1.始まりの産声
空気の流れすらない、塵が浮かぶほどの時が止まった空間を切り裂くように、青年は転がり込んできた。
「いてて…」
「おい、大丈夫かよ」
心配する仲間に、平気、と返して青年はその空間を見回した。
時間に飲み込まれたそこには、確かに誰かが生活していた痕跡が残されている。
テーブル、倒れたランプの残骸。成長する木の根に飲み込まれているが、壁と寝具のようなものも見える。
朽ちて歪んだ机だったものの上にある、人の手によって加工されたであろう革の表紙をした本に、青年は吸い込まれるように近づいた。
忘れられた本には砂ぼこりが積もり、革の表紙は真っ白く見えない。
崩れないよう慎重に埃を払えば、革には刻印が入っていた。
それは、およそ500年ほど前の、もう誰も知る者が居ない記録である。
がちゃん、という激しい金属音と共に、狩猟ノートの表紙に自分のイニシャルが焼きつけられるのをレイモンドは眺めた。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
言いながら、ギルドの受付嬢は明るく、けれど申し訳なさそうにレイモンドへ新品のそれを差し出すと、なめしたての革の匂いと、紙の匂いがわずかに香る。
「地図は織り込んであるから。それと、今見つかってる生態なんかも。あとは自分で書きこんで、時々本部に報告してね」
「わかってるよ。それが役目だ」
この辺境にある都市へ、先日着いたばかりのレイモンドに狩猟ノートの使い方や、施設の位置を教えながら、受付嬢は再び、ノートの受け渡しが遅くなったことを謝罪した。
「別にいい。困ってなかったし」
レイモンドはあっけらかんと返す。
数日前に着いたレイモンドには、初めに渡されるべき狩猟ノートの配布よりも先に、任務の説明があった。
とある男の相棒になれ、という少し変わったその任務を遂行するために、レイモンドは一足先に森を歩き回っていたのを、ノートのために再びここへ戻ってきていたのだ。
「じゃ、またいつか」
森に戻れば数日は戻ってこないだろうことを見越してそう挨拶して、レイモンドは辺境都市に建てられたギルド本部を出た。
ぴゅい、と口笛を吹けば、愛獣が駆け寄って来るのに、軽い身のこなしで飛び乗る。
愛獣が大きな羽毛を広げ、駆けだす予兆として羽ばたくのに、纏う獣の匂いが辺りを包んでレイモンドを街から森へと引き戻す。
レイモンドが指示を出せば、柔らかな羽毛をなびかせて、強靭な足で地面を捕えて森の中へと駆けだした。
うっそうと茂る森。
辺境都市が医療の専門家が集まる近代的な建築群の中にあるのとは逆に、人の手を拒むこの森は、何もかもを飲み込むように巨大な木々が埋め尽くしていた。
わずかな隙間を愛獣で縫うように進みながら、レイモンドは標的の痕跡を探す。
獣が体をこすりつけた傷の匂いを嗅ぎ、水を飲んだであろう足跡に触れ、目的のものとは違う痕跡も回収しながら、レイモンドは目的である彼が気に入っている場所を覗いて周ったが、そこに姿はなかった。
仕方なく、彼を追う中で拾った痕跡から愛獣に彼を探してくれと願って身を任せれば、森の奥深く、普段ならあまり近寄らない滝の上の方へと導かれる。
蔦を器用に上った愛獣がたどり着いた先には、崖の縁から大木に寄り掛かるように身を任せた、目的の男が一人。
「おい、こんなところで…」
なにをしてたんだよ、と咎めようとする声は、男がスッと立てた指を口元に当てただけであっさりと制止された。
ジョン。伝統的な狩人衣装の上から皮の防具に身を包み、森の空気を阻むように口元までを布で覆ったその出で立ちは、歴戦の戦士を思わせるのに、纏う雰囲気は幽鬼のようでどこかつかみどころがない。
言葉なく指示された通り、音を立てないよう近づくと、崖の下が騒がしかった。
ジョンの背後からのぞき込むように見た先で、二頭の竜がもつれあう。
縄張り争いかと、警戒するレイモンドだったが、その行為の正体に気づくと、ぱっと頬に朱が混じる。
「何見てんだよ、おっさん!」
それは動物のまぐわいだった。
自然の営みだと理解していても、じっくり眺めるようなものではない。
レイモンドの狼狽を見て、帽子とマスクの隙間から漏れるジョンの目元がからかうように少し緩む。
それだけで、怒っていたレイモンドを黙らせられるのだから、食えない男だ。
和らいだ表情はしかし、敵の気配に再び緊張を見せる。
ジョンが背後に居るレイモンドを庇うように腕を伸ばし少し下がった直後、壁を舐めるように上昇した黒い影が舞い上がった。
風にすがめた目を開けば、黒い影は大きな翼を広げ、まるで獲物を定めるかのように悠々と空を旋回している。
眼下では、営みを終えた夫婦竜が、雌の産んだ卵を守って身を寄せ合っていた。
「なぁ、あいつ…」
レイモンドが予想を口にするより早く、黒い影は夫婦竜めがけて急降下する。
同時にジョンの口笛が鳴り、彼を乗せた彼の愛獣が崖を飛び降りた。
「まじかよ!」
眼下ではレイモンドの予想通りの光景が繰り広げられている。
夫婦の卵を狙った黒い影が襲い掛かるのを、夫が翼を広げて威嚇していた。
更に悪いことに、黒い影の仲間であろう同種が、咆哮に呼び寄せられるように数匹集まっている。
「ったくもう…」
何の指示もなく一人で飛び立ったジョンへの悪態を吐きながら、遅れてレイモンドも愛獣を駆る。
元より飛べないこの獣はけれど、鳥と同じ構造の翼を広げれば人を一人乗せて少しばかりの滑空を可能にした。
夫婦竜がまぐわっていた、滝の側のわずかな出っ張りに着地すると、そこではすでに激しい戦闘が繰り広げられている。
少し離れた空中で激しくぶつかり合う夫と襲撃者、その傍で、卵を抱えて威嚇する妻を襲う影の仲間からの爪を、間に立ったジョンが背負っていた盾で受け止めていた。
爪が盾をえぐる硬い音が響く中、レイモンドはとっさの判断で腰にぶら下げていた装備の中から、ギルドが生み出した道具の一つ、閃光弾をスリンガーにとりつける。
強い光のただの目くらまし。
人間にとってはただの光だが、獣たちにとってはそうもいかないのだ。
ギャアアア、と甲高い音を立てて、ジョンを襲っていた影は地面に倒れてもがき始めた。
遠くで煽りを食らった夫とその敵が絡まるようにしてフラフラ地面に落ちていく。
敵の猛攻が途切れた隙を逃すようなジョンではない。
レイモンドの動きから閃光弾の使用を予測して、盾を陰にして防いだジョンは、敵の猛攻を受けきり、その技巧の中に力を蓄えた盾に、左手に握った短剣を突き立てる。
骨と鋼を組み合わせて作られた技巧が開き、盾と剣は一本の巨大な斧へと形を変えた。
荒い呼吸の如く蒸気を噴き出すそれを、ジョンは大きく一度振り回し遠心力を蓄えて、地面をのたうつ獣へと叩きつけた。
技巧から放たれた力が、仕込まれた火薬を噴き出して爆発の連鎖を引き起こす。
強大な断末魔を上げて影が地面に伏すのを見守っていたレイモンドを、ジョンが振り返った。
礼でも言うかとのんびり構えるレイモンドめがけて、彼の腰に備えられた、剥ぎ取り用のナイフが投擲される。
「へ…」
間抜けな声を上げるレイモンドの頬をかすめる勢いで、背後に居たそれへとぶち当たる。
びぎ、という鳴き声と、硬いくちばしがナイフをはじく音に振り返れば、そこには小柄だが人間に比べればずいぶん大きい二足歩行の獣が、卵めがけて忍び寄っていた。
レイモンド同様、その陰に気づいていなかった雌竜の、驚きと警戒の咆哮にあてられて、陰は恐慌気味に逃げ出していく。
咆哮と驚愕に固まるレイモンドは、背中を強く叩かれ我に返った。
叩きざまにそばを通り抜けたジョンは、すでに武器をしまって背負っている。
投擲して弾かれたナイフを拾い、レイモンドを振り返ると、く、と顎をしゃくって撤退の合図を送った。
倒した獲物から素材を剥ぎ取らないのかと振り返ったレイモンドの視界に、崖下から舞い戻る雄竜の姿が映り、慌てて愛獣を呼び寄せるのだった。
「ありゃあ、それはたいへんだったねぇ」
夜、ジョンが建設した隠れ家に戻った二人を、ギルドの調査員でもあるフランカが出迎えた。
ギルドとの連絡員でもある彼女は、二人にギルドからの調査依頼を伝え、二人が集めた調査報告をギルドに伝えてもらう大事な伝達役だ。
そのほかにも、随所に設置された隠れ家に、必要な道具や荷物を運搬してもらうよう手配してくれる大事な管理人でもある。
「その夫婦竜ってあれだろ。いつだったかの依頼で調査員が卵を盗むのをジョンが手伝ったやつらだろ」
「え、そうなの」
「そうそう。恩返しのつもりかな。ったく、律儀だねぇ」
ジョンの方を向くが、焚火にあたってぼんやりするジョンの表情から、その真意は読み取れない。
しかし、ここ数日ジョンの狩りに同行したレイモンドには、ある仮説が持ち上がった。
「どっちが勝ったの?」
ぴくり、ジョンの瞼が震えて持ち上がる。
冷徹なハンターに見えて、ジョンは意外と戦闘狂だ。
おおかた、あの夫婦竜の夫に何か強い気配を感じて切り結ぶ機会が欲しかったのだろうと推測して持ちかけたカマかけだったが、案外と素直なところもあるらしい。
「ま、二人とも生きてるってことは引き分けか」
揶揄うつもりで放った言葉だが、不機嫌になるかと思ったジョンは意外にも、瞳を緩めてわずかな笑みを浮かべたようだった。
彼については、まだまだ分からないことが多いと再認識して、レイモンドは開いていた新品の狩猟ノートを閉じ、一日を終えた。




