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4.大地の咆哮

谷底の沼地へは愛獣の滑空を利用すればあっという間のことだった。

「降りるのはいいんだけど、登るのが大変なんだよね」

とは、フランカの言葉である。

谷の底とおぼしき地面に降り立って空を見上げたレイモンドは、切り立った壁を見てそこを上ることを想像しかけて頭を振った。

トントン、と肩を叩いて振り向けば、ジョンが手信号で進む方向を示す。

ゴーグルによって狭まった視界にしっかりと捕らえ、返事の代わりに大げさにうなずいてみせた。

二人は今日、いつものコートと狩り装束を脱ぎ、沼地用の装備に換装してきた。

防護ゴーグルに吸気口へ薬草を詰めたガスマスク、さらに下半身にはズボンの上からさらに足を覆うなめし皮の二股の外郭をつけている。

ブーツとも一体となったそれは、泥の入り込む隙間もなく丁寧に編まれ、重厚な硬さで機動力を落とさぬよう、太腿の半ばから股間の周りに至るまでの布が無い。

分厚い革を支えるためには、ベルトで締めるのではなく、ベルトに吊るすのが正しい使い方のようだ。

上半身にもガスや泥をかぶらないよう特殊な上着があり、通気性のないそれを着ているせいか、汗がこもってシャツはびしょびしょ。

想像していた、凍り付くような大地とは違って、谷底はじっとりとしたぬくもりがある。

ゴーグルで悪くなった視界を必死できょろきょろ動かし、周囲を見ながらジョンを追いつつ、着慣れない装備に何度も足を取られる。

同じような装備を身に着けたジョンはすいすいと先に進んでいるから不思議だ。

二人は谷底を更に深く下へと降りていく。

谷に吹く風が唸り声のように響き、地面は常に震え、時折地面からはシュウシュウと音を立ててガスが噴き出していた。

先を歩いていたジョンは、ふと振り返ると崖のくぼみにレイモンドを押し込んで、足を止めてじっとレイモンドを観察した。

歩いただけで息を切らしていることに危機感を抱く。

予想以上に彼にとってここは過酷な環境らしい。

一度引くべきか、という考えが脳裏をよぎる中、巨大な影が二人を覆うのに気づいて、ジョンは咄嗟にレイモンドを壁に押し付けるようにして庇った。

首をねじって背後を見れば、噴き出すガスの靄から奴がゆっくりと姿を現す。

月灯りを浴びて淡く輝く漆黒の体毛、ジョン達に気づかず前を見据える金色の瞳の、眉にあたる部分には確かに、昔付けた傷跡がくっきりと残っていた。

ジョン達が身を寄せるくぼみの前を、月下狼の巨体がのっそりと横切っていくのを、息を潜めてやり過ごす。

完全に気配が無くなって漸く、ジョンはほぅ、と安堵の息を漏らした。

後を追う選択肢も確かにある。

背後を取った今ならむしろ、追うべき状況だ。

このまま後をつけて、やつが獲物を狙う時かあるいは、身を休めるところを待つのもいい。

崖を上って上から強襲する手もある。

しかし、とジョンは再び、壁に押し付けたレイモンドへ視線を落とした。

異常に早い呼吸、ゴーグル越しに見える目は力なく瞼を降ろしている。

明らかな異常性を孕んだ彼の様子にある心当たりを見つけ、ジョンは仕方なく彼の腕を取り、肩を貸すようにして月下狼の消えた方とは逆の道を進んだ。

ハンターたちはモンスターが跋扈するフィールドのあちこちに、共同で休める隠れ家をいくつも用意している。

沼地にもそれは点在していて、ジョンはそのうちの一つにレイモンドを担ぎ込むと忌々しげに自分と彼のマスクを剥ぎ取った。

岩陰に作られたそこはガスの充満していない貴重な休憩所だ。

清涼な水が崖の上から流れ込むのも手伝って、辺りの気温は周囲より低い。

乱暴に地面に投げ出されたレイモンドだったが、文句を言う気力もなく、荒い息を繰り返していた。

その頬は明らかに紅潮しており、異常な発汗にうっすらと開かれた唇の奥、抑えきれない欲望が鋭い牙となって表れている。

焦点の合わない目はわずかに充血を見せていた。

ジョンは乱暴に手袋を脱ぎ捨て、腰に帯びた剥ぎ取り用の短刀を抜いて己の手首に当て、そして、逡巡する。

しかし結果は変わらなかった。

短刀が裂いた傷口から溢れた血を押し付けるように彼の口元へ近づける。

匂いに気づいたレイモンドの瞼がピクリと持ち上がり、口元に落ちた血の気配に反応して顎が開く。

「……っ」

湿った音を立てて血が抜かれていく様を、ジョンは凪いだ目で静かに見ていた。

己の血が抜けていくのを感じながら、ジョンはあの夜のことを思い出す。

助かるはずのない命だった。

かなりの高さを落下した体は酷い有様だった。

獣に遺体を食い荒らされるよりはと隠れ家に運んだ。

首筋に走る痛み。わずかな摂取でも彼の終わるはずだった命は、息を吹き返した。

それを差し出すことに、ジョンはまったく乗り気ではない。

けれど、「あぶない」と言った彼の声を聞いてしまったから。

人を助けるために、自分の命を投げ出せる男なのだと知ってしまったから。

失うのが惜しいと思うには、それだけで十分だったから。

「……」

凄惨な夜だった。

生まれたばかりの腹をすかせた赤子が、母の乳を求めるように彼はジョンを求めた。

深く食い込む牙と、まだ食事の仕方も知らない赤子。

もちろんジョンとて、雛に餌を与える親鳥の手管など知らない。

首だったのが、災いした。

今のように手首であれば、あれほど酷いことにはならなかったろう。

押さえつけられ、抵抗空しく食らいつくされた。

長らく狩る側だったジョンが、狩られる側に回った瞬間だった。

見下ろせば、フー、フー、と興奮した鼻息が短くなり、虚ろだった瞳に焦点が戻る。

目の充血が完全にひいたのを見計らって、ジョンが合図をするように軽く手を引けば、レイモンドは弾かれたように口を離した。

ぷは、と息を注ぐ音に続いて、ぜぇぜぇと荒い息。

止血のためにもう一方の手で傷口を押さえるジョンを捕えたその目が、絶望に染まる。

「ああああああ!」

怒りに任せて叫び、地面を殴るレイモンドを横目に、ジョンは近くの水場へ移動して傷口を浸けた。

深い傷のわりに、水に浸けても血が滲まないのが少し不思議だ。

「ごめん」

酷く沈んだ声に振り返れば、レイモンドが治療道具を持ってすぐそばに立っていた。

傷のある手を差し出せば、慣れた手つきで水を拭い、するすると包帯を巻く。

程よい圧迫感を感じながら、レイモンドが器用に端を織り込めば、不思議と解けそうにない完璧な仕上がりとなった。

治療が終わっても腕を握ったまま、傷口を見つめて動かないレイモンドに、ジョンは髪をかき上げるように額に手を当て、顔を上げさせる。

どんな顔をしているのか、気になった。

けれど、同時に、罪悪感に打ちのめされた顔を見るのが嫌で、額に当てた手を開き、そのまま頭蓋を掴んで締め上げる。

「いだだだだだ」

痛みに悶える姿に満足して、突き飛ばすように解放した。

「ごめんてばぁ」

と情けなく謝罪するレイモンドの口元を見れば、そこにはもう、鋭い牙はない。

肩を叩いてすれ違い、脱ぎ捨てた装備を回収する。

いくぞ、と声をかけずとも、同じように装備を身に着けたレイモンドに、ジョンは満足げに目を細めた。


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