ブルーローズ
「こういう嘘っぽい青、好きなの」と乃愛は言った。
近所で催されている町内の夏祭り会場だった。見知った顔もいれば、酔ったおじさんたちや、帰省中のような美男美女の夫婦もいた。
都会になろうとしてなりきれなかった、ごくふつうの住宅地内の公園で。
何にもなりきれない、中学生だったあたしたちが。
夕暮れに支配されたあとの薄闇とかき氷を食べながら、した話。
◇
「青って無理じゃん、人間には」
たぶん乃愛は『日本人の体には青い部分はない』と言いたいのだろうと推し量り、あたしは理科室の人体模型を思い浮かべた。いつもそう。いつも乃愛は一言足りなくて、説明が独特で、わかりにくい。
「青いところはないかもね」
人体模型に青い部分があるのは、わかりやすくなるよう色づけられているからだと知っている。
「だからこれ、なんか安心する」
乃愛は左手のかき氷にスプーンをぐさっと突き刺してから手鏡を出し、ブルーハワイに染まった舌を映して満足そうに眺めた。外側の白いプラスチックに、ドラえもんのシールが貼られている、いつもの手鏡。
「安心? 気持ち悪くない?」
「そんなことないよ。こういう嘘っぽい青、好きなの」
「あたしはそういうの冷たそうでなんかイヤ」
「冷たい? いまさら」
あたしを鼻で笑うと、乃愛は「怜奈だってそうじゃん」と低い声で言う。きっと『怜奈の家だって冷えてるじゃん』と言いたいのだろう。
「……でも、ピンクがいい」
あたしのいちごと乃愛のブルーハワイはもう溶けかかっている。
「ふぅん。あたしは人間の体にある色、好きじゃない」
乃愛とあたしは似た者同士。乃愛はお母さんが再婚した男になじめなくて、あたしはパパが再婚した女とうまくいっていない。
「……そっか。ほら、あたし、かき氷もいちごが一番だから」
こういうときに深堀りするのは禁物だと、あたしは知っている。だからごまかそうとしたのに、乃愛はそれを許さなかった。
「体なんか……毎月勝手に血ぃ流してさ。そうじゃなくたって、生きる代わりに差し出すものなんだよ」
「差し出す?」
「だからあたし、卒業したら働こうかなって思ってるの。そうしないと体があたしのものにならないの」
「な、なにそれ、そんな、一緒に高校行けないってこと?」
不安が急にあたしを襲う。勇ましくて濃い血がどくどく流れていそうな、いくら叩いても刺しても死なない、新鮮で丈夫な不安が。パパがあの女を連れてきたときと、同じ不安が。
「高校行ってバイトしようかな、とも思ってたんだけど」
乃愛の声が頭の上のほうに漂ってしまう。掴むことができない。
「そ、そうだよ、一緒に……バイトも、一緒に、でき……」
「ごめん」
乃愛の声は、今度は地面の芝に落ちた。
◇
乃愛の声をあたしが掴むことができたのは、届いた手紙で、だった。
『もうあの男としたくないんです。
汚くてごめんなさい。』
たった二行の手紙で、あたしは理解した。
消印の日に、乃愛は青い薔薇の花を浮かべた青いバスボムの中で自殺した。
どうして手紙だと丁寧な言葉なの。
でもやっぱり言葉が足りない。
乃愛らしい。
そんなことで嫌いになるって思ったの。
汚くなんてない。
あたしたち、まだ何にもなっていないんだから。
あとからあとからあふれてくる涙を制御できるようなことを、あたしはそのとき考えることができなかった。
お通夜の会場の奥の乃愛はいつもより白くて、輪郭がぼやけているように見えた。
こっそりドラえもんのシールを貼った首筋は、思っていたより冷たくなかった。
◇
あたしは高校卒業と同時に家を出た。それから帰省していない。事務的な用事はすべてスマホと手紙で済ませている。あの女が幅を利かせている家なんかより、一人暮らしの家のほうが快適に過ごせる。
でも乃愛のお墓参りには、毎年命日に行くと決めている。学校より仕事より、何より優先して。
乃愛が死んでから十年が経った。あたしがお墓への階段を上っていると、既に乃愛の墓石の前に来ている男女がいた。あいつだ、あの男だ、と思った。お通夜のときに会って以来だけれど、覚えている。泣いてばかりいたせいで、睨みつけることもできなかった男。
「……もしかして、きみは」
あたしに気付いて微笑みを浮かべながら穏やかに言う男は、赤やピンク、黄色などの色とりどりの花を持っている。
何よ、その色。乃愛のこと全然わかっていない。何度もセックスした女のことくらい覚えていなさいよ。
すさまじい怒りが湧き上がる。あたしは瞬間的に男の手をバシッと叩き、花束を落とした。
「なっ! 何を……!」
「あんた何もわかってない! 乃愛は、乃愛はそんなの嫌いなんだから! 二度と来るな!」
明るいパステルカラーの花束が憎らしく、ぐりぐりとハイヒールで踏み潰す。そうしてあたしは、シッシッと野良犬を追い払うような仕草をした。男はこちらに向かって何か言いたげにしていたが、女のほうが制止し、「何だよ」などとぶつぶつ言いながらも立ち去った。
「乃愛、ごめん。青いのがいいんだよね」
艷やかなブルーローズの花束を供えると、線香に火を点ける。
細く立ち上る仄白い煙は墓石を超え、やがて青空へ溶けていった。




