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Rosalie: A Human History  作者: 田中


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第一七話 When Fire Becomes the Signal

 かつて人は、交易のために海を渡った。

 いま、生命は、生きるために同じ路を渡っている。


─歴史学者 アンナ・モラレス『文明の潮流』より



────


 ──オーストラリア、ダーウィン郊外 


 二〇三一年一一月一七日 午前七時三二分。


 潮の匂いがまだ湿った朝のことだった。漁師のトラックは砂丘を越え、岸辺へ降りる。

 波打ち際に、見たことの無い異物が散らばっていた。

 銀色に濡れた薄膜、大小さまざまな球体──太陽が当たると内部が淡く虹色に揺れる。


「なんだこれ、卵か? 気味が悪いな」


 男は素手でひとつ拾い上げ、指先で突いた。

 殻は弾力があり、冷たく、湿り気を帯びていた。周囲のもやが、青白い光をほんの少し反射する。


 海岸警備隊が呼ばれ、現場は即座に“未知物質扱い”となる。

 放射線の簡易検査が行われ、値は微弱だが平常の範囲を逸脱してはいない。現場指揮は、その場で妥当な判断を下す。


「封じ込めた上で廃棄。焼却が最も確実だ」


 これは、ごく一般的な手順だった。

 見慣れぬ生物に対する規定の手引きにはそう記載されてある。炎は目に見える解決である。

 現場の士官は、焼却装置のスイッチを入れた。


 燃え上がる火柱に向けて、卵の塊が投げ込まれる。

 殻が割れ、はじける。

 煙が立ち上り、鋭い焦げる匂いが拡がった瞬間、砂の中から黒い影がぬっと出る。長い尾が波打ち、湿った体が砂を蹴る。

 見たことの無い、何かの幼体が、炎の中を避けて──ではなく、炎の外へと同時に滑り出した。


 士官たちは驚いて後退する間に、幾匹もの幼体が砂の溝へ潜り込むのを見た。

 小さくて──だが動きは速い。

 人間の腿に噛み付く、というより丸呑みに近い素早さと、無慈悲な効率性で人々を襲った。

 ほんの数分で、静かな海岸は血と粘液で汚れ、辺りは静謐を取り戻していた。


──


 ──アフリカ大陸南東部 モザンビーク・漁村


 同日 午後三時一一分


 村人たちは、「海からの石」を焼いた。

 村の長老が「疫病の種だ」と言い、集落の安全のために燃やすことを提案したのだ。

 火を焚き、黒煙の中から小さな影がばたついた。

 その影が黒煙の中から飛び出し、周囲でその光景を見つめていた子供の悲鳴が上がり、母親たちが間に合わずに一人、また一人と消えていく。

 誰も、それが“生物”だとは信じられなかった。

 焚き火のせいだ、潮のせいだ、誤って転んだのだ──ニュースはそう処理した。


──


 ──メディア断片(字幕、テロップ、SNS投稿の切り抜き)


〈DARWIN — REEF HAZARD: LOCAL AUTHORITIES BURN UNKNOWN BIODEBRIS(ダーウィン-サンゴ礁の危険:地方当局、正体不明の生物残骸を焼却)〉


〈VILLAGE FIRE: THREE MISSING AFTER BONFIRE — ACCIDENT?(村の火事:焚き火の後3人が行方不明-事故か?)〉


〈#beachfind #weird #oceanrocks〉


 だが、断片はつながらない。

 国境を越えた情報は断片化し、専門家の警告はニュースの間に埋もれ、SNSでは短いビデオが一晩で消費された。


 燃やした現場の動画は、“爆発”に見えるショック映像として拡散される──炎がはじけ、黒い生き物が飛び出すその瞬間を、人々はホラー動画として笑い飛ばした。


──


 ──研究者メモ(後日、解析室に残された簡潔な記録)


2029-10-02 18:45(UTC)

サンプル:海岸漂着卵塊(複数)

表皮:タンパク質薄膜(耐寒性)、内部酵素は低温で不活性→加熱で可逆的変性後に活性化。

仮説:卵殻は休眠状態を保つ構造を有し、外的熱(高温)を刺激因子として用いる。焼却処理は休眠解除条件を満たし、一斉孵化を誘発する危険がある。

応答策:冷却・凍結処理、低温隔離が最も安全。


 だがそのメモが広く読まれることは、初期段階では無かったのだ。各地の“燃やす”判断は、短期の安全確保に見えたのだから。

 誰も予想しなかったのは、人間の“安全確保”の態勢が、世界規模で孵化の同調を誘発していくことだった。


──


 ──世界地図(ニュース・速報の同時刻分布図)


 赤い点が増えていく。

 海岸線の赤は、ただの漂着物の処理から始まった。

 誰も気づかないうちに、炎が国々の岸辺で同時に種を目覚めさせる。

 燃やされた卵から生まれた幼体は、最初は小さくとも、都市や港で餌を見つけるたびに成長していく。


 人は火を恐れず、まず火を選ぶ。

 だがこのとき、火は種を呼び覚ました。人間の原初的な反射が、地球規模の連鎖へと繋がっていく。



────


 ──日本 東京都永田町・内閣府危機管理センター 地下三階


 二〇三一年一一月一二日 午後一時。

 

 無機質な蛍光灯の下、モニターに北米大陸の衛星写真が映し出されている。

 点滅する赤いマーカーの数は一週間で二倍になっていた。


「現時点で、日本への直接的な影響は確認されておりません」


 官房副長官・長谷川泰造の口調は、原稿を読み上げるだけのものだった。

 会見室では報道陣のざわめきが増す。


「“直接的”とは?」


「漂着物の報告が出ていますが?」


 質問は繰り返されたが、長谷川は何度も同じ答えを繰り返した。


「政府として確認はしておりません。民間の推測にはコメントを控えます」


 同時刻。鹿児島県・枕崎沖。

 漁船〈第三龍星丸〉の船員たちが、引き上げた定置網の中に異様な塊を見つけていた。


「なんだぁこれ、クラゲか?」


「気持ちわりぃなぁ」


 半透明の卵状の塊は、わずかに青白く光を放っていた。

 海水に溶けるような粘液が絡み、触れると微かな温かさがあった。


「腐ってんのか?」


「いやぁ……生きてるみたいだ」


 港に戻ると、町役場から派遣された環境課職員が塊を引き取った。

 彼は手袋越しに感触を確かめ、「漂流ゴミだな。生物学的危険は無し」と記録した。

 そのまま回収車の焼却ボックスへと放り込む。

 灰色の煙が上がり、炉の中の温度計が一瞬だけ跳ね上がった。


「おかしいな……いつもより燃え方が強い」


 職員が呟いたが、周囲は聞いていなかった。

 報告書の備考欄にはただ、「海洋プラスチックと思われる」とだけ記された。



 ──東京大学海洋生物研究所


 二〇三一年一一月一三日 午前八時。


 研究員の一人、佐藤理央は焼却施設から送られてきた映像を確認していた。

 熱反応センサーのログを拡大すると、短時間だけ異常な発光値が記録されている。

 彼女は上司に報告した。


「金属燃焼反応とも違います。バイオマーカーが出ている可能性が……」


「理央君、それは公的に“確認されていない”ものだ」


「でも、海洋ゴミでは説明が──」


「報告書を修正しなさい。憶測は書くな」


 理央は唇を噛んだ。

 机の上には、北米海岸で採取された試料の顕微鏡写真がある。

 構造は一致していた。


 その夜、理央は研究所の屋上に出た。

 東京湾の向こう、海面が鈍く光っている。

 漁火とは違う、もっと静かで、波と一緒に脈打つような光だった。

 彼女は携帯端末を取り出し、動画を撮ろうとしたが、手が止まった。

 撮影ボタンを押す前に、光は消えた。



 ──鹿児島・志布志湾


 二〇三一年十一月一四日 午前六時。


 前日の夜に出港した小型漁船が、帰港予定時刻を六時間過ぎても戻らなかった。

 海上保安庁が捜索を開始する。

 海面には、無人の漁船が漂っていた。

 船体は損傷なし。

 ただ、船底の排水口から青い粘液がゆっくり滴っていた。



 ──首相官邸地下の非常連絡室


 二〇三一年一一月一四日 午後九時。


 関係閣僚が集まる中、内閣情報官が低い声で言った。


「北米から漂着した“未確認有機体”のDNAサンプルを、各国が同時に解析を試みています。カナダ側では、もう……」


「もう、何だ」


「……行方不明です。研究者ごと」


 会議室に沈黙が落ちた。

 総理が小さく呟く。


「報道は?」


「すでに、規制済みです。民間のSNSは“海洋汚染”の扱いに統一されました」


 誰も、正しい言葉を選べなかった。

 “汚染”でもなく、“災害”でもなく、“侵食”でもない。

 それは、まだ名のない“現象”だった。



 焼却されたはずのものが、

 海の底で静かに息をしていることを、

まだ誰も知らなかった。


──


 ──イギリス ロンドン南部・自然史博物館地下 封印された生物保存室


 二〇三一年一一月一五日 午前九時二八分。


 外では秋の雨が断続的に降り、天井の配管を伝う水滴が一定のリズムで落ちていた。


 研究員アビー・ウォルトンは顕微鏡のピントを合わせながら、

 紅茶を冷ますことも忘れて記録ノートをめくっていた。

 机の上のガラス容器には、北米から軍経由で送られてきた“未確認有機サンプル”。

 英国防省の印が押された封筒には、「生体試料 RZ-02」とだけ記されていた。


 彼女はスライドガラスに映る構造を見て眉を寄せる。

 細胞核の形が歪んでいる。

 左右非対称、規則性を欠いている。

 だが死細胞ではない──周期的な代謝反応が残っていた。


「これ、本当に“死んでる”んですか?」


 アビーの問いに、背後の上司モーガン博士が何度目だと言いたげなため息をついた。


「そのはずだ。輸送時に凍結保存している。生きているなら、もうとっくに暴れている」


「でも、代謝が……ATP反応が確認できます」


「機器の誤差だろう。論文にするな。英国は、まだ沈黙を保つ」


 アビーは口を閉ざした。

 机上の端末には、各国研究機関との暗号化通信が並ぶ。

 カナダ、ドイツ、フランス──どの国も、データ共有を“停止”していた。

 ただ、画面の隅にひとつだけ未読のメッセージが残っている。


 差出人:“E. Hudson”。

 タイトル:“Don’t Let Them Burn It.(これを燃やすな)”


 アビーはクリックしかけて、手を止めた。

 それは北米の研究者──行方不明になったと報道された人物の名前だった。



 その夜。

 博物館は閉館し、地下の保存室には誰もいないはずだった。

 だが、防犯カメラの映像には微かな光が走っていた。

 サンプルが入ったガラス容器の中で、淡い青白い光が揺れている。

 温度センサーがわずかに上昇。

 モニターの端で、観測値がゼロから一に変わった。


 翌朝、出勤したアビーは机の上のノートを見つめて固まった。

 昨夜、自分が書いた覚えのない文字がそこにあった。


“It breathes in silence.(それは、沈黙の中で呼吸している)”



 彼女はペンを落とした。

 背後の換気ダクトから、空気が“ふっ”と逆流した。

 通路を通して、どこか遠くで金属が擦れる音がした。



 午後、博物館の広報が声明を出した。


“誤作動による火災報知機の作動について”


 記事は、数時間で削除された。

 その日、アビー・ウォルトンが帰宅することは無かった。


 ロンドン中心部を流れるテムズ川の護岸では、

 清掃員が“クラゲのような塊”を拾い上げていた。


「ロンドンでも汚染か」


 彼は笑ってそれをゴミ袋に押し込み、足で踏み潰した。


 その夜、ロンドンブリッジ下流で観測された放射線量が、

 過去最高値を記録した。

 しかし、その原因は“機器の異常”と発表された。



 “観測”とは、恐怖を距離に変える技術である。

 だが、距離を取った瞬間に、現実は観測者の足元に立っている。


──


 ──ヨーロッパ連合 ブリュッセル・ヨーロッパ連合理事会本部


 二〇三一年一一月一六日 午前一〇時三二分。


 厚い防音ガラスの向こうでは、曇天の空が街を覆っていた。

 理事会のテーブルを囲む二〇余りの国旗が、重苦しい空気の中で揺れもせず立っている。


「スペイン沿岸での“失踪”は確認済みだな?」


 議長のミュラーが言った。

 スクリーンには、バレンシア沖で撮影された漂流物の映像が映っている。

 灰色の波間に光る、半透明の塊。

 撮影者は漁師で、翌日には消息を絶った。


「確認済みです。しかし、バルト海での報告は──」


「ドイツ側はフェイクと判断している。衛星写真に影響はない」


「だが、スウェーデンの研究班はDNA配列を検出している!」


「科学的根拠が不足している。我々は“事実”を扱うべきだ」


 議論は次第に声を荒げ、やがて経済委員の一人が言った。


「港を閉鎖すれば、物流が崩壊する! 特にロッテルダム港を止めるなど──」


 沈黙が、その場を支配する。

 誰もが分かっていた。止めれば救えるかもしれない。だが止めれば、ヨーロッパが止まる。


「では決定だ。──“EU生物安全共同調査委員会”を設置する」


 議長の木槌が静かに鳴った。

 それは、“動くための決定”ではなく、“止まるための儀式”だった。



 ──ベルギー北部・オステンドの沿岸警備署


 同時刻。


 灰色の海に浮かぶ異物を確認したとの通報が海上警備隊へと入る。

 警備艇が現場に到着したのは通報から約四〇分後だった。

 波間には、光沢のあるゲル状の塊が漂っていた。


「クラゲか?」


「いや……金属みたいに硬いぞ」


 隊員が手袋をはめ、網で引き上げる。

 塊は水面から出た瞬間、微かに光を放った。


「放射線、計測──ゼロ。問題なし」


 その言葉で、処理は終わった。

 塊は港湾清掃車に積み込まれ、焼却炉へ運ばれた。

 誰も、それが“燃えない”ことに気づかなかった。



 ──ブリュッセルのEU広報部


 午後五時〇〇分。


 記者が詰めかける中、報道官が淡々と読み上げる。


「本日、ヨーロッパ連合理事会は、北米における未確認生物災害への共同研究体制を承認しました。

 現時点で欧州圏内への影響は確認されておりません」


「報告された漂着物は?」


「すべて自然由来です。汚染物質の検査は完了しています」


「スペインの漁村が封鎖されているとの情報がありますが?」


「安全上の措置です。ご心配には及びません」


 フラッシュが光るたびに、報道官の笑顔が一瞬だけ引きつる。

 彼女の背後──巨大なEU旗の青い布地に、夕陽が反射してゆらめいた。

 それは、まるで水面のように揺れていた。



 その夜。

 オステンド港の警備員が、夜間パトロール中に異常を報告した。


「第七倉庫の中に……動くものがいる」


 しかし、その無線は途中で切れてしまった。

 翌朝、倉庫の床には黒い粘膜のような跡が残っていた。

 港湾局は“石油漏れによる汚染”と発表した。



 “議論”は安全な檻だ。

 声を上げるほど、現実は外へ逃げていく。

 ヨーロッパは理性を信じ、理性に食われていった。



──


 人間は“未知”を恐れる。

 だが、恐怖を手放したときこそ、本当の終焉が始まる。

 世界はまだ静かだった。

 ただ、あらゆる“音”の前に、“沈黙”があった。

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