それはそれとして
数日後。
大人女子トークの果てに、深みにはまりつつも、結婚の話題を回避した沙也加であったが、今度は別のピンチが彼女を襲っていた。
それは、もう定時をとっくに過ぎた午後十時。
急遽結ばれた大口契約、それに伴った材料発注などが重なったことで、オフィスには、沙也加以外の社員たちもかなり残っていたわけだが――。
「えっ?! まだ届いてないんですか!?」
沙也加は自らのデスクの前、工場の材料管理課からのとんでもない電話に声を上げる。
なんと! A社という、プリント基板を作る会社、B社という、半導体を作っている会社、そしてプラスチック製品を加工するC会社。どの外注先にも、材料が届いていないということが起きていたのだ。
本来であれば、工場の方に午後イチ着、夕方納品――その段取りが丸ごと崩れた。
(なんでこういう時に限って、高速道路に物を落とすのぉぉぉーーーー! ちゃんと積荷は固定してよぉぉぉーーーー!!)
叫びたくなる訳をグッと堪えて、軽く咳払い。声を整えてから応じた。
「――わかりました。教えて下さりありがとうございます。明日の朝には届くように働きかけてみます」
(って、働きかけるって、どうするよ! どのトラックも道路の上で立ち往生してるのに……)
渋滞しているのは、一般道ではない。
それは一度、詰まってしまえば陸の孤島と化す、高速道路なのだ。
規制が終わるまで進むこともできないし、来た道を戻ることもできない。
「……うん、無理だよね」
自身ではどうしようもない状況に、沙也加は本音がポロッと零れた。
《江ノ上さん、聞こえますか?》
「あ、動きがあり次第、連絡します」
《わかりました。お願いします》
(ふぅ……焦っても仕方ないよね。とりあえず、現状を把握してっと)
そう切り替えると、沙也加は深く息を吸い込んで、気分を落ち着かせて、
(ちょっとたぬきちに連絡しとくかー)
家で首を長くして待っているであろう、愛たぬきへと連絡することにした。
☆☆☆
一方、同時刻の江ノ上家。
晩御飯を作り終えたたぬきちは、薄暗い中、夜目を効かせて洗い物をしていた。
(月明かりが差し込む中で、家のことをするのは、やっぱり落ち着くポン)
シゴデキママたぬきとはいえど、やはりたぬき。
人工的な灯りより、自然光が好きなのだ。
(そういえば、人間がボクらたぬきのことをなんか言ってたポンね……たぬきの腹鼓だったポンか?)
狸の腹鼓――月夜に狸が自分の腹をたたいて楽しみ興じるという、人間に伝わる言い伝え。
そんな根も葉もないことに、「クキュックキュ」という鳴き声を響かせながら、笑うたぬきち。
ちなみに、今日の献立は、沙也加の好物であるポテトグラタン。こんがり焼けたチーズ、ホクホクポテトと濃厚ホワイトソースがたまらない一品――たぬきちの得意料理でもある。
蛇口を捻って、洗い物用の手袋を外し、シンク横に設けたキッチンフックにかけて、
「……それにしても遅いポンね」
子供用の踏み台から、ふとリビングの掛け時計に目をやるたぬきち。
今日は金曜日。
いくら社畜とはいえど、このご時世。
普段であればここまで遅くなることはない。
(朝の段階では、早く帰るからって言ってたポン……)
もし飲み会であれば、決まった時点でいう。
仮に急遽決まったとしても、スマホで共有しているカレンダーに入れる。
不出来なご主人――沙也加が自分で予定を管理できないからということで、そんなルールを設けた。
そして、その為だけにたぬきちは、沙也加から渡されたスマホの使い方を一から独学で学び、ものにしたのだ。
さすがはシゴデキママたぬきといったところだろう。
「ポン! さすがに飲み会ではないポンよねー」
自分のご主人である沙也加は、三年も経った今も目を離せば、ゴミを生成するし、スケジュール管理もできていない。
飲み会の日は、決まって玄関に入った瞬間寝る。
起きても、トイレで寝る。
お風呂だって入れない。
何度も、何度も介抱をしてきた。
「ポン……今、思い出すと、我ながらよくやってきたポンね……」
本当に、本当にどうしようもない人間ではあるが、嘘はつかない。
たぬきちは、そのことをこの三年間でよく理解している。
「――ということはポン……」
その発達した頭脳は、一つの結論を導き出した。
「ポン……お仕事ポンか……」
仕事、もとい労働。
生きていく為には、どうしても避けられないこと。
「ポン」
沙也加は人間、自分はたぬき。
働いて埋め合わせなんてできるはずもない。
なので、
(仕方ないポン……)
そう、仕方ないのだが。
たぬきにも、たぬきちの言い分がある。
一緒に食べられると思って、腕によりをかけた得意料理。明日は休みだから、動画で観たチーズに合うという高めワインを用意した。
そのあと、気持ちよくお風呂が入れるように、掃除もしたのだ。
別にお礼が欲しくてなんかではない。
けれど、なんだか胸の辺りに穴が空いたような気がして……それと同時にムカムカモヤモヤして――。
「むっはーーーーー! 腹立つポン!!!」
たぬきちは、そう叫ぶと、その鼻息と一緒に「ギャッギャッ!」という言葉にならない鳴き声を上げた。
確かに働くことは偉い。
あんなとんでもない生態なのに、人間社会で踏ん張っていること自体、奇跡。
けれど、それとこれとは別だ。
そもそも、沙也加が早く連絡さえすれば、こんな気持ちにならなかったのである。
「忙しくとも、連絡くらいはできるはずポン!」
全身の毛を逆立てて、頬を膨らませるたぬきち。
思わぬところで、虎の尾を踏む――たぬきの尻尾を踏むOLである。
「こうなったら電話するポン!」
そう考えたたぬきちは、子供用の踏み台を降りてエプロンのポケットから、スマホを取り出した。
そして沙也加に電話を掛けた。




