15.影を進む者
部下からの知らせを聞いて診療所を訪れたテレサだったが、すでにそこにはジョンの姿はなかった。
「遅かったね。私では彼を引き留めることができずに申し訳ない」
そう言って言葉だけで謝る医療区長の眼は、いつも通り生気がなく感情もない。
彼にジョンを引き留めるだけの力が無いことは明白だが、同時に彼を引き留めようという気がさらさらないのも、誰もが知る事実だった。
「いいえ、私の方こそ遅くなりました」
言って、テレサはうっすらと笑みをたたえる。
医療区長は高濃度の万能薬を造るためにも必要不可欠だ。
同時に、今のところ竜の心臓や適合者について詳しく対応できる唯一の医者でもあった。
「とりあえず、採れる分だけ貰ったよ。これだけあれば、またしばらく彼の機嫌もとれるだろう」
医療区長が差し出す瓶を前に、何も知らずにそんなことをのたまう彼を、けれどテレサは全ての感情を淡い微笑みの下に隠して、ではまた、と静かに診療所を後にした。
その瓶を、上層階で待つ教区長の前へと差し出す。
「なるほど、彼らしい」
彼の血液が入った瓶を並べて、教区長はおかしそうに笑った。
「私が求めていると知れば差し出す、か。よほど、彼に手を出してほしくないらしい。君は彼が連れているあの青年に気づいたかい?」
「……」
「気づくはずもないか。あれは我々の同族だよ。十数年前、愚かにも研究員とこの島を逃げ出したバカな妹の子供だ。だがちょうどいい。実にちょうど良い年ごろだ」
一人でしゃべりながら、教区長は瓶の蓋を開けて匂いを嗅ぐと、恍惚の表情を浮かべて再び蓋をした。
「あれを私の器にしよう。そろそろこの身体も飽きてきたところだ。なに、君は心配することは無いよ。彼らは互いに互いを鎖でつないでいるような愚か者だ。どちらか一人をこの手に収めれば、自然ともう一方も従順になる。あの医者や君たち双子のようにね」
見下げる視線にしかしテレサは緩く頭を垂れ、服従の姿勢を崩さない。
テレサとガラテアもまた、この島に流れ着いた患者だった。
生まれつき人とは違う何かの病に蝕まれていた弟を救うために二人はこの地へ流れ着き、弟は万能薬で健康を得た。
その対価とも言うように、テレサは竜血に適合し、万能薬を造るための濾過機の集団へとその名を連ねている。
一時は、最も適合した、次の聖杯としての候補にすら上がったほどだったのだ。
ジョンが現れるまでは。
次の聖杯として注がれていた教区長の関心は、あっさりとジョンへと移り、今では教区長の右腕という名ばかりの地位を与えられた体のいい雑用係だ。
「ああ、実に素晴らしい、濃度の高い竜血だよ。そうだ、君も少し味わってみるかね」
「…っ」
教区長の悪戯っぽい笑いにテレサの身が直感的に強張る。
しかし、抵抗する隙も無いうちに教区長の手がテレサの首を掴んで、部屋の隅に置かれた拘束椅子へとその身を押し付けた。
革のベルトで腕と身体を縛り付け、テレサに見せつけるようにして、瓶からジョンの血を注射器へと吸い上げる。
「あの搾りかすから滴る出涸らしとは比べ物にならないよ。以前、提供させた者よりももっと高濃度で上質な熟成された、本物だ」
「…、やめっ…」
咄嗟に制止を口にしたテレサの声などまるで無視して、教区長は慣れた手つきでテレサの腕の血管へと、その血を注いだ。
途端にテレサの身体がびくりと跳ねて、椅子の背に体を押し付け天を仰ぐ顔の見開かれた目の瞳孔が収縮する。
体中を巡る熱い血は、内側から血管をずたずたに切り裂かんばかりに暴れまわり、内側からテレサの身体を焼いた。
開いた口から吐き出される慟哭は、大聖堂街の地下に縛られた濾過機たちのうめき声に重なる。
暴れまわり、苦しみに満ちた濾過場で抜かれた血は、すぐ上の精製工場に運ばれ、作業員たちの手で万能薬へと生成される。
そして出荷された万能薬は街の至る所で並べられ、あるいは教会の使者たちから配られ、隅々までいきわたっていた。
苦しみから解放された患者たちは、大聖堂へ向けて祈りを口にする。
街を見下ろせる窓から差し込む日を浴びて、まるでそこだけが切り取られた絵画のような仕草で、ぐったりとうなだれるテレサのもう一方の手から、教区長が呼びつけた作業員の手によって万能薬の元となる濾過された血液が抜かれた。
「少し休んだら仕事に戻りたまえ。やつらはしばらく遊ばせておいていい。私は儀式の準備に入る」
面白そうなものを見る目で眺めていた教区長は、唐突に興味を失って去っていった。
そのあまりにも身勝手な背を、テレサは何の表情もなく見送るのだった。
一方、祭りの残り香を遠くに感じながら、フランカはジョンから手渡されたメモを元に森を駆け回っていた。
一人での探索は危険なため、ギルドから調査員を二人連れての探索は、ハンターの手を借りない、戦闘を伴わないための隠密のような作業だったが、今回はそれが功を奏したようだ。
簒奪者と呼ばれる黒い影、他者の狩った獣の死肉を食らう黒鳥から身を隠すように潜り込んだ滝の裏には、薄暗い洞窟が広がっていた。
「ここは…」
調査員の一人が目を凝らしながらじっと壁を睨みつける。
ごうごうと音を立てて流れる水のカーテンに遮られて、ぽっかりと口を開ける洞窟の内部は薄暗い。
しかし、滝の水が流れ込む足元は光を反射してぼんやりと明るい。
少し奥へ進めば、広がった穴場には隠れ家を造れそうな広いスペースがあり、湧き水かあるいは別のルートから水が流れ込んでいるのか、大きな水たまり、あるいは小さな湖ともいえる池には魚が泳いでいた。
きらめく水中が映し出す水面の模様が、薄暗い天井に幻想的な光の絵画を描き出している。
滝つぼの音が低く鼓膜を揺らし、水のカーテンの向こうに轟く獣たちの雄叫びがぼんやりとしていて、ここが外界から隔絶された別世界のようなきにさせる。
と、さらに奥へと進もうと慎重にランプの灯りをかざした一同に、洞窟の奥から生暖かい風と共に低い唸り声が届いた。
「今の声は…」
「待ちな!」
誘われるように奥へと踏み出そうとした調査員の肩をフランカが強く掴む。
言い知れぬ不安が身の内から沸き起こり、危険信号を伝えてくる。
この先に、なにかいる。
確実な気配に身を震わせながら、フランカは今は撤退しようと調査員二人を連れてすぐさまその場から退散するのだった。




