第一話
人が記憶を刻み始めるのは、一体いつからなのだろうか。誰に尋ねても難しい問いだろう。それでも、私にははっきりと覚えている原風景がある。
あれは、おそらく3歳の頃のことだ。
鮮明な情景というよりは、耳の奥にこびりついて離れない母親の金切り声と、冷ややかな視線。
「しっかりしなさい、ミレーユ!」 「甘えてはだめよ、ミレーユ!」
私はその日、この世界に貴族の娘として生を受けた運命の重さを、幼心に知ることとなったのだった。
貴族の家に生まれた私は、歩き始めたばかりの幼少期から家庭教師をつけられ、およそ3歳児には到底不可能な知識と知識の詰め込みを要求された。
幼い私は何も分からぬまま、ただ怖くて、すがるように母親へ助けを求めた。 「お母様、難しいよ……助けて……」 だが、返ってくる言葉はいつも決まっていた。
「しっかりしなさい、ミレーユ」 「甘えてはだめよ、ミレーユ」
毎朝から夕方まで家庭教師による厳しい講義を受け、夜になるとお母様による復習という名の厳しい叱責と指導が待っていた。 幼い頭脳には難解すぎる知識をひたすら詰め込まれる毎日。それでも、私はお母様の愛が欲しかった。褒めてほしかった。ただその一心で、幼い身を削るようにして必死に耐え、勉強し続けた。
だが、幼少の体力と集中力には限界がある。 ついに耐えきれなくなったある夜、私はその日の学習内容を完璧に答えることができなかった。
お母様は氷のように冷たい眼差しで私を見下ろし、いつもと変わらぬ淡々とした声で言い放った。
「わかりました。貴方は貴族の重責に耐えられぬようですので――これから平民として生きていきなさい」
拒絶の隙すら与えられず、私はそのまま屋敷の地下にある使用人部屋へと連行された。 「今日からこの子は平民になりました。貴方たちで育てなさい」 それだけ告げると、お母様は私を部屋へ放り込み、去っていった。夜の暗闇の中、恐怖と疲労の限界に達していた私は、惨めさすら自覚できぬまま、固い床の上で眠りに落ちてしまったのだった。
朝日が昇り、しばらくした頃。 肩を強く揺さぶられ、目を覚ました。視界に映ったのは、青ざめた顔をした屋敷のメイド長だった。
「ミレーユ様……申し訳ございません。奥様の厳命により、本日よりミレーユ様のお世話をすることは叶いません。起床の時間です。身支度を整えてお出かけください」
寝ぼけ眼でメイド長の言葉を聞き、朝の準備をしようとした。しかし、そこで私は自分の無力さを突きつけられる。 これまで毎朝、当たり前のように服を着せてもらっていた私は、服の着方すら分からなかったのだ。
どうにか見よう見まねで適当に布を身に纏ったが、当然ながら髪はボサボサ、顔は汗と脂で汚れ、洗い方すら分からない。 ちぐはぐで惨めな格好のまま、私は使用人たちの集まる作業場へと向かった。
メイド長が各担当に今日の指示を出していく。私はどうやら「家畜担当」のグループに組み込まれていたようだった。 周囲の使用人たちが当たり前のように「今日の作業」の説明を受けているが、私には何一つ理解できない。
普段は口を利くことすら許されなかった下級の使用人が、気まずそうに言った。 「お嬢様……申し訳ねえですが、奥様から『特別扱いするな』と言われておりますんでね。仕事、やってもらいますよ」
案内されたのは、強烈な臭気が立ち込める馬小屋だった。 若い男の作業員から無造作に箒を渡される。 「ほら、俺と一緒に馬小屋の馬糞を片付けるんだ」
言われるがままに、私は一日中馬糞を掃除し続けた。 強烈な臭いに吐き気を催しながら、幼い体には重すぎる箒を振り回し、泥とフンに塗れる過酷な労働。今までペンより重いものを持ったことすらなかった私にとって、それは凄絶な拷問に等しかった。
ようやく一日が終わり、疲弊しきった私に訪れた休息の刻。 だが、待っていたのは夢に描くような温かい食事ではなかった。
普段食べていた洗練されたディナーを思い浮かべながら食堂へ向かった私に渡されたのは、粗末な木製の器だった。 食事係の下っ端が、大きな鍋から雑に掬って配っていたスープ。 お腹を空かせた私は藁にもすがる思いで口に含んだが――一瞬で吐き出しそうになった。
「……ぐっ……!」
それは、クズ野菜と腐りかけた肉を雑に煮込んだだけの、えぐみの強いドロドロとしたスープだった。 平民であれば生きていくために当たり前の食事なのかもしれない。だが、贅沢に慣れきっていた私の喉は、それを受け拒否した。結局、半分以上を残してしまう。
さらに、夜になっても私の苦痛は終わらなかった。 柔らかく清潔なベッドなどそこにはなく、待っていたのは冷たく固い木造の床だった。
身体中の節々が痛み、冷気が骨にまで染み込む。 「不眠」「粗食」「過酷な重労働」。この3つは、急速に私の体力を削り取っていった。
一週間が過ぎる頃、私は完全に限界を迎えていた。 全身は煤と泥に汚れ、肌は荒れ、まともに歩くことすらできないほど衰弱していた。
私はついに誇りも何もなくし、なりふり構わず母親の元へと這い寄り、涙を流して泣きついた。 「お母様……許してください……もう耐えられません……!」
泥だらけの私を見下ろす母親の瞳に、感情の揺らぎは一切なかった。 しかし、その口から紡がれたのは、思いもよらない「教誨」であった。
「ミレーユ。理解できましたか?」
お母様は淡々と、しかし芯のある声で語りかけた。
「我々貴族が恵まれた生活を送れているのは、何故か。それは全て、平民たちの汗と泥に塗れた力添えの上に成り立っているからです」
「だからこそ、私たちは彼らの分まで学び、考え、領地を治めなければならない。そこに一切の甘えは許されません。我々は死ぬ気で学ばなければならないのです」
幼かった私には、その言葉の政治的・道徳的な深い真意をすべて理解できたわけではない。 けれど、一つだけはっきりと悟った。
――私が勉強することは、単なる親の愛を得るための手段ではない。この恵まれた環境に生きる者が果たすべき「絶対的な義務」なのだと。
その後、私は元の立場へと戻された。 生まれ変わった私は、二度と「甘え」の言葉を口にしなくなった。お母様の意図を胸に刻み、ただひたすらに、貪るように学問へと打ち込んだ。
そして何より変わったのは、私を取り巻く世界への視線だった。 朝、服を着せてくれるメイド。 温かく美しい料理を運んでくれる料理人。 屋敷を清潔に保ち、馬車を走らせてくれる使用人たち。
かつて当たり前だと思っていたそれらすべての身の回りの世話に対して、私は心からの深い感謝と敬意を抱くようになった。
あの地獄のような一週間。馬糞の臭いと、冷たい床の感触、そして母の冷徹な教え。 間違いなくあの時の経験こそが、今の誇り高き私を創り上げたのだ。




