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江ノ上さんの同居人は、犬でも猫でもなくて、シゴデキたぬきです!  作者: ほしのしずく


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カタツムリばりの歩み

 時刻は、午後七時前。

 日はすっかり落ちて、少し肌寒く感じる春の夜。


「ただいまぁ〜……」

 

 玄関のドアを開けた瞬間、ふわりと鼻先をくすぐる匂いに、沙也加の肩の力が一気に抜けた。

 

(……っんんん〜! 今日もいい匂いしているよぉ〜!)


 匂いだけでもわかる。絶対に美味しいやつ。 


(洋食かな〜♪ 中華かな〜♪ でも、この出汁の匂いは日本食だよね〜♪ なんだろう♪)

  

 靴を脱ぎ、ウキウキ――胸を躍らせながら、廊下の奥のキッチンを見ると、エプロン姿のたぬきちがちょこんと踏み台に乗っていた。


「激……かわ――」


 一般社会にはない、日本語を喋るたぬきがエプロンを付けてキッチンに立つ癒しのシチュエーションに、抱き締めたくなる愛くるしいフォルム。


 当たり前の日常なのに、特別な時間。


 会議からの会議、みっちりと詰まった激務からの落差に、一瞬、心の声を引くぐらいのボリュームでぶっ放しそうになるが、カーテンの揺れで窓が空いていることを察して、


(あ、危なかったぁぁ……私の奇声が響き渡るところだった……)


 グッと堪えて、胸を撫で下ろした。

 そして、ふるふると頭を振って仕切り直す。


「ただいま、たぬきち♪」


 亀の歩みではあるが、心のオアシス自宅であっても、沙也加は成長しているのだ。たぶん……。


 そんな内面の葛藤など知らないたぬきちは、作業をやめていつものように、とてとて玄関まで駆け寄ってきた。

 

「おかえりなさいポン♪」

「ぐむ――っ! やっぱり、かわいい……」


 落ち着く匂いのするエプロン、そして小さきモフモフな胸に飛び込みたい衝動を必死に抑える沙也加。


(いきたいけど! 今は――)


 その手には、ゴム製の手袋がはめられていた。

 水滴がついているし、なんだか磯臭い。


(うん、なにかしてたよね……)


 これだけでは、なにをしているかまではわからない。

 けれど、料理をしていたのは想像に容易い。

 こういう時に近づいて、真正面から抱き締めたり、スンスン――猫吸いならぬ、たぬ吸いをすると、たぬきちはとんでもなく機嫌が悪くなるのだ。


 要は、家の用事をしている時に近づいてきた夫をあしらう妻のそれと同じ感じである。


(お母さんも言っていたよね……あれはやめてほしいって)


 幼い頃、父親と仲の良かった母親でさえ、愚痴ったことまで思い出しげんなりして、


(やめとこう……)


 沙也加は、おかえりを言えて満足気な表情を浮かべるたぬきちのあとに続いてリビングへと向かった。

 


 ☆☆☆



「え――っ?! なにこれ?! 誰かのお祝い!? 凄すぎるんですけどぉぉぉぉーーーーー!!!」


 ダイニングテーブルの上には、新じゃがのそぼろ煮、菜の花の辛子和え、そして色鮮やかなちらし寿司。


 沙也加は叫ばずにいられなかった。


 とはいえ、これでは先程のカタツムリばりの成長は何処へ状態である。


「――はっ! 窓閉めてない!」


 けれど、瞬時に気付いて慌ててベランダに視線を向ける。


「クキュ! 閉めたから大丈夫ポン♪」


 そこには、尻尾をゆっくり振るたぬきちがドヤ顔をして立っていた。


「さすが、たぬきち〜!」

「でも、所構わず大きな声を出すのは、あんまり良くないポンよ! 近所迷惑になるポンからね!」

「はい。ママ……」


 もうナチュラルに、自然にママと呼んでしまう自宅に帰るとデバフ掛かってしまうお疲れOLである。


 沙也加のことをシゴデキと思っている人には見せられない一面だ。

 

「ククッ! じゃあ、手洗いしたらご飯にするポン!」

「うん♪」


 たぬきちの言葉に頷くと、沙也加は洗面所に向かった。



 ☆☆☆


 

「どれも美味しそうだな〜♪ 色味も綺麗だし、見ているだけで春って感じだ! なんかまだ食べてないのに気分まで上がっちゃうね!」

 

 言葉にすると、なんだか仕事の疲れまで季節に溶けていく気がして、


(……うん、私、この為に働いているんだ)


 沙也加は、しみじみ――この瞬間を噛み締めていた。

 

「今日、大きな会議だったって聞いてたポン。だから、ちょっぴり贅沢な感じにしてみたポン」


 たぬきちは、嬉しそうに鼻を鳴らして、一度言葉を切ると、聞こえるか聞こえないくらいの大きさで呟いた。


「……色とかにもこだわってみたポン……」


 ここを逃さないのが、沙也加。

 自宅でデバフ掛かっていようとも、ダメダメであってもたぬきちの言葉だけは逃さない。


(色……色……? でも、色とかってことは、他にもこだわっているんだろうけど……)


 けれど、色とかという言葉に引っかかってその先に進めない。

 ――が、ふと、目の前に座るたぬきちを見てあることに気付いた。


「ああっ! 私の好きな色だ! もしかして、材料にも意味があったりするとか――」


 自分があげたエプロンから、辿り着いた名推理。 

 ここで終わっていれば、完璧なのだが。


(さすがにそれはないか〜! そこまで考えるようになったら、凄すぎて言葉を失っちゃうよぉ〜!)


 などと、持ち前のポンコツを発揮してしまう。


 何度も言葉を失うほどの凄さを目の当たりしてきたことで、麻痺しているだけでは?


 正面にいるシゴデキママたぬきに、知れてしまえばどう転んでも指摘案件。しかし、これは沙也加の心の声、届くはずもなくて、


「色も全部……ありがとう……たぬきち♪」


 たぬきちが、こだわってくれたであろう部分も含めて感謝を伝えた。


 どんどん夫婦っぽいやり取りが上達していく沙也加であった。

 

「ポン! で、今日はどんな感じだったポン?」

「あ、うん……なんか、めちゃくちゃ偉い人たちがいてさ……生きた心地しなかったよ。それなのに、また会議に呼ばれちゃうしさ……」 

「でも、ご主人はちゃんとやれたポン?」

「……うん。たぬきちのおかげで生き延びた!」


 自分の話を聞いては相槌を打って、話を聞いてくれる愛たぬきを前に、いただきます、と手を合わせて、ひと口。

 

 新じゃがのほくほくした甘みと、そぼろの甘辛さが口いっぱいに広がる。

 

「……おいしい……」

 

 それだけで、今日一日の価値が肯定された気がして……。


(って、あれ……なんか色々忘れているような……)


 課長のことや、たぬきちが街で噂になっていることが飛んでいってしまう沙也加であった。

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