第一ラウンド
小鳥のさえずりが響き、サラッとした風が吹く爽やかな土曜日の朝。
スマホのアラームも鳴っていないのに、沙也加は目を開けた。
「……あれ」
枕元のスマホを見ると、午前七時四十分。
「な〜んだ……まだこんな時間かぁ〜」
そう言って布団を被って瞼を閉じる。
けれど、なぜか寝つけない。
直後。
頭の中に、昨日のメッセージが再生される。
『取り敢えず、帰ったら玉子焼きでも作ってみるポン!』
「そうだった……昨日、玉子焼きを作るって約束したんだった」
しかし昨日は帰りが遅かった為、ドキドキワクワクな調理実習は次の日である今日、土曜日にずらしてもらった。
意外かもしれないが、沙也加は遠足や修学旅行など、イベントごとの当日になると、楽しみかどうかは別として、早く起きてしまうタイプの人間なのだ。
「じゃなくて!」
聞こえてくるはずの、たぬきちの寝息が聞こえてこない。
土曜日の朝なら、丸まって隣で寝ているはずなのに。
沙也加はキョロキョロと周囲を確認、確認。
「いない…」
けれど、姿はすでになかった。
「ということは――」
今度は耳に手を当てて――音に集中する。
すると、リビングの方からカチャカチャという音が聞こえた。
「やっぱり――」
帰ってきた時も、なんだか自分よりやる気に満ち溢れていた。それにたぬきちは、察することに長けている。
沙也加がこういう日に限り早く起きてくることを予測していたのだろう。
「んんーーーーーっ! うっし!」
布団の中で体を伸ばして、気合いを入れて、休日モードになっていた体を起こした。
そして、リビングに出ると……やはり、そこにはエプロン姿のたぬきちがいた。
しかも沙也加を待ち構えていたかのように腕を組み、子供用の踏み台の上で、仁王立ちしていた。
「おはようポン!」
「おはよう……って、なんで腕組んでるの!?」
(気合い入れて正解だった……すんごい張り切ってる)
これが休みモードのままであったなら、たぬきちからの小言集中砲火が止まらなくなるところだった。
正しい選択をしたことでホッとする沙也加。
だが、それを上回る熱を持ってしてたぬきちは、挑んでいたらしく、目をキリッと声色は少し低く凛々しい表情を作ってきた。
「今日は実技試験ポン」
(実技試験って……筆記試験もあったのかな……)
そんなよくわからない疑問を抱きつつも、基本的にノリのいい(対たぬきちとなると、百パーセント増し)の沙也加は、全力で乗っかった。
「試験なの!? 私、受験票持ってないよ!」
「持ち物はやる気ポン」
「それ一番信用ならないやつだって!」
もはや、一つの芸となりつつある、テンポ感のあるツッコミと軽いボケである。
たぬきちは「クククッ♪」と楽しそうな鳴き声を漏らすと、テーブルの上に並んだ材料を顎で示した。
その姿は、ママというより、料理人……いや料理たぬきだ。
(一体、なにから学んだんだろう……)
動画なのか、サイトなのか、本なのか、それともご近所さんなのか……沙也加は、たぬきちのなりきりバリエーションの多さに驚きを隠せないでいた。
けれど、驚くべきところは、そこだけではない。
(というか、待って……玉子焼きって、こんなに材料いるの? 卵と醤油だけじゃないの?)
リビングテーブルには、一見必要なさそうなものがズラリと並んでいた。
卵、砂糖、塩、醤油、みりん、めんつゆ、油、フライパン、菜箸、ボウル。
実際に使うかどうであれ、ここまで準備されてしまってはシンプルに逃げ道がない。
(退路は断たれたって感じだよね……)
まるで魔王を討伐しに行く勇者のようなセリフ。
ただ、玉子焼きを焼こうとしているだけなのに。
とても大袈裟な沙也加である。
まぁ、それくらい彼女にとって料理が苦手なものという裏返しなのだが――。
一方で、各種材料を前に真剣な表情を浮かべる沙也加が気になったのか、たぬきちはめんつゆを指差した。
「めんつゆは“迷ったときの保険”ポン。味が決まらない時の最終兵器ポン!」
「へ、へえ〜……」
(……そういえばお母さんはめんつゆ使ってたかも)
幼い頃、リビングからキッチンを覗いた時、偶然目にした光景を思い出してしみじみ、ズレても伝わる不思議な関係性である。
「ご主人、まずは宣誓ポン」
「宣誓!?」
「『私は今日、玉子焼きに向き合います』ポン」
「ど、どういうこと?」
とはいえ、たぬきちの真顔がやけに本気だった。
(やっぱり、退路断たれてる……)
自分の意思とは関係なく、魔王に立ち向かう勇者ってこんな気持ちなのか……となぜか勇者に同情しつつも沙也加は咳払いして、右手を上げた。
「……私は今日、玉子焼きに向き合います」
「よしポン♪」
たぬきちは満足そうに頷くと、テーブルから降り、キッチンへ先導した。
その背中が妙に頼もしい。
それは何年も剣一つで、魔王を渡り合ったことのある歴戦の勇者すら思わせる。※注)沙也加的には。
(いや、たぬきなんだけどさ……たぶん)
外見はどこからどう見てもたぬき。
でも、日常生活のそれは、沙也加を遥かに上回っている。しかも経った三年でだ。
(うん……たぬきちはたぬきちだし! 細かいことは気にしないでおこう♪)
ほぼ三十年の人生と、たぬきちの三年間を比較しそうになったが……ギリギリのところで思考を放棄した。
実に沙也加らしい自己防衛術である。
キッチンに立つと、たぬきちは武人のような顔で沙也加を見上げた。
「まずは卵を割るポン」
「卵、割るね! 簡単、簡単♪」
(でも、卵割るだけでこんな緊張することある?)
相手は腰より少し高いくらいの大きさのたぬき。
たぬきとクローバーが特徴の黄色エプロンを着こなす可愛い存在。
だというのに。
「えーっと、たぬきち先生……そんなに見られると失敗しちゃうかな〜」
射抜くような鋭い視線が手元に刺さる。
これでは、失敗しないものであっても失敗する。
(あったな〜……導入教育のビス締め……)
中途採用が決まった時に、経験した実習。
決まった時間内に、ビスを締めるという簡単なものであった。
けれど、人の目があるだけで、緊張して手が振える。
結果、ビスが上手く掴めず、タイムオーバー。
たまたま、実習を担当してくれた人が優しかったから、緊張が解れて、事なきを得た。
「その……たぬきち先生、もう少しだけ優しくして欲しいです!」
アプローチを変えて、たぬきちの生徒のように挙手して訴えた。
沙也加の申し出が届いたようで、たぬきちの表情は少し柔らかくなった。
「ポ、ポン! わかったポン……」
「ありがと!」
環境も整えて準備完璧。
「じゃあ、いくね――」
満を持して、沙也加は卵を手に取り、シンクの縁でコン、と叩いた。
だが――。
――ぐしゃ。
ヒビを入れるつもりが、勢い余って粉砕した。
「……あ」
――ボタ。
卵の中身がボウルじゃなく、指の隙間から床へ垂れ落ちた。
「ご主人……」
「違うの! 今のは、その……あれだ! 床に栄養を――」
「そんなのはいいポン! 早く片付けるポン!」
たぬきちはそういうとキッチンペーパーを差し出して、沙也加は土下座する勢いで拭いた。
(初手で床に卵。私の人生みたい……)
床で割れた卵に自分を重ねる実にややこしいOLである。
「……次、二個目ポン」
沙也加の料理スキルが思っていたよりも、酷かったのか、たぬきちの声に張りがなくなっていた。
(元気なくなってるよね? いや、でもここで挽回できれば、たぬきちも笑顔になってくれるはず!)
そう考えた沙也加は、元気良く返事をして、
「はい!」
今度は慎重に慎重に、コン。と優しく殻にヒビを入れてから開いた。
――するり。
ゆっくりと卵の中身が殻から出ていく。
「お――っ! や、やった――?!」
思わず歓声を上げる沙也加。
――が。
つるり――予想外に滑った指先から、白い欠片がボウルの中へ落ちた。
――ポチャ。
ボウルを見ては、お互いの顔を見合わせる沙也加とたぬきち。
「入ってるよね……殻」
「入っているポンね」
「けどさ、取れるよね?! 取れるよね!?」
「取れるポンから大丈夫ポン!」
慌てふためく沙也加に対して、たぬきちは落ち着いた様子であった。
(さすが、たぬきち……卵の殻くらいじゃ、全然驚かないね!)
たぶん、たぬきちでなくとも驚きはしない。
そんな声がどこからともなく、飛んできそうである。
けれど、沙也加は気付いてしまった。
「でも、これまだ一個目だよね……」
何個使うのか聞いていなかったが、まだ一個目。
味付けはおろか、混ぜることすらしていない。
(今……何分経っているんだろう?)
そしてチラッとダイニングの壁掛け時計が目に入って固まった。
「一個割るのに……十分……」
それも調理はなにも始まっていない。
ただ一個の卵を割るのにだ。
もちろん、それには歴戦の勇者兼先生と化したたぬきちも薄々気付いているようで、沙也加が視線を向けると、その尻尾が下向きに揺れていた。
「ポン……」
「あの〜……たぬきち先生、玉子焼きを作るのに、卵ってどれくらい必要なんですか……?」
「二個あれば作れるポン……でも――」
「でも?」
「もし、三人分なら、三個もしくは四個は必要ポンね……」
「まじか……」
卵パックを前にして、項垂れる沙也加とたぬきちであった。




