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Rosalie: A Human History  作者: 田中


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第二五話 The Last Religion

 二〇三七年。


 季節の境界は失われ、暦の意味も消えた。

 人々は南へ北へと渡り歩き、“移動”を生活の中心に据えて生きるようになった。


 道は荒れ、地図は無意味になった。

 人々が引いた国境すらも、既に存在しない。

 それでも彼らは歩いた。

 放牧民となり、羊や牛、犬と共に暮らした。

 人よりも動物の方が、死を恐れないからだ。


 羊の群れが緩やかに丘を登る。

 人々は彼らの影を追い、ロザリーの通り道を避けながら、草原の匂いの中を進む。


 放牧者たちは言った。


「あいつら(ロザリー)は、肉を食う。

 だが、俺たちはもう“肉を分け合う”ことしか知らない」


 それは皮肉でも信仰でもない。

 生きるために必要な最小の倫理だった。



 一方、都市にはまだ光が残っていた。

 高層ビルの屋上で、光明運動の旗を掲げる人々が祈っていた。

 彼らは、食べないことを誇りとし、「血を流す存在」すべてを敵と呼んだ。


「ロザリーは裁きではない。贖いだ」


 彼らの声は、廃墟に反響して虚ろに響いた。

 電力が途絶えた街で、太陽光発電の残り電力だけが彼らのマイクを支えていた。


 街の外では、放牧者たちが夜を越えていた。

 焚き火の傍らで、誰かが言う。


「都市の連中は、まだ“食べないこと”を信じてるらしい」


「食べないことは、生きないことだ」


 羊たちの呼吸が白く立ち上る。

 彼らはその息を見つめながら、「息をする」という単純な行為に、かつての祈りよりも深い意味を感じていた。



 だが、思想の残滓は野にも届いた。

 ある夜、ひとりの若者が放牧の輪から離れ、焚き火の中にナイフを投げ入れた。

 彼は光明運動の古い信者で、かつて動物実験の研究者だった。


「殺すたびに、心が削れていくような気がしていた。

 でも、今は違う。殺さなければ、羊も、俺も死ぬ」


 ナイフの刃が赤く光り、

 夜風の中でカランと音を立てた。

 それを見ていた老人が言った。


「お前はもう神を恐れていない」


「神はとうにいない。そこにあるのはただ、選択のたびに残る“手の熱”だけだ」



 都市では、その翌日、光明運動の聖堂跡で自爆事件が起きた。

 「動物を殺す人間こそ地獄に堕ちる」と叫んだ若い信者が、ガソリンを被って火を放ったのだ。


 彼女の名は報じられなかった。

 けれど、彼女の焼け焦げた手には、“草の種”が握られていた。


 それを見た者が、「彼女は地獄ではなく、土に還ろうとしたんだ」と、そう呟いた。



 二〇三七年、世界は再び静かになった。

 人々はもう争わなかった。

 ただ、それぞれが自分の信じた“生き方”を選んで、それぞれの方向へと消えていった。


 都市に残った者は、光を信じて死に、野に出た者は、呼吸を信じて生きた。


 そして、誰もがどこかで知っていた。


「どちらの生も、ロザリーの視線の中にある」



────


 二〇三七年。


 街に人影はなかった。

 けれど、夜の街路には今も声が流れていた。


 それは、首相たちの声だった。

 すでに死んだ者も、生き残っている者も、どの国でも同じように“声だけが生きていた”。



──


 ──日本


 誰もが逃げなかった。

 誰も命令したわけではない。

 ただ、誰もが「明日も仕事がある」と思っていた。


 八百屋は店を開け、教師は子どもたちにオンライン授業を続けた。

 鉄道会社は、電力が落ちた区間を人力で整備し、自治体は避難指示の放送を“予定どおり”流した。


「避難を推奨します──」


 だが、その声を聞いて動く者はいなかった。

 駅前では、パン屋が売れ残りの食パンを並べ、隣で誰かが焼きそばを炒めていた。

 遠くで、サイレンが風に溶けていった。


 人々は知っているのだ。

 何度も繰り返された地震が、戦争の記憶が、伝染病の記憶が……彼らは知っている。

 逃げる場所も、逃げる方法も無いということを。


 そのとき、誰かが空を見上げた。

 靄の向こうに、ロザリーの影が見えた“気がした”。

 だが誰も何も言わなかった。

 夕飯の支度があるのだ。



 夜、都市のスピーカーが一斉に鳴った。

 官邸から、首相の声が流れた。


「皆さん、恐れないでください。

 我々はまだ、この事態が対処可能であると認識しています」


 その声は淡々としていて、まるで気象情報か株価報告のように響いた。


 だが、誰も嘲笑しなかった。

 誰も拍手しなかった。

 ただ、窓の外を見ていた。

 その声が、明日も続くようにと願いながら。



──


 ──アメリカ合衆国


 最初に爆発したのは、怒りだった。

 「ロザリーは神か、悪魔か」──それを議論する前に、民衆は銃を手に取った。


 宗教団体はロザリーを“終末の徴”と呼び、教会の鐘が鳴るたびに信者たちは広場に集まった。

 「祈りで救われる」と叫ぶ声と、「銃で撃ち殺せ」と叫ぶ声が、同じ通りでぶつかり合った。



 ワシントンでは、議会が機能停止に陥った。

 議員たちは地下シェルターに避難し、テレビでは代議士たちが互いを非難し続けた。


「民主主義は生きている!」


「神の名を利用するな!」


「軍を動かせ! 神を守るために!」


 やがて中継は途切れ、ニュースチャンネルは過去の映画を繰り返し流すようになった。


『インデペンデンス・デイ』


『デイ・アフター・トゥモロー』


 スクリーンの中で、人類は何度も勝利した。



 中西部。

 テキサスでは、牧場主たちが民兵を組織した。

 「ロザリーは政府の陰謀だ」という噂が広がり、信仰と陰謀が混ざった“新しい教会”が生まれた。


 礼拝堂では銃が祭壇に並べられ、牧師は叫んだ。


「これは我らの十字架だ!」


 群衆が叫び、発砲音が天に響いた。

 誰も、どこに撃っているのか分からなかった。



 ロサンゼルスの丘に残ったわずかな電力で、ひとつの映画が撮られていた。


 タイトルは『Rosalie: The Last Stand(ロザリー:最後の防衛線)』。

 脚本は五人の元映画学生、監督は七二歳の老兵。

 彼らは軍が放棄した撮影所に籠り、わずかな燃料と照明を使って、物語を紡いでいた。


「この映画が完成する頃、この国はもう存在しないかもしれない」


 それでも、彼らはカメラを回した。


 ストーリーは単純だった。

 世界を滅ぼす“ロザリー”という怪物を、アメリカ軍の生き残りが打ち倒す。

 その結末で、少年兵が言う。


「俺たちは負けない。神が見捨てても、人は立ち上がる」


 監督は涙を流しながらカットを叫んだ。


「これが我々の祈りだ、このフィクションこそ真実だ!」


 映画は完成した。

 だが、劇場はもう存在しなかった。

 ネットワークも途絶え、映画館も燃え、観客はいなかった。


 それでも、彼らは映像を送信した。

 基地跡地に残された衛星通信を使い、最後の一本のフィルムを宇宙へ向けて発信した。


“To anyone who still watches the stars.(まだ星を見る誰かへ)”


 その映像が届くことはなかった。

 けれど、彼らはそれで良かった。


 監督の遺書には、こう書かれていた。


「我々は勝った。

 なぜなら、物語の中では人間が神を殺せたからだ」



 国を失うことが滅びならば、アメリカは滅びたのだろう。

 だが、“勝利の幻想”だけが世界に残った。

 それが彼らの信仰であり、最後の宗教だった。



 そして、ワシントンの大統領府。

 建物は封鎖され、警備隊は半数が脱走していた。

 唯一残ったのは、広報官の女性ひとり。


 夜明け前、彼女は大統領執務室のマイクをオンにした。

 録音装置がまだ動くことを確認し、ゆっくりと息を吸った。


「アメリカ国民の皆さん。

 この国は、いまも自由であり続けます。

 ただし、それは“逃げる自由”です」


 彼女はマイクを切り、胸のピンバッジを机に置いた。

 星条旗の中央に、白いラベルで書かれていた。


“In God We Trusted.”



 その日、アメリカは静かに消えた。

 信仰と自由の国は、どちらも守ることができなかった。

 それでも、誰も後悔しなかった。

 何故なら彼らは、最後の瞬間まで──信じていたのだから。



────


 ──フランス


 パリの朝は、いつも通りに始まった。

 カフェではコーヒーの香りが漂い、新聞には“ロザリー現象、欧州に波及”という見出しが踊っていた。

 だが、その隣のページには、昨日焼け落ちたリヨンの肉市場の写真が載っていた。


 “自由の国”は、いまや何も自由ではなかった。



 最初に崩れたのは、哲学者たちだった。

 テレビ討論番組で彼らは「ロザリーとは何か」を議論した。


「あれは自然の理の回帰だ」


「いいや、進化の逸脱だ」


「彼女は神かもしれない」


 だが数時間後、その番組の司会者が自宅で自殺していた。

 遺書には、たった一行。


“言葉では、死を止められなかった”



 芸術家たちは、それでも筆を取った。

 ロザリーを描く者、ロザリーを演じる者、ロザリーに祈る者。

 ルーヴルの中庭では、全裸のパフォーマンス集団が血で“Nous sommes la viande(我々も肉だ)”と描いた。


 観客は拍手し、警官は逮捕し、評論家は“ポスト人類主義の象徴”と称賛した。

 そして、翌朝──彼らの全員が姿を消した。



 マルセイユでは暴動が起きた。

 漁師たちが港を封鎖し、ロザリーを「地中海の侵略者」と呼んで火炎瓶を投げた。

 だが、次の瞬間、海から何かが浮かび上がった。

 それがロザリーだったのか、ただの波だったのかは誰も分からなかった。

 群衆は逃げ惑い、火炎が風に煽られ、


「Vive la France!(フランス万歳!)」


 その叫びが最後に響いた。



 政府は声明を出した。


「我々は思想の国だ。思想は死なない」


 けれど、その夜、パリ全土が停電した。

 シャンゼリゼ通りの街灯が消え、エッフェル塔の光が落ち、人々は初めて“暗闇”の意味を知った。


 パン職人がつぶやいた。


「哲学では、パンは焼けない」


 その言葉が、翌日の新聞の見出しになった。



 そして、モンマルトルの丘の上。

 一人の老詩人がノートを閉じた。

 ロザリーを描こうとして、何も書けなかった。


「理性で説明できないものを、我々は“神”と呼んできた。

 だが彼女は、神よりも静かだ。」


 夜のパリを見下ろしながら、詩人は静かに立ち上がった。

 遠く、セーヌ川のほとりで、靄のような影が揺れた“気がした”。



---


 ──イタリア


 バチカンの鐘が、鳴らなかった日。

 ローマの空は異様に静かだった。

 サン・ピエトロ大聖堂の広場には巡礼者が集まり、誰もが空を見上げていた。


 ロザリーが上陸したという噂が広がったのは、その前夜だった。

 ヴェネツィアの残骸から発見された生体反応。

 “それ”が再び動き出したという情報は瞬く間に拡散し、祈りと恐怖が入り混じった混乱が広がっていた。



 ローマ法王庁は声明を出した。


「ロザリーとは悪魔ではない。

 彼女は人類の傲慢を映す鏡である」


 その言葉を、誰も理解できなかった。

 神が悪魔を否定せず、悪魔をも受け入れる──その曖昧さが、信仰を壊していった。



 ミラノでは神父が説教をやめ、沈黙した。

 「彼女は赦しだ」と呟いた後、教会の扉を閉じた。

 翌朝、祭壇の上にロザリオと血の跡だけが残されていた。


 ナポリでは群衆が神に祈りを捧げながら、その足でロザリー像を掲げた。

 「彼女もまた神の被造物だ」と。

 神と怪物が並ぶ行列は、世界のどこよりも美しかった。

 だがその夜、海が赤く光り、沿岸部が消えた。



 バチカンでは、緊急会議が続いていた。

 司教たちは神の沈黙を恐れ、互いを責め立てた。


「これは信仰の試練だ!」


「違う、科学が神を侮辱した報いだ!」


 怒号が響く中、一人の若い修道女が立ち上がった。


「もし彼女が赦しなら、なぜ、祈る者までも飲み込むのですか?」


 誰も答えることはできなかった。

 ただ、老司教が聖書を閉じて言った。


「神は、もう黙っておられる。」



 翌朝。

 サン・ピエトロ大聖堂の前に、

 “新たな十字架”が立てられていた。

 それは金ではなく、鉄の梁でできており、上には白布が掛けられていた。


 その布には、血でこう書かれていた。


“神は死なず、ただ、沈黙する。”


 その日を境に、イタリア全土で祈りの声は消えた。

 代わりに広場で響いたのは、歌だった。

 神に捧げる賛美ではなく、自分たちがまだ“人間”であることを確かめるための歌。



 夜。

 ローマの街を見下ろす丘で、ひとりの修道女が祈った。


「主よ、赦しをください。

 私たちは、信じることをやめられません」


 その涙が頬を伝う時、遠くの地平線に、海のような光が瞬いた。

 それは雷ではなく、ロザリーの呼吸だった。



────


 ──スウェーデン


 雪は静かに降り続いていた。

 マルメの港は凍りつき、北風が波を砕く音だけが響いていた。


 “ロザリー党”と呼ばれる政党が、肉食の完全禁止を掲げて政権を握ったのは、わずか一年前のことだった。

 “ロザリーは地球の良心である”──そのスローガンが印刷された青と白の旗が、今も街の至るところに残っている。



 首都ストックホルムでは、政府庁舎の会議室に三人の閣僚が残っていた。

 エネルギー大臣は痩せこけ、声を失っていた。


「暖房を止めろ。

 熱は罪だ。ロザリーは熱を探す」


 誰も、反論しなかった。

 凍てつく空気の中で、窓の外の人々が薪を燃やす光が見えた。

 倫理を守るために火を止め、生きるために火を焚く──その矛盾が国を引き裂いていた。



 学校では給食が廃止され、代わりに“倫理栄養指導”という授業が行われた。

 教師は黒板にこう書いた。


「食べないことは、命への敬意です」


 教室の後ろで、子どもが倒れた。

 だが、誰も立ち上がらなかった。

 教師が静かに言った。


「痛みは、祈りです」



 郊外の畜産農家では、最後の牛が倒れていた。

 飼い主の老人は膝をつき、頭を抱えた。


「もう神も倫理も、何も食わせちゃくれねぇ……」


 遠くで狼の遠吠えが聞こえた。

 その音は、もはや動物だけのものではなかった。



 やがて国会は閉鎖され、市民は自発的に“沈黙の日”を設けた。

 誰も語らず、誰も食べず、ただ雪の中に座り込んだ。

 氷点下三〇度の夜、広場に散らばった人々は、まるで祈るように凍りついていた。



 数週間後。

 スウェーデン政府は最後の通信を送った。


「倫理は我々の誇りであり、我々の墓標でもある」


 その電波は北海を越え、氷原の向こうで拾われた。

 記録装置のタイムスタンプは、2038年1月12日 03:42。


 それが、この国の最後の呼吸だった。



 誰もいない都市で、スピーカーが鳴り続ける。

 風がケーブルを揺らし、ノイズ混じりの言葉が空へ溶けていった。


 “国”というものがとうに死んだ後も、彼らは声だけの国家として生き残っていた。

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