19.腹を裂けばどちらも赤
食堂を駆け抜けた影は大聖堂街のさらに上層、そびえ立つ塔の頂上へとたどり着いた。
ここには選ばれし者しか立ち入ることはできない。
なぜなら、岩陰に埋め込まれる「神体」が眠る、まさにその場所なのだから。
教会を象徴する大鐘楼の音が塔全体を揺さぶらんばかりに鳴り響く中、音の揺らぎに晒された「神体」と、そこへ折り重なるように張り付けられた「聖杯」たちから、赤黒い液が溢れ、岩陰を辿って祭壇に飾られた杯へと滴る。
鐘が鳴り終えると同時に、満杯になった杯が空の杯と入れ替えられ、満たされた杯はうやうやしく手前のいけにえが横たわる寝台へと添えられた。
いけにえの寝台に横たわるのは、薄いヴェールを纏うだけのテレサだった。
「食事中だぞ」
杯を置いた殉教者が立ち去るのと入れ替わりに現れた影に、食器となる器具を手にテレサへと覆いかぶさらんとしていた教区長は不機嫌に言い放つ。
ひそひそと、囁くようにもたらされた影の報告に、けれど教区長は侮蔑の笑みを浮かべる。
「ほう、地下のあれが倒されたか。ちょうどよかったじゃないか。あれに手をこまねいて、母体の世話ができぬと泣き言をいう馬鹿どもが喜ぶだけだ」
なぁ、と確認するようにテレサへと声をかける。
地下の獣に手をこまねいていたのはテレサたち教会のハンターだ。
恐ろしい再生能力に、戦力の投下が間に合わず、いつも弱らせるだけが精いっぱいだ。
テレサが倒しきれないのにはもう一つ理由があった。
彼に匹敵する腕前を持つハンターが教会には少ない。
連携を取って連続攻撃を行わなければならないのはわかっていたが、万能薬や劇薬で身体能力を高めたところで、テレサには遠く及ばなかった。
一つだけ残された手は、ガラテア。
双子であり、病を万能薬にて克服したガラテアは、テレサに匹敵するかあるいは、越えられるだけの潜在能力が確かにある。
けれどテレサは、最愛の弟を、あの生臭い地下の処理場に連れて行くのを拒否した。
教区長は陰にとっとと去れ、と合図して、再び器具を手に取る。
「まったく煩わしい限りだよ。まぁ彼らがあそこへたどり着くのは時間の問題だった。君は気にすることないさ」
浮き出た血管に、杯から吸い上げられた赤黒い液体が注がれる。
「がっ…ぐっ…」
低い呻きを上げてテレサの身体が跳ねた。
明らかに異常な体の反応に、けれど教区長はどこまでも冷徹に、それを見下ろす。
もう一方の腕にも同様に血を注ぎ、血管を這い上るような痛みが心臓に到達すると、破裂しそうな強い拍動に、テレサの背が弓なりに反る。
苦しそうな様子をむしろ煩わし気に、教区長は器具の先を杯に浸し、先ほどよりも大量にその中身を器具へと収めた。
「アアアアアアアアアアア」
テレサの絶叫が講堂内に響き渡る。
しかし広すぎる講堂にその声はあまりに頼りなく、大鐘楼の響きに比べれば囁きのようなものだった。
ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返し、全身に玉のような汗をにじませるテレサを、教区長は苛立たしげに見つめている。
まるで食事の用意が遅い給仕を咎めるように、寝台を指先でコツコツと叩いた。
身もだえるテレサの身体が、びくりとひときわ大きく痙攣して、静かな行動に骨の軋む嫌な音が聞こえた。
やっとか、と待ちわびたそれを前に、教区長は寝台へと乗り上げる。
ぴくぴくと痙攣するテレサの見開かれた瞳孔が、ぎょろりと縦に細く割れた。
強張る手足の爪が鋭く伸びる。
開きっぱなしになりよだれをまき散らす口から覗く綺麗に並んだ歯が盛り上がり、牙へと形を変えていく。
白磁のような美しい肌がひび割れ、鱗を浮き上がらせ始めた頃合いを見計らって、教区長はそのうなじへと顔を寄せ、鋭い牙を容赦なく突き立てた。
テレサの身体の変化が徐々に収まり、やがて元の姿に戻ると同時に、教区長が顔を上げる。
その表情は苦み走って、不満をあらわにしていた。
「まったく、出涸らしだな」
酷く残念そうに、大げさにため息までついてみせる。
「彼の美酒を味わったあとだと、余計にまずく感じるよ」
実に残念だ。
言いながら、けれど教区長は再び器具へと手を伸ばす。
食事はまだまだ続くのだと、虚ろな目をしたテレサはしかし、教区長の漏らす言葉を聞き逃すことは無かった。
「そろそろ限界か。まぁいい、変わりはいる。双子ならばあれも適応するだろう。こっちは破棄して、そうだ、ちょうど番犬がいなくなったんだったか。これを次に据えるものいい」
腕に走る強い痛みも、体中を引き裂く熱も、どうでもいい。
ただ、汚らわしいこの男から漏れる、最愛の弟の名前だけが、テレサに痛みを忘れさせたのだった。




