2.這い寄る牙
ズズ、と地面を揺らす低い音に、警戒し羽を逆立てる愛獣を、ジョンとレイモンドの二人は優しく撫でてなだめる。
「本来なら岩壁地帯の向こうに居るはずなんだ」
この依頼を持ちかけたフランカが、二人の背後から詳細を話す。
はぐれた地虫獣が森の柔らかい土地を崩落させているため、討伐してほしい。
簡単に言えばそういうことなのだろう。
「サイズはどうってことない。この間の夫婦竜の方がよっぽど厄介だと思うよ。ただ、地面に居るから…」
「音響弾ね」
心得てるという様子でレイモンドが腰の装備を軽く叩いた。
満足気に頷いたフランカを置いて、二人は愛獣を走らせる。
地中を暴れまわる獣は、地面を陥没させ木々をなぎ倒しているためすぐに居場所が分かった。
しかし、目標の所にたどり着くためにはなぎ倒された木々を超えていく必要がある。
「近いな…」
地面を揺らす振動から距離を測ったレイモンドが左腕のスリンガーに音響弾をセットするのを見計らって、ジョンが愛獣から飛び降りた。
森を構成する大木がなぎ倒され、小さな丘となった丸太の上に着地すると、じっと地面を睨みつける。
少し離れた場所に着地したレイモンドが目を凝らし、盛り上がる地面めがけて音響弾を撃ち込んだ。
ギャオオオ、と咆哮を上げて獣が飛び出してきた。
周囲の倒された丸太と変わらぬ太さの、筒状の生物は、身を捩らせてあたりを揺らす。
なぎ倒され折り重なった不安定な大木たちが、グラグラ揺れて崩れていく。
「あぶね」
二人は軽やかな身のこなしで次々と丸太を飛び移り、のたうつ獣へと近づいた。
先手を出したのはジョンだった。
背負った武器を構え、盾と剣に分かれた技巧を組み合わせる。
大斧へと姿を変えた武器を振りかぶり、わずか高所から飛び降りた。
体表に無数の棘を、そしておそらく口と思われる場所にミッシリと細かい歯を携えた獣に勢いよく飛び掛かる。
がりがりと音を立てて、斧が獣の肌を撫でた。
衝撃の吸収を経ていない技巧は爆発を伴わず、また、武器のこすれる音を聞いてすぐにジョンは、斧の刃が獣の皮膚に負けたと悟る。
ジョンに習って、反対側からレイモンドも飛び掛かった。
背負った一対の双刃を振りかぶり、力任せに振り下ろす。
重力の助けを借りて、確かな重みを持たせた一撃だが、職人の手で研がれた鋭い刃ですら、獣の皮膚を裂くことはかなわなかった。
「かっ…た」
長柄を伝わる振動に手を痺れさせながら、降り立った地面をすぐに飛びのく。
二人は揃って距離を取り、不安定な木の上で再会した。
身悶えていた獣は落ち着きを取り戻し、長大な体で地面をしっかりと捕らえ、構造上閉じられない口部から粘液を垂らしながら頭をもたげる。
背後でジョンが武器を解体し、片手剣と盾へと変形させるのとは反対に、レイモンドは手元で武器を組み合わせ、両端に刃のついた棍へと組み上げる。
獣が頭を振りかぶるのに合わせて身を捩り、強く地面へ突き立てると、技巧が発動してレイモンドの身体を空高くへと舞い上げた。
獣の一撃をレイモンドは軽くかわし、ジョンは軽くいなすように盾で受けながら飛びずさる。
木々をなぎ倒して獣が横転する上へと、飛びあがったレイモンドが舞い降りる。
落ちるのに合わせて体を捻り、刃の先が固い皮膚にあたる反発を利用して、激しく横回転しながら、坂を転がる車輪の如く、旋風を伴って地中獣の長い身体の上を滑り落ちた。
勢いに任せて飛びあがったレイモンドが降り立つと、勢いがついた刃に肌を傷つけられた獣が、痛みのあまり傍の木へと激突したところだった。
「っと、あぶない」
暴れた振動で、レイモンドの背後の木が音を立てて倒れるのに気づいて、素早く飛びのいた。
崖を背に、大木の太い根の上に華麗に降り立った、ハズだった。
「へ?」
目にかかる影に顔を上げると、なぎ倒された木から追い立てられるように飛び出した小動物、といっても、人と同じ大きさの、木々の間を飛び回り木の実を食べるような生物が、レイモンドの身体にぶつかった。
ドッと重い衝撃を受けた身体が宙に浮く。
投げ出された先は崖。
傾く体が天を仰ぎ、木々の間から空を見上げる。
そういえばあの時もそうだったなと、つい最近の事件がレイモンドの脳裏をよぎった。
「あぶないっ」
支えようと飛び出した体は、予想以上の重厚な体躯に押し返され宙に浮いた。
やっと見つけた目標人物、ジョンはあの時も戦闘中だった。
敵の攻撃を受けて弾き飛ばされ、ちょうどレイモンドが蔦を登って来た崖の淵へと飛んできたのだ。
蔦を登るのに苦労した分だけの高さを、落ちる。
重力に掴まる前に見たジョンの顔は、こんなところに人間が居るとすら思っていなかったのが伝わるほど、驚愕に目が見開かれていた。
全身を撃つ強い衝撃、特に後頭部に鋭い痛みが走って、意識が暗転する。
身体が揺れる。人の足音。寝かされる体。熱い。
断片的な記憶の中、重い瞼を開けると、暗闇の中こちらをのぞき込んでくる紫氷の瞳と、頭を揺らすような強い鼓動。
「…ッぐ」
低い呻きを口の中に感じた時には、レイモンドは目の前の首に噛みついていた。
布の向こうから口の中に広がる蜜のような甘さが広がる。
噛みつかれた男はレイモンドを引きはがそうとしながらも、傷ついたその体を無下に扱うこともできず、身をこわばらせるばかり。
「…っ」
レイモンドが全身を打ち付けた痛みを思い出したように呻き、噛み千切らんばかりだった顎の力が緩んだ隙を逃さず、男はサッと身を引く。
元より強く地面に打ち付けられた身体に、追いすがるほどの気力はない。
虚ろな目で向かい合う男を見つめ、ぐったりと横たわるレイモンドを前に、男、ジョンは血のにじむ口布を脱いで地面に投げ捨て、襟を開いて日に焼けていない白いうなじを晒した。
荒い息を吐いて苦しげに顔を歪めるレイモンドに、一瞬の躊躇を見せた後、覆いかぶさるように己の首を彼の口元へと近づける。
切実な喉の渇きがレイモンドを襲った。
痛みは一瞬。
深く牙が食い込んだ傷口から溢れる血を、喉を鳴らして飲み干す。
口腔内に広がる甘美な味わいに、理性はすぐに焼き切れた。
ミシミシと体の中で音がして、痛みが徐々に引いていく。
投げ出された腕がピクリと動くと、おもむろに持ち上がり、覆いかぶさるジョンを抱き寄せるようにして、噛みつく角度を変える。
新たな傷口から、更なる美酒があふれ出す。
臓器を炙るような熱にくらくらした。
生まれて初めて与えられる甘美に、けれど体はまるで砂漠で身を得た渇いた体のようにただ目の前の命を啜る。
夜の森の気配の中、ジョンの低いうめき声と、血を啜る音が隠れ家を満たした。




