを寄せて、驚き困惑しているようだった。そんな表情もするのか。と、僕も内心少しだけ驚いた。
「そう。井炭寺さんはそこで、僕と澄奈央さんと一緒に父の日のプレゼントを買うんだ!」
「私が、どうかしたの?」
「え?」
声がした方、開けたままだった入り口から、現れたのは澄奈央さんだ。
「待て、澄奈央。これには事情がある」
追って物化が小走りで現れ、その行く手を遮るが、「上履きのまま入ってきちゃ駄目でしょ」と、言われて靴を脱いでいる間に通過されていた。
「どうして澄奈――真白先生がここに?」
「どうしてって、それはこっちの台詞じゃない。昼休みになっても体育館の鍵が返ってきていないと思ったら、三人はこんなところで何をしているの?」
「いや先生、もうちょっとなんだって、」
そう言って才氣がフォローに回る。
「おい、」物化は靴を持って僕の方に来た。「これは一体どういうことだ?」
「ああ、えっと、問題が全部終わって今は同点で、これから決める最後の問題で決着をつけようってことになって――」
「同点? 一体何があったんだ?」
「色々あったんだよ。とにかく、今は何とかして勝たなきゃいけなくなった」
ちらと希未の方を見た。この距離ならば、恐らく会話は丸聞こえだろう。
物化は「分かった」言って才氣と澄奈央さんの元に走った。
僕は初めの位置から板一枚分後退した、スタートの位置に歩いて戻る。
さっきはこの距離差で負けたが、向こうだって体力を消費しているはずだ。足の痛みは気にするほどじゃない。どうにか根性で勝ってやる。
「私を憐れんでいるつもりですか? とんだ有難迷惑です」
同じようにスタート位置に戻る希未が言う。
「それは自業自得だろう。こっちは今まで散々迷惑を被ってきたんだから、このくらいの報復はあっても良いんじゃないか?」
「……変わっていますね」
「世界で唯一の新人類ほどじゃないよ」
そう冗談めかして答えて位置につく。
見ると、才氣は既にボールを床に置いていた。そして物化は、澄奈央さんに何か言っているようだ。一体どうするつもりなのか。
「それじゃあ――、」
話を聞いて少し考えてから、澄奈央さんは両手をメガホンのようにして言う。
「和義君の、体重は何キロでしょう!」
「なっ――」何を言わせているんだ!?
ああ、きっと物化は、僕と澄奈央さんしか知らないことを言わせたんだ。確かにそれなら希未は知りようがないだろうけど……。
これで勝つのは流石に申し訳が……ないが、しかし引き分けたからってどうなる訳じゃない。
僕は才氣の手に注目する。前足に体重を乗せ、後ろの足が滑らないよう気に掛け、重心を下げる。
そして、手が離れた!
後ろ足で身を押し出し、一気に加速する。
明日筋肉痛になるくらいどうってことは無い。全身全霊全速前進だ!
ボールはあともう数歩先。
これで勝っ――
「――あ!」
希未が脇を通り抜け、ボールを蹴った。
そして才氣が問う。
「じゃあ井炭寺さん、答えは?」
答えられるわけがない。だって、僕は体重なんて誰にも――、
「57.8キロ、ですか?」
「えっ?」
そこにいた、希未以外の全員が驚いた。
「ええっと……」才氣が澄奈央さんの顔をうかがった。「正解?」
「え? そうね、合ってるけど――?」
澄奈央さんは驚くというより、まだ状況を理解できていない様子だ。
「勝負あり――で、良いですか?」
転がっていたボールを拾い上げて、希未は淡々と勝ち宣言をした。
それから皆で体育館の戸締りをして外に出た。鍵はステージの上に置き去りにされていたので、澄奈央さんは鍵を持って職員室へ戻って行った。
僕と才氣と希未はひとまず更衣室に戻って着替えを済ませ、外で待っていた物化と合流した。昼休みはあと15分ほどしかないが、昼食は急げばなんとかなるだろう。
「では、約束ですから誤解を解く協力をしませんよ」
希未は更衣室から出て一番に言う。
「私にメリットがありませんし。まさか、カンニングをしたうえで勝負にも負けたのに、不満があるとは言いませんよね?」
「ああ、うん……」
まあ、バレていないわけが無かったか。
「――けど、」顔を上げ、希未の目を見る。
「やっぱり土曜日は、良ければ一緒に来てくれないか? 井炭寺さんの家族について、真白先生にも話を聞いてもらえば、悩みも多少は軽くなると思うんだ」
それを聞いて希未はまた少し驚いた。
「本当に、あなたは変わった人です」
「井炭寺さんほどじゃないよ。けど少し安心した。井炭寺さんは変わっているけど、人間味が無いわけではないんだね」
「人間味……ですか」
「そう、人間味」
昨日自分が言いたかったのは多分これだ。と、考えながら続ける。
「色々計算したり、高度な判断ができたりすることは確かに人間的かもしれない。だけど、それだけじゃ人間としてあまりに味気がない。たまには非合理的な、馬鹿馬鹿しいと思えるようなことを――例えば記念日に贈り物をするとか、その方が、僕は人間らしいと思う」
「そう…ですね。そうかもしれません」
言うと、希未は大きく息を吐いた。
「では、土曜日はお願いします。父の日に何を贈ったら良いか、私は知りませんので」
「よし、分かった」
僕がガッツポーズをとる横で、物化は鼻を鳴らし、才氣は腹を鳴らしていた。
「それにしても、」
4人で教室に向かって歩きながら、僕は尋ねる。
「一体どこで僕の体重を知ったんだ? まさかこれも真白先生から?」
「いいえ。事前に知っていたわけではありません。あれはさっき、その場で求めたんです」
「求めた?」
聞き返すと、希未は「はい」と答える。
「大まかな数字は体格から推測できましたし、あとはあなたの一歩目の加速度と、床の沈み込んだ量を見て、走りながら計算しました。おかげでかなりギリギリになってしまいましたけど」
「そ……そうか……」
――何か凄く出鱈目なことを言っているような気がするのだが……。
「目分量は得意ですから」
「馬鹿を言え!」
物化がやはり突っかかった。
「目測でそんな、100グラム単位の数字まで出せるわけがないだろう! そもそも体重は毎日変動するんだぞ!」
「そうですね。流石の私も完璧な数字は出せません。間違う可能性はあったと思います」
「そんな……。つまり、最後は当てずっぽうだったと?」
「はい。そうですね。外すつもりはありませんでしたけど」
第六感も超人級か。なるほど、確かに勝てる気がしない。
「そこは私の――新人類の勘と言ったところでしょうか」
希未はそう言って微笑んだ。きっとそれは、この世界の誰もを射抜いてしまうような、隣で騒ぐ物化の声も耳に入らなくなるほどの笑顔だった。
【小解説】
プロピレンカーボネート:炭酸プロピレン。リチウム電池の電解液などに使われる有機系の液体。エステルの仲間。可燃性なので電池の液漏れに注意。
ゴジラサウルス:1997年にアメリカのニューメキシコ州で化石が発見された、三畳紀の北アメリカに棲息していた当時では最大級の大型肉食恐竜。名前の由来は日本映画の『ゴジラ』。
インド洋タイポール現象:インド洋の熱帯域における海水温分布が通常と逆に、東部で低く、西部で高くなる現象。エルニーニョと似たようなもので、世界の気候に影響を及ぼすと言われる自然現象。




