全てはたぬきちの掌の上?
「あははー……たぬきちさん? どうかしました?」
沙也加の晩酌を止めたのは、たぬきちの小さな前足であった。
(あ、これやばいやつだ……)
肉球がフニフニしてて痛くはないし、たぶん本気を出せば振り払える。
そう感じるのだが――。
「成長ポンか……?」
「ちょ、ちょっと怖いよ、たぬきちさん? そんなに睨まないでよ〜!」
先程とは、比べ物にならない鋭い視線。
呆れというよりは、完全に怒っている。
とはいえ、初めて浴びたものではない。
だから、この場面を切り抜けるべく、沙也加は、グラスをテーブルに置いて、フローリングに寝転んだ。
「ス・マ・イ・ル! ほ、ほら、いつもみたいに優しく微笑んで♪ いやー、仕事が忙し過ぎて疲れたからなー……酔いが回っちゃってきたのかも♪ あはは……」
犬もびっくり、たぬきもびっくり! ヘソ天ならぬ、酔い天――酔っ払ちゃったから、許して下さい作戦である。
そんなことで切り抜けられるほど、愛たぬきは甘くないというのに。実に愚かなOLである。
まぁ、たぬき寝入りしないだけマシであろう。
(これで乗り切りたいよぉ〜! たぬきち許してぇーーー!)
仰向けになりながらも、願い奉る沙也加。
だが、当然、世の中はそんなに甘くない。
「ギャッ!」
たぬきちは、尻尾を立て不機嫌そうな鳴き声を上げて、寝転がる沙也加を見下ろした。
そして……。
「わかったポン……」
そう短く告げると、テーブルに置かれたグラスにビール、おつまみセットの数々を素早くも気遣いにあふれた足運びで、片付けていく。
下の住民に迷惑をかけないように、軽やかに足音が鳴らぬように、その姿、まるで忍び。
「凄い! たぬきち、に、忍者みたい!」
純粋に感動した沙也加は、思うがままを口にした。
けれど、同時に目の前で何が起こっているのか、理解した。
「あ、え、ちょっと! たぬきち?! まだ食べ終わってないよ? ビールもまだ入ってるし……」
「ご主人は酔っ払っているから、今日はもうこれでお開きポン♪ いやー、飲み過ぎは良くないポンねー! ゴミの分別も疎かになってしまうポン」
その言葉を聞いた瞬間、沙也加は察した。
始まる前から、すでに勝負がついていたことを。
「は、嵌められたの? 私……」
嵌められたというのは、語弊のある気がするが、とはいえ、三年間も共に過ごしているのは事実。
三年も一緒に暮らしている同居人の行動を読めないはずがない。例えば、職場の人間だってそうだ。
石の上にも三年といったように、大体のことを読めるようになる。実際、たぬきちの存在は、とても――いや、かなり大きいが沙也加でも、「察しがいい」や「機転が利く」など、仕事ができると評価され始めている。
それも相手は、シゴデキママたぬき――たぬきち。
自堕落極まりない自分の私生活を人間水準まで、改善してくれた。今現在も下がりそうな水準を下がらせないように尽くしてくれているのだ。
そんな存在に沙也加の付け焼き刃だらけの、手が通じるわけはない。
その証拠に、キッチンで後片付けしているたぬきちの表情は明るく、尻尾も上向きだ。
「ググッ、まだまだポン♪ でも、ちゃんと本当のことを言ったことは褒めてあげるポン! でも、分別はするポンよ!」
嬉しそうにしてやったりという雰囲気で鳴き声を上げて、そう口にするたぬきち。
対して、その飼い主であるはずの沙也加は、怒られる怒られないの問題ではなかった。
「うわーん! 怖かったよぉぉぉ〜! 私、一瞬たぬきちに捨てられるんじゃないかって――」
そんなことを言いながら、キッチンに立つたぬきちに抱きついて瞳から涙を流して、謝り続ける始末。
沙也加を評価する職場の人間には、決して見せられない、なんとも情けない姿である。
「……大丈夫ポン、捨てないポン! ボクが支えてあげないと、ご主人は生きていけないポンからね!」
たぬきちは、子供用の踏み台からキッチンに立つママの如く、洗い物をしつつ飼い主である沙也加の頭を優しく撫でた。
完全に立場逆転である。
というか、元々立場なんてものはこの一人と一匹の間には、存在しないのかもしれない。
「えへへ〜♪ やっぱり、たぬきちは優しいや〜! ずっと傍にいてね!」
ポンポンと頭に伝わる柔らかい肉球の感触に心奪われる沙也加。
結局は、全てシゴデキママたぬき――たぬきちの掌の上であった。




