弁当の乱
時は遡り、午後二時過ぎ。
来客用の会議室に向かう廊下にて。
沙也加は、たぬきちと同じくシゴデキの高橋課長と二人っきりになっていた。
「江ノ上くん、さっきのC社の資料だが――」
「はい。こちらに用意しています」
「さすがだな。やはり君を呼んで良かった」
沙也加が出した資料に爽やかな笑顔を見せる課長。
けれど、その資料を出した沙也加は、
「あ、ありがとうございます! そう言って頂けて光栄です!」
と畏まりながらも、
(なんでこんな目に……)
心の内でため息をついていた。
それは予定に入っていた大きな会議の後。
突然、取引先との打ち合わせが入って、そこに幹部でもないいち社員の沙也加が呼ばれたのである。
日頃の頑張りが認められた瞬間であったのだが――。
(私は望んでいないよぉ〜! なんで会議のあとに会議するよぉ〜! というか、私の持ち場はもう終わったよ? なのに、なんでぇ〜!!)
酒にのまれた時、愛たぬきの前、タイミングよっては浮かれる癖に、いざ出世街道(社畜ロード)が開けてしまうとあたふたしてしまう。
実に困ったご主人である。
シゴデキママたぬきの小言が飛んできそうな状況であるが、残酷なことにここに彼はいない。
「江ノ上くん? どうかしたのか?」
高橋課長は不思議そうに尋ねた。
「え、あっはい!」
「ふふっ、昔みたいになっているぞ」
「あはは〜……昔って、一体いつのことを言っているんですか〜!」
そう口にした時。
沙也加は思い出した。
目の前のシゴデキ、高橋課長に色んなことを仕出かしてなにも返していないことに。
(い、今しかない……!)
「あの高橋課長っ!」
「ん、なんだ?」
「私が三年前に仕出かしたことについて、埋め合わせを頂きたく――」
「いや、いらん。上司が部下の面倒を見ただけだ。気にするな」
「さすがにそうはいきません! というか、私の為だと思って受けて下さいっ!」
「……はぁ、わかった。じゃあ、そうだな……」
沙也加の押しの強さに、さすがのシゴデキ課長も押されてしまったらしく、立ち止まったかと思えば、腕を組んでなにやら考え始めた。
一方、沙也加は自分から提案したというのに、その頭の中は『高橋課長がフリー』や『誘っても問題ない』など大人女子トークで繰り広げた話が浮かんでいた。
(一体、なにを言われるんだろう……はっ!? まさか、で、で、デートとか?!)
周囲から評価が高い。そんなことも言われたことで、その考えはどんどん飛躍していく。
けれど、
(いや、課長のことだしな……それはないよね――)
相手はコンプライアンス遵守、女性社員にも、男性社員にも分け隔てなく接し、口を開けば仕事の話が八割を占める完璧超人。
そんな人間が自分なんかをデートに誘うわけがない。
(というか、私にはたぬきちがいるし!)
誘われた確証もないのに、脳内でシゴデキママ(たぬき)を引き合いに出して、断るとはなんとも失礼極まりない。
それは間違いないのだが、沙也加の頭の中には、エプロン姿でキッチンに立って、ご飯を作っている愛たぬきの姿が浮かんでいた。
(えへへ〜♪ 今日のご飯はなにかな〜♪)
ダイニングテーブルに用意されたあたたかいご飯に「クキュ」と鳴き声を漏らしながら、自分の様子を伺うたぬきち。
幸せ家族空間に、一瞬、だらしのない表情になりかけたが、
「……なんだ? 笑って」
シゴデキ課長の不審がる視線を受けて冷静になった。
「えっ?! わ、笑っていませんよ!」
「そうか? 今、笑っていたような気がしたが……」
「そ・れ・よ・り・も! ほら、お返し! なにをしたらいいか思いつきましたか?」
たぬきち相手にいつも使う、“勢いで乗り切る”作戦である。(通じてはいない)
けれど、沙也加はふと思った。
(この状況を誰かに見られたらヤバくない?)
誰も通ってはいないとはいえ、ここは会社内。
その上、足を止めてお返しがどうのなどと口にしている。
(やっぱりなしにしよう。うん、そうしよう!)
指をつんつんしながら、上目遣いでやんわりと訂正しようとした。
「あ、えーっと、課長……さっきのは言葉のあやで――」
――が。
沙也加が訂正すると、ほぼ同時にシゴデキ課長は、とんでもないことを口にした。
「――弁当を作ってくれ」
「弁当……?」
発せられた言葉を繰り返して、目を白黒させる沙也加。
(弁当……弁当……弁当?)
当然、頭の中も弁当という文字で埋め尽くされていく。
そして、脳内メモリーのキャパシティを超えた瞬間。
「べ、べ、べ、弁当っ!?」
オウム返ししていた。
――春より先に弁当が来た。
まさに【弁当の乱】勃発である。
奇しくもたぬきちが考えていた【のり弁の乱】と語彙被りをしているが、言うまでもなく全くの別ものだ。
(いや、落ち着け私! まだ春の可能性だってあり得る!)
果たして、沙也加に春は訪れるのか、それとも――。




